第14話 静かな生活



 深夜三時過ぎ、山本望は刑事モノの洋画が放映されているテレビ画面を眺めていた。まだ微かに幼さを残す十四歳らしい顔立ちをしている。左の目元に残る薄い灰色が、火傷を負った過去を物語っていた。

 急に鳴り響いたドアを叩く音に、望は腰を上げた。眠たそうな目元を擦る。狭い室内だが玄関へと急いだ。

 ドアを開けると、一昔前を感じさせる派手目な婦人服に身を包んだ母親が、顔を真っ赤にして笑っていた。望は嫌な顔一つせずに肩を貸す。狭いキッチンを通って、狭い居間に運んだ。頭一つ分身長の低い母親を、畳の上に座らせる。

「ありがとうねぇ、望」上機嫌に笑った。

「水飲む?」

「飲む」と答えて、母親は顔を机に突っ伏した。

 うん、と返事をして、望は狭いキッチンへ向かい、グラスに水道水を注ぐ。居間に戻って母親の肩を優しく叩いた。グラスを持たせて、向かい側に腰を下ろす。

 室内には小物が散らかった小さな化粧台に、古めかしい箪笥が二つ、そして派手目な婦人服が数着掛けられたハンガーラックがある。そのどれもが狭い空間をさらに狭めていた。

 母親は水を一気に飲み干して、机に片肘を付いた。閉じてしまいそうな瞼を必死に開いて、望に目線を向けている。

「何?」望は笑って訊いた。

「大きくなったねぇ」母親はケラケラと笑った。

 望は鼻息だけを吹き出させて、テレビ画面に目線を向ける。

「明日は休み?」母親が訊いた。

「うん」

「どっか出掛けるの?」

「ううん」

 そう、と微笑んで、母親は腕を枕に頭を机の上に置いた。

「何か食べる?」望が訊く。

「甘いパンある?」

「プリンなら」

「じゃあプリン食べたいな」

 望は立ち上がってキッチンに向かう。小型の冷蔵庫からプリンを取り出して、小さなスプーンを添えて母親の側に置いた。

「ありがとう」と母親は顔を上げる。不器用な手つきでプリンを食べ始めた。

「母さんは明日休み?」望は目線をテレビに向けたまま訊く。

「明日? 夜は仕事」

「そっか」

「こんな遅くまで起きてないで、早く寝なさい」急に母親らしい事を口走る。

「いつも起きてるし」と望は笑った。

 会話が止まり、二人はテレビ画面を眺めて過ごす。母親がプリンを食べ終わり、大きな欠伸をした。

「布団敷こうか?」望が訊く。

「じゃあ母さんちょっと着替えてこようかな」母親は立ち上がり、長袖の上着を脱いだ。中に着ている半袖から伸びた両腕には、火傷を負った過去を物語るように、皮膚が所々黒ずんでいる。

 母親は覚束無い足取りで狭い室内を移動して押入を開けた。引き出し式の収納ケースが、目一杯に詰め込まれている。その幾つかを開いて、寝間着を取り出す。

 母親がキッチンに方へ向かうのを見届けて、望は立ち上がり炬燵机を箪笥に立て掛けた。そのまま移動して押入の収納ケースが入っている反対側を開ける。布団一式を取り出して床に敷いた。その間に着替えを終えた母親が、居間に戻る。

「明日何日だっけ?」歯を磨きながら訊いた。

 望は日付を告げる。床に腰を落ち着けて、テレビ画面へ目線を向けた。

「じゃあ明日はお父さんのお墓参りの日だよね?」

 うん、と答える。

「そっか、お昼に行こうか?」

「何時に起こす?」望が訊いた。

「望は予定無いの?」母親が聞き返した。

「明日は何も無いよ」

「三時四時に行こうか。夜までに帰れば大丈夫だから」

「うん」

 淡々としたやりとりが終わり、母親は歯を磨き終えて倒れ込むように布団に入る。望はエンドロールが流れたテレビ画面と部屋の明かりを消して、就寝の挨拶を母親に掛けた後、襖で隔てられた自室へと入った。

 四畳ほどの空間に、質素な学習机と、数十冊の漫画や文庫本が並ぶ小さな本棚があった。どれもが整頓されている。望は壁際で折り畳まれた布団を床に広げて寝そべり、棚から漫画本を取り出した。


 

 昼前、望は目を覚ました。隣の部屋からは小さな体に似つかわしくない豪快ないびきが漏れている。二十分ほど布団の上で転がって、ゆっくりと立ち上がった。

 襖を開ける。仰向けで寝ている母親の苦しそうな寝顔を眺めて、狭いキッチンの横にある浴室に向かった。歯を磨いて部屋に戻る。

 布団を片づけて学習机に腰掛ける。整頓された机上に開いたままうつ伏せにされた文庫本を手に取り、続きを読み始めた。

 しばらくして、今度は漫画本を棚から取り出し、それを読み始める。母親のイビキを聞きながら、本を読み進めた。

 それも飽きたのか、今度は鞄からノートを取りだした。白紙にシャーペンを走らせる。デフォルメされた人物画が、見事に描かれていく。すぐに白紙を埋め尽くしては次項にまた絵を描き、十四時までを過ごした。

 ノートを閉じて立ち上がる。襖を開けてキッチンへ移動した。小型の冷蔵庫を開けてウインナーの袋を取り出す。フライパンを火に掛けて、それを炒め始めた。

 キュウリとレタスを切り刻んで、サラダを作った。ウインナーと共に皿に盛る。同時進行で沸かしていたお湯をカップに注いで、レトルトの味噌汁を作った。全ての支度を終えて調理器具を片づけ始めようとした所で、母親の声がキッチンに届く。

「良い匂い」布団の上に座っている。青白い顔色とは逆に、表情には穏やかな微笑みを浮かべていた。

「布団片づけて。もう二時半だよ」フライパンとまな板を水に浸しながら、望は答える。

 ありがとうね、と呟いて、母親は言われた通りに布団一式を片づけ、炬燵机を部屋の中心に置いた。そこに望が遅すぎる朝食を並べる。向かい合わせで腰を落ち着けて、テレビの電源を入れてから、二人は口数の少ない食卓をゆっくりと過ごした。


 ドアの鍵を閉めて、二人はアパートの一階へ向かう。望は中学生らしいラフな服装に身を包み、母親は黒を基調とした質素な婦人服を着ていた。

 最寄りの停留所からバスに乗り込み、駅前に向かう。隣同士で座席に腰掛け、言葉も交わさずに車内を過ごす。

 終点の駅前でバスを降りて、電車に乗り換える。変わらず口数は少ないまま、目的の駅で電車を降りた。質素な花束とスーパーに並ぶ寿司を買って、タクシーに乗り込んだ。

「母さん」と切り出したのは望だった。

 何? と母親は疲れを隠した表情だけで訊く。望は深い呼吸で十分な間を取って、淡々と告げる。

「俺ね、高校行かないで働くから」

「何で?」母親は素朴に訊いた。

「働きたいから」淡々と答える。

「どこで働くの?」

「まだ分からないけど、どっかで」

「何かやりたいことでもあるの?」

「別に無いから、働いた方が良いと思って。高校行く意味ないし」声の勢いが若干無くなる。

「高校には行きなさい。大丈夫だから」そういって微笑んだ母親は、目線を前に戻した。

 望は言い足りなそうに口を小刻みに動かしたが、そのまま口を噤んだ。二人を乗せたタクシーは山並みを走り続ける。

 山頂に続く長い石階段の前で、二人はタクシーを降りた。小高い丘の様になっている山並みには、たくさんの墓石が並んでいる。

 望はゆっくりと、顔色が悪く呼吸の荒い母親を気遣いながら、石階段を上っていく。山頂に登り切る手前で横道に逸れて、「山本」と刻まれた墓石の前で足を止めた。

「あぁ、疲れた」と母親が呟く。望は軽く笑った。

 母親は重たい動きながらも手際よく墓石に花を飾り寿司を並べて、線香を上げた。二人並んで中腰になり、目を閉じて手を合わせた。母親は一度だけ鼻を啜り、一度だけ目元を拭った。 

 母親の、気持ちを切り替える陽気な合図で二人は手を解き、寿司に手を付ける。

「良い眺めだね」眼下に広がる景色に目を向けて、母親は話した。

 うん、とだけ返事をして、望は寿司を口に運んだ。

 墓石で眠る故人との思い出を交わすことも、故人への報告もなく、二人は風の音だけを聞きながら過ごした。

 寿司を食べ終わり、母親の手際の良い片づけを終えて、二人は長い石階段を下り始めた。






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