第12話 無殺意
二階へ上がる錆び付いた外階段は、谷村良平が足を踏みしめる度に、貧相な金切り声を囁いている。
幅の広い二階の通路には、使い古された洗濯機や長年放置された様な土埃を被った小さなバケツ、十本程の束で括られた傘など、「双葉荘」に住む人々の程度を表す品がいくつか放置されていた。その合間を縫って、良平は奥の部屋へと進む。
目的の部屋へ繋がる錆び付いたアルミ扉には、「五号室」と小さなシールが貼っている。良平は周囲を見渡して、険しい目線をアルミ扉のドアノブで止めた。ゆっくりと、まるで恐れるように、手を伸ばしていく。
ドアノブは小さな音を立てて、抵抗も見せずに廻った。良平は深い鼻息を吹いて、顔を無表情に変える。静かに、扉を開いていく。
狭い玄関に、取って付けたような古めかしい靴箱がある。入ってすぐに、意外な広さを見せつけるダイニングキッチンがあった。明かりは付いておらず薄暗い。奥の部屋へ続く閉じた襖の隙間から、若干の光が漏れている。
良平は靴を脱いで、ダイニングキッチンへ上がる。無表情は変わらず、間隔の狭い鼻呼吸だけが、その心境を物語る。
ダイニングキッチンは、異様な程に整頓されていた。きっちりと棚に収まる食器。何も載っていない簡素なダイニングテーブルに、一つの張り紙も無い中型の冷蔵庫。そのどれもが、もう役目を果たす事は無いと悟っているかのように、静かに佇んでいた。
良平は畳でもフローリングでも無い、薄緑の床を一歩踏みしめては動きを止めながら、それでもゆっくりと、明かりが漏れている奥の部屋へ近づいていく。その間際で再び立ち止まり、襖に備え付けれた丸形の取っ手を睨み付けた。深く息をして、手を掛ける。のんびりと開いていく襖は、乾いた音を立てた。
明かりの付いた六畳程の和室には、共に黄ばんだ白地の寝具に挟まれ、老婦と見える女が仰向けで横になっていた。頭部に広がる長い黒髪だけが、異様な若々しさを放っている。
良平は襖を半分も開かずに動きを止めて、ただその光景を眺めた。壁際には箪笥が二つ並び、それに小さな炬燵机が立て掛けられている。別の壁には台に載せられた小型の液晶テレビがあり、他にも背の低い小物入れや、雑に入れ込まれた本棚があった。部屋の明かりが、まるで薄い煙でも充満してるかのように、その全てを照らしていた。
生活感を閉じこめたような和室の中で、良平の目線はたった一つの違和感に止まる。老婦が横たわる寝具の横に、不自然に置かれている黒いバッグ。良平はダイニングキッチンから和室の境界線を、未だ跨げずにいた。
老婦は目覚めることを取り上げられたかのように、ただ静かな寝息を立てている。
良平は音のしない深い呼吸を何度も繰り返した後、ゆっくりと和室に足を踏み入れた。老婦と黒いバッグを交互に睨みつけながら近づいていく。その目線を黒いバッグに定めて、腰を屈めた。ファスナーを開ける。
バッグの中には、滑り止めの付いた一般的な白い手袋に、鞘に収まっている中型のナイフ、丁寧に巻かれた細い縄が入っていた。良平の腰が畳に落ちる。まるで怯えるように、口元が震えだした。
老婦に目線を向けて、すぐに逸らす。何度も、同じように目線を向けては逸らした。まるで自身を抱くように腕を組んで、顔の全てを震わせている。
急に携帯を取り出して指を這わせる。その画面には、家族の写真が映し出された。何枚モノ画像を眺めて、目元を拭った。最後に電源を落として携帯をポケットに戻し、震えの止まった顔を上げた。
力の入った無表情が何度も歪んでは元に戻る。バッグから手袋を取りだして両手に付けた。次にナイフを取り出して、すぐにバッグに戻した。動きを止めて目を閉じた後、表情を険しくさせて細い縄を手に取った。腰を上げて、老婦の頭部に近づいていく。
片膝を付いて座る。胸の前で縄を張った。力強く握られた両手が、縄と共に大刻みに震えだした。目元に浮かぶ深い険しさと、口元の弱々しい歪みが、顔に矛盾を生み出していた。
はあぁっ、と音を立てて息を吐き出すと共に、全身の力が抜ける。胸の前に張っていた縄は畳の上に落ちた。肩が上下に揺れている。薄く潰れた目元から涙が溢れ出し、鼻を啜り始めた。
忙しない呼吸音が響く和室の中で、老婦は目覚めることを拒否するかのように、静寂な寝息を立てている。
しばらく泣いた後、良平は手の甲で目元を拭い、顔に険しさを張り付ける。胸の前に再び持ち上げた縄の弛みを、硬い動きで老婦の首に置いた。ゆっくりと、黒髪を巻き込みながら、その首筋に縄を巻く。鼻息が音を立てて、小刻みな呼吸を繰り返す。
縄を握ったまま、良平の表情は再び歪んだ。泣きながら狭く口を開いたが、言葉は出てこなかった。拳に筋が浮かぶほど手に力を込めて、深い皺を目尻に刻むと同時に歯を食いしばり、老婦の首に巻かれた縄を、左右に引っ張り上げた。
数秒して、何かが畳を叩く細い衝撃音が室内に響き始める。良平は目を閉じたまま、ただ縄を引き続けた。食いしばっている歯の隙間から、微かな叫び声が漏れている。
十秒ほどで、室内に響いていた細い衝撃音は鳴り止んだ。それでも良平は縄を離さない。静寂の中、荒い呼吸だけが繰り返されていた。
はっ、と息を吐き出して目を見開き、良平は両手に食い込んでいた縄を放り出した。呆けたような表情で、ここがどこなのか確かめるように、首を動かして周囲を見回す。その目線が、掛け布団が剥がれた老婦の体で止まった。所々黒ずんだ両腕が、紫色に染まった顔の側に落ちている。
良平の目がさらに見開き、すぐさま潰れた。四つん這いで忙しなく、老婦の体に近寄る。その細い肩を掴んで、勢いよく揺すった。老婦は痛ましく薄目を開いたまま、ただ天井を見つめている。
良平は何度も老婦の体を揺すった。次第に表情は歪んでいき、それが嗚咽に変わると共に、畳に顔を埋めた。押さえ込んだ泣き声が、和室に溶けていく。
しばらく続いていた泣き声が、急に鳴り止む。頭を上げた良平の顔には、様々な体液と共に疲れ切ったような無表情が張り付いている。ゆっくりと立ち上がり、和室を出た。
ダイニングキッチンに戻って、襖を閉めた。ポケットから携帯を取り出し、電源を入れて操作する。そのまま耳に当てた。いつもの男が出た。口調は落ち着いている。
「終わったんですか?」
あぁ、とだけ、力なく返した。
「本当に、終わったんですか?」男の口調が静まる。
良平は返事をしない。疲れ切った表情に、怒りが混じる。電話口から、鼻を啜るような音が漏れた。
「妻はいつ返してくれる?」良平が訊いた。
「奥さんは……明日……」男の声が詰まり、その間に、嗚咽のような音が混じる。
「妻はいつ返してくれるんだ?」もう一度訊いた。眉間に皺が寄る。
「ありがとう、ございました」男はそういって、電話口に泣き声を響かせた。
「ふざけてるのかっ」良平は怒声を浴びせる。「何で、何でお前が泣いてんだっ」険しい目元から流れ出る涙を力任せに拭った。
「奥さんは、約束通り、明日、お返しします」男は泣き声を押し留めながら話した。
「当たり前だっ、何だお前はっ、ふざける、なよ」良平は歯を食いしばり、泣き声を押さえ込んでいる。
「すみません」といって男はまた泣き声を響かせた。
「いつ返してくれるんだ。子供達は何をすれば返してくれるんだ? 教えろよ」勢いに任せて言い放つ。
「また、家に帰ってから、電話して下さい」男は泣きながら、鼻を啜りながら、詰まりながら話した。
「今教えろっ。もう返してくれよ。頼む……から」表情から怒りは消え、口調は萎む。
「すみません。また、電話して下さい。その時に、お伝えします」
その言葉を最後に、電話口からは通話の遮断音が流れた。
「何なんだよっ」良平は叫んで、ただ泣き続けた。
しばらくして、ダイニングキッチンには鼻を啜る音も消えた。良平は立ち上がり、覚束無い足取りで部屋を出た。全ての感情を無くしたような虚ろな目線が、宙に揺れている。
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