第10話 天秤
黒ずくめの服装に、紺色のキャップ帽を被り、谷村良平は家を出た。空は今にも夕暮れを作り出そうとしている。
駅に向かう足取りは、焦燥感にはやし立てられている。表情は険しく、鼻息は荒い。その出で立ちは閑静な住宅街の中で、明らかに浮いていた。
自宅から一直線で駅へ向かい電車に乗り込む。目的地まで微動もせずに座席に腰掛けていた。
山梨県と東京都の境目辺りで電車を降り、携帯の画面に映し出された地図を睨みつけながら歩く。寂れた商店街を抜け、侘びしさ漂う住宅街に出た。目線を散らしながら歩道も無い道をしばらく歩き続け、良平は足を止めて顔を上げた。
豪勢な一戸建てに挟まれて、まるで時代錯誤の様な壁の小汚い古ぼけた二階建ての家屋があった。部屋数は上下に五部屋ずつで、二階へ繋がる錆びた外階段が付いている。
道路側の側面には、雨風に晒されたであろう薄汚れたいくつかの投函用ポストと、「双葉荘」と書かれた、やはり薄汚れた表札が張られていた。夕暮れの終わりを告げる暗い日差しが、家屋の陰険さを際だたせている。
良平は険しい目線を家屋から外して、来た道を少しだけ戻る。曲がり角に身を潜めて、携帯電話を耳に当てた。数回のコール音が鳴り、陽気な声の男が出た。
「お疲れさまです、谷村さん。着きました?」
「あぁ」疲れを吐き出すように答えた。
「じゃあ、今から人を殺すわけですけど、お気持ちを聞かせて下さい」男はまるで祝い事のインタビューに勤しむアナウンサーの様に聞いた。
良平は口を開かない。顔には無表情と険しさが、交互に張り付く。
「もしもし?」男は尋ねる。
「約束は、守ってくれ」
「奥さんの事ですか? 当たり前じゃないですか。正直あれですよ、それはこっちの台詞ですからね。だってね、谷村さんが約束破っちゃったら、僕はもう最悪に面白くないわけですから。警察には追われるわ、人は余計に殺さなくちゃいけないわで、てんやわんやですよ」ハハハ、と笑う。
良平は深呼吸で身体に纏う苛立ちを遠ざけて、口を開く。
「一つ、頼みがある」
「何ですか?」喰い気味に返す。
「俺が約束を守ったら、子供達から、返してくれないか?」ゆっくりと、用件を話した。
「そうですねぇ」電話口から、含み笑いが漏れている。「言うと思いましたよ、子供達からって。まぁこの際、はっきり言っときましょう。ダメです」そういって、短く息を吹き出した。
陽気な男の逆なでには反応を見せず、良平はゆっくりと話を繋げた。
「子供達は、いつ返してくれる?」
「それはお楽しみじゃないですか。だってそうでしょ? 映画のオチを先に知っちゃったら、見る気無くなっちゃうじゃないですか。それと一緒で、僕は谷村さんにも楽しんで欲しいんですよ」
ふぜけるなよ。良平は歯を食いしばりながら、口元を震わせた。
「なんですか?」電話口で、男が訊く。
良平は全身の震えと荒い呼吸を押さえつけ、平静に努める。
「何でもない。訊いてみただけだ。断られることぐらい分かっていたからな」些細な抵抗とでも言いたげに話した。
「それにしても、やっぱりそうなるんですね」男は変わらず、飄々と話す。「谷村さんにとって、先に返ってくるのが奥さんか子供達かで何か違いがあります? だってね、谷村さんは出来ればどっちも助けたいわけでしょ? それともやっぱり奥さんの価値は低いんですかね。最悪奥さんは殺されても良いか、って谷村さんはどっかで思ってるって事ですか? いや別に気になったんで訊いてるだけなんですけど、せっかく後少しで取り戻せる奥さんを後回しにしようと思った理由はなんですか?」
良平は口を噤んだまま、顔に無表情を張り付けた。
「まぁ……答えられませんよね」男はそういって小馬鹿にしたような息を吹いた。「変な事訊いてすみませんでしたね。なんだかんだ言っても奥さんは血の繋がりも無い赤の他人ですもんね。何となく気持ちは分かりましたよ。それで、話は変わりますけど、用意しました? 人を殺す道具」
良平の目線が一瞬だけ左右に揺れて、すぐに落ち着いた。
「今から買ってくる」
「やっぱり買ってないんですね。用意しといて良かったですよ」ハハハ、と笑う。「谷村さん、安心して下さい。そんな事もあろうかと、部屋の中にちゃんと置いときましたから。まぁ簡単な道具ですけど、相手は寝ている女性なので、サクッと殺して上げて下さい」
良平は言葉を発さず、ただ呼吸だけを繰り返す。
「あれですよね、まだ本当に人を殺すのかって思ってるんですよね。まぁここからは谷村さんの自由なので、いくら念を押しても仕様がないんですけど、とりあえず言っときますと、谷村さんが約束通り行動してくれたら、奥さんをお返しするのは明日になります。それに、谷村さんがその女性を殺せたかどうかは、当たり前に僕が確認出来るようになってますので、余計な考えは起こさないようにお願いします。まぁ、谷村さんの自由なんですけどね」
「なぜ、その女性なんだ?」無表情のまま、抑揚も無く訊いた。
一瞬だけ会話が止まり、すぐさま電話口の男が声を発する。
「気になります?」若干落ち着いた口調で話して、最後に笑い声を付け足した。
良平は十分な間を取って、あぁ、と答えた。
「まぁ、そうですよね。でも大丈夫ですよ。谷村さんが気に病むような事はありませんので。ちゃんと殺してくれた後に、それでも聞きたければお話します。まぁ、聞いた所でだと思うんですけどね、殺した後だと。じゃあ、他に質問はありますか?」
良平は唾を飲み込んで、ゆっくりと口を開いた。
「他に、方法は無いのか?」
「他に?」男が聞き返す。
良平は口を噤んで、眉間に皺を寄せる。
あぁ、と電話口の男が声を上げた。
「人を殺したくないって事ですね」と笑う。「悩んでますね。そりゃあ悩みますよね。いや、やっと本音が聞けたようで嬉しいです。正直あんまりポンポン話が進むもんで、谷村さんはこういう事に慣れてるのかと思ってましたよ」ハハッ、また笑った。
「無いならないで良い」押さえつけてはいるが、若干の苛立ちが漏れた。
「何怒ってるんですか?」男は変わらず、陽気に話した。「良いですよ、もう一つ選択肢を与えましょう。谷村さんはどうしてもお子さんを取り戻したいそうなので、こうしましょう。奥さんを諦めるなら、子供達をお返しします。あっ、ちなみに人も殺さなくていいですよ。奥さんは僕が殺しますけど。どっちにしますか?」
「ふざけるなよ」今度ははっきりと、口に出した。肩を震わせ、十分な怒りを纏う。
「ふざけるな? 僕がですか?」小馬鹿に訊く。
「何がしたいんだ。俺に用があるなら、俺だけ狙えばいい。家族は関係ない。お前はいったい何なんだ」今にも叫び出しそうに、口元が小刻みに震えている。
「もう、ここで終わりにしますか?」電話口の男は、静かに訊いた。
良平は口を閉ざす。鼻筋が痙攣を起こして、吐き出すことの出来ない悔しさと苛立ちを表していた。
「答えろよっ」男の怒鳴り声が、電話口で響いた。
良平の表情は険しさを帯び、顔中が真っ赤に染まった。つり上がった目元が、見る間に潤っていく。電話口の男は、返事を待っている。
荒い鼻息を何度か吹いて、良平は震える口を開いた。
「約束通り、人を殺す」
「怒鳴ってしまい、すみませんでした」反省を表すように、口調は下がっている。「実は僕もギリギリで、怒るつもりは無かったんですけど、何でだろう、気づいたら怒鳴ってて、本当に不快な思いをさせてしまって、ごめんなさい」
良平は涙を堪えるかのように、表情を歪ませている。
「ほんのちょっとした意地悪のつもりだったんです。谷村さんが奥さんを見捨てるわけ無いだろうって。もし谷村さんが、じゃあ子供達を、って選んだら、僕だって楽しくないのに、思いつきで意地悪して勝手に怒鳴るなんて、もう本当に僕は頭が可笑しいですよ。今後は気をつけます」
良平は声を出さない。目元の潤いが、一筋だけ頬を伝った。
「じゃあ、あの、確認ですけど、場所は双葉荘二階の五号室になります。伝える事は伝えたんで、次は女性を殺し終えたら、連絡して下さい。あの、本当にすみませんでした」
返事を待つような間があって、電話口から通話の遮断音が流れた。同時に、良平の目から涙が溢れだした。携帯を持つ右腕を勢い良く振り上げて、身体の動きを止めた。振り上げた右腕は、力の行き場を失い小刻みに震えている。
口元から小さな嗚咽が漏れると共に、表情は悔しさと悲しみを帯びて歪む。右腕はゆっくりと振り下ろされ、身体に寄り添った。
数秒の嗚咽が止まり、体中に溜まった感情を口を尖らせて吐き出した後、良平は顔を上げた。険しさの中に、惑いは消えている。
深呼吸をして、夕暮れの終わりと共に表情を暗闇に隠した「双葉荘」へ向かい歩き出した。その足取りは、一歩一歩地面を踏みしめている。
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