第3話 第一の選択
谷村良平は息を荒げながら、自宅であるマンションの四階を道路から見上げた。部屋の明かりは付いていない。エレベーターを避けて階段を駆け上がる。玄関に入ると同時に真っ暗な部屋に向かって叫んだ。
「香奈っ、七海、蓮っ」靴を脱ぎ捨て部屋中の明かりを付けながらリビングへ向かう。表情は疲労と喪失感で歪みきっていた。
「カナァ、ナナミィ、レン」明かりの点いたリビングで力なく叫ぶ。トイレから浴室まで、手当たり次第部屋を回る。最後に子供部屋へ入り、綺麗に敷かれた毛布をはぎ取った。
「あぁぁあぁっあああぁぁあ」誰もいない子供部屋で叫んだ。その場に座り込み嗚咽を上げて泣いた。
すぐさま泣き声を止めると、表情を抑えようの無い怒りに切り替えて携帯を取り出す。乱暴に耳に当てた。コール音が一度だけ鳴って、男が出た。
「早いですね。もう着き――」
「お前は誰なんだっ。妻と子供を返してくれっ」怒鳴りつけた後、堪えたはずの涙と嗚咽が戻る。
「頼むよ……金ならいくらでも出す。足りないならどこからでも奪ってくる。警察には絶対に話さない。約束するから……妻と子供達を返してくれ」
「泣かないで下さいよ。釣られてこっちまで泣きそうになるじゃないですか」もっともらしい口調で話している。
「何でもする……嘘じゃ無い……お願い、します」
「あっ、そうだ、ちょっと待って下さいね」男の口調は陽気に戻った。
良平が懇願を口にしていると、玄関からコール音が響いた。同時に電話口から男が話す。
「あの、谷村さん、別に疑ってる訳じゃないんですけど、今家の電話鳴ってます? 鳴ってたら出て貰えませんか? いや、疑ってる訳じゃないんですよ。だけどほら、もし約束破ってたら僕もちゃんと怒って罰を与えなきゃいけないじゃないですか? まぁその場合ゲームは終わっちゃうんで僕の計画全て水の泡になっちゃうんですけどね。まぁ、疑ってる訳じゃないんですよ」時折笑い声が混じる。
良平は疲れ切った表情で無言のまま立ち上がり、玄関へ向かう。靴箱付近に設置されたコール音を響かせる電話機に近づき、受話器を取り上げて耳に当てた。
「さすがですね」男の声が聞こえた。
「目的を教えてくれ」良平は静かな口調で訊いた。
「目的ですか? そうですね、谷村さんを困らせたいって所ですかね? だからあれですよ、谷村さんがもう最高に困ってくれたら、僕の目的は達成されたようなもんですね」男は笑う。
良平の疲れ切った顔に強い苛立ちが混じる。それでも口調は沈んだまま浮き上がらない。
「じゃあもう十分だろ。もう十分だ。絶対に警察には言わない。一生分困ってる。金だって払う。俺の命と引き替えでも良い。妻と子供を返してくれ」
「まだ谷村さん家に帰ってきただけじゃないですか。僕は送迎付きの託児所じゃないんだから」男は変わらずに笑った。
良平の顔が怒りに歪む。歯を食いしばり、洩れそうになる怒号を耐えている。
「妻と、話をさせてくれ。そこに居て、本当に無事なら、話をさせてくれ」
「オホォっ、怒ってます?」
男の陽気な質問を無視して、良平はゆっくりと続ける。
「頼む、声を聞かせてくれるだけでも良い。無事な事を確かめさせてくれ」
「まぁそうですよね、本当に大丈夫か分かんないと谷村さんも気持ちよく動けないですもんね。だけどあれだな、実際にやってみると色々大変ですね、誘拐。正直すでに面倒くさいですもん。それに谷村さんと話したらやっぱりちょっと同情しちゃうし。あっ、そうだ、僕の名前。無いと呼びにくいですもんね。山田花五郎、超適当に考えてみました」ハハハ、と男は笑った。
良平は黙ったまま深呼吸をする。体中に纏う怒りが出てしまわないように口を縛り、堪え忍んでいた。
「じゃあ奥さんと少し話します? 僕も疑われたままだと嫌だし。そうだなぁ、じゃあ今回は僕に従ってくれたご褒美に、奥さんとお話出来る権利を与えましょう。あっ、だけどあれですよ。奥さんにも言っときますけど、無事かどうかだけですよ。どこに居るとか、僕の外見とか、そういうの訊いたらダメですからね。あっ、でもあれですよ、その、愛してるとか、絶対助けるとか、そういう格好良いのなら、まぁ僕も隣で聞いてますけど、全然言っちゃって良いですからね」男は笑う。
良平はもう一度深呼吸をして、ゆっくりと口を開いた。
「言う通りにする。逆らうつもりはない」
「じゃあちょっと待ってて下さい」
男がそう言うと、受話器から音が消えた。良平が険しい顔つきのまま深呼吸を繰り返していると、再び男の声が戻る。
「お待たせしました、奥さんに代わりますね」
すぐさま受話器から、鼻を啜る音が漏れた。
「香奈っ」良平は叫んだ。表情が悲しみに崩れる。「香奈……良かった、子供達は?」震える口調で訊いた。
「今……皆一緒に居る」香奈は詰まりながらも、なんとか答える。
「皆無事か?」
「うん」
「良かった」良平の呼吸は安堵で震えていた。溢れ出る涙を何度も拭う。
「ごめんなさい」香奈は吐息の様な謝罪を口にした。
「なんで謝る。無事ならそれで良いから、俺がなんとかするから」確信の無い励ましを掛ける。
「うん」
「蓮と七海にも、パパが助けに行くまで大人しくしてるようにって……伝えといて」声を詰まらせる。
「うん……分かった」
「絶対……助けるから」
「うん……うん」
「なんで……」良平は受話器を耳に当てたまま、床に膝を着いた。力の抜けた表情は、ただ悲しみと混乱に暮れている。受話器の向こうからは鼻を啜る泣き音だけが漏れていた。
しばらく二人で悲しみだけを響かせていると、そこに男が割り込んだ。
「あれ? もう話すことありません?」陽気な口調は変わらない。
「待ってくれ……もう少し」
「だって何も話さないじゃないですか? 僕はもうてっきり二人で愛を叫びあうとかそういう感動的なの想像してたのに」がっかりです、と言わんばかりに口調は下がる。
「子供達の声も、聞かせてくれないか?」立ち上がった良平は、電話機に向かって頼み込んだ。
「ちょっと、急に図々しくなりましたね」男は鼻で笑った。「最終的にそのまま返して下さいって言うつもりですか?」
良平の表情には再び怒りが混ざり始める。
「目的を、教えてくれないか? 俺は何をすればいい? 何をすれば子供達を返してくれる?」
「じゃあ、早速いきますか。やっと始まりましたね、谷村さん。ここからですよ。うぅん、なんかゾクゾクしてきましたね。いや、僕の予想ではとても楽しくなりそうなんですけど、どうですかねぇ。谷村さんの答え次第では、楽しめない可能性も有るわけですけど。まぁ谷村さんは良い人ですもんね。大丈夫かな」
男は存分な独り言を話している。良平は黙り込んだまま肩を上下させていた。
「じゃあ次の二択です。選んで貰うのは、家族の命と、他人の命、まぁつまり、家族を守る為に、全く関係ない赤の他人を殺して欲しいんです。もちろん殺せないと言うなら、綺麗な奥さんと可愛らしい双子ちゃんはこちらで処分させて頂きます。さぁ、どっちを助けますか?」
良平は目を見開いたまま固まった。忙しない呼吸音だけが、その戸惑いを強く表している。
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