第20話

 「全ての確執は前妻であるマリーナ・メルヴィスが急逝した事で、当主であるカダート・メルヴィスが後妻を迎えた事に端を発するってのが良くある話だが、まあ、概ね真実に即してるらしいぜ」


 アシュレイが言う様に、貴族に限らず市井の者でも妻帯者が相方を失った場合に置いて後に新しく妻を娶るのは、女性を迎え入れる事は一般的に見ても珍しい話では無く、正に良くある話だと言える。


 「それが今から十年前……ちょっとした騒ぎになった、と言えば、カダート・メルヴィスが後妻に迎えたレーニャ・ケルニクスはその時既に赤子を連れた子持ちだったってえ事かね」


 「それはカダートの?」


 「さてね……調べちゃあ見たが何せ昔の話だしな、それにカダート・メルヴィスはその赤子を実子だと認知していたらしいし、当然妻になるレーニャ・ケルニクスもそれに沿った証言を残している」


 当時どういった政治的な駆け引きがあったのかは定かでは無いが、貞淑さを貴ぶ貴族の令嬢がまだ未婚にも関わらず、しかも素性も知れぬ男の子供を、不貞の末に孕んだなどとケルニクス家としても認められる筈も無く、二人の結婚を容認するしか対外的にも術が無かったと伝えられている。


 二人の話が真実であったと仮定すれば、当時二歳に満たない赤子の出産時期を考えても、まだ妻帯者であったカダートと未婚の母となるレーニャの間に不義があった事だけは間違いない。


 しかしそれでも前者と後者、何方らも家門の恥である事に違いは無くとも何方がましか、と問われれば答えなど自ずと決まっている。


 「当然故人であるマリーナの実家であったウェインバーグ家からは猛烈な抗議が両家にあったらしいが、詳しい事情は兎も角、頑として譲らなかったカダート・メルヴィスの姿勢にウェインバーグ家としても矛を収めざるを得なかった、と文献には残されていたぜ」


 男子が他所で女を作る、囲う事に関しては倫理的な抵抗など無い貴族社会であっても、愛妾として家に迎えるならまだ納得も出来ようが、妻の喪が明けて直ぐに別の女を、しかもよりにもよって正妻として娶るなど有り得ない話であった。


 まして息子たちには恵まれはしたが、唯一人の可愛い愛娘であったマリーナを失ったウェインバーグ家の当主であるハロルド・ウェインバーグにして見れば、娘の後釜に収まったレーニャに対して、ひいてはケルニクス家に対して抱いた感情は察して余りある。


 何よりも信じて娘を預けたカダート・メルヴィスに、義理の息子に対する怒りの程は筆舌に尽くし難く、後にカダートの戦死を聞いたハロルドが密かに不義理者が、裏切り者が死んだ、と高笑いしたと噂される程に根深い恨みの程が窺い知れ、現在に至るまで修復不可能な関係が続いていたと証明されている。


 「一重に残された孫たちの為にと矛を収めたウェインバーグ家、本当に娘の懐妊と出産を知らず恥を掻かされ続けたケルニクス家、そして当事者たるメルヴィス家……身内と、親族関係となりながらも三者の関係は、カダート・メルヴィスがノートワールで戦死した一年前までは交流すら絶えた最悪の関係だった事は確からしいぜ」


 何処か小馬鹿にした感すら見えるアシュレイとは違い、此処までの話の中でエレナが抱いた感想はまったく異なるモノであった。


 一言で評すなら……それは。


 カダートらしい、である。


 己の中で譲れぬ絶対的な線を定め、それを踏み越えぬ限りに置いて、人の生も死も、愚かさも醜さすらも許容して一定の親和性すら抱いてしまう自分の死生感や倫理感が酷く歪んでいるという自覚をエレナは持っている。


 だからこそなのだろう……カダート・メルヴィスの人となりを知るだけに、歳の離れた友の恥部に触れて尚抱くのは、女に滅法だらしなく、既存の道徳観念からは掛け離れた豪快で奔放な生き方であった。


 呆れはすれど、仕方の無い奴だ、と諦め許せてしまうエレナの感覚はあくまでも同じ男としての、友に対する個人的な感傷であり、それに付き合わされる女たちの、まして身内であるレティシアたちの苦悩を思えばこそカダートを擁護する気になれるかと言えば、またそれは別の話ではある。


 「話はこれで終わらない……ってか寧ろ此処からだな、この騒動でハロルド以上に抵抗を覚えていた人間が身内に居た……それが当時十一歳になる娘のレティシア・メルヴィスって訳さ」


 「レティシアさんが?」


 「ああ、こればっかりは可哀想だと思わんでもないがね、尊敬していた父親が母親を裏切って別の女を囲っていたなんざ、ましてその女が素知らぬ顔で見知らぬ赤子を連れて母親面で家に居座ってるなんざ、多感な年頃の娘には、潔癖な貴族の小娘にはさぞ許せない裏切り行為だったろうよ」


 だからと言って敬愛していた父親には怒りは向けられない、だからこそ恨みの捌け口が、怒りの矛先が後妻のレーニャ・メルヴィスとその子供に向けられたとしても道理に適う、寧ろ自然な成り行きだろう、と。


 「現にレティシア・メルヴィスが家を出奔するまでのこの十年で一度もレーニャ・メルヴィスを母親と呼んだ事が無いって話は有名な逸話だしな……でもそれだけじゃねえ、連れ子だった今のヨハン・メルヴィスが幼少の頃、レティシア・メルヴィスが子守をしていた時に限って何度か大怪我をしてたって噂も残ってる」


 「レティシアさんが抵抗も出来ない幼子を虐待していたとでも言いたいのか」


 知らず語尾が荒くなるエレナにアシュレイは落ち着けとばかりに手を伸ばして制止する。


 「だから言ったじゃねえか、お前さんには酷な話だってよ、けどよエレナ……火の無い所には煙は立たねえんだぜ、言葉を濁して噂って言ったがはっきりと言ってやるよ、これに関しては証言している第三者が居るんだ、つまりは真実ってこった」


 今回ばかりはアシュレイも譲る気はないのだろう、憤りを見せるエレナの黒い瞳を挑む様に真っ直ぐに見据える。


 「坊主憎けりゃ袈裟まで憎いって言うだろう? 只の憂さ晴らしだったのか或いは目障りで憎らしかったから本当に殺したかったのかまでは知らねえよ、けどなレティシア・メルヴィスが機会を窺いながらも日常的に異母兄弟を虐待していた事実は変えられねえ、曲げられねえんだよ、それが証拠に頃合いを見計らってカダート・メルヴィスの指示でお前のレティシアさんとやらは、敷地内にある別宅に軟禁される事になるんだからな」


 「アシュレイさん……やめろ……」


 それ以上は口にするな、と口にするエレナに……だがアシュレイは止まらない。


 「血の繋がりが有ろうと無かろうと……例え母親がどんなにくずな女郎だろうとな、家族に、兄妹に手を出す野郎は最低の糞野郎だ、俺は許せねえ、俺は認めねえ、あの小奇麗で澄ました仮面の内側に在る醜い豚面を……」


 「アシュレイ――――!!」


 身を乗り出し延ばされたエレナの右手がアシュレイの首筋に触れ……重なり合う二人に姿は或いは周囲の目から見れば恋人たちの甘い抱擁の様に映ったかも知れない……だが目の前の現実がそんな生易しいモノでは無い事をアシュレイだけが知っている。


 唇が触れ合う程の距離で自分を見据える二つの黒い瞳は、宿る蒼い焔は妖しく美しく……身が凍える程に冷ややかで、アシュレイは呆けた様に言葉を失う。


 首筋を掴まれているとは言え、エレナの細腕では、握力では、片手だけで大の男の首を絞めるなどと言う芸当が可能な筈も無いというのに、アシュレイは激しく脈打つ鼓動を、感じる息苦しさを感じながらもその手を振り払う事すら出来ずにいた。


 エレナから発せられる気配は見得ざる氷の刃となって、アシュレイの抗う気力すらも根こそぎ打ち砕き、行動の自由すらも奪い去っていた。


 ゆえに知る。


 許可なく呼吸すらも許されぬと、自由意志すらも、尊厳すらも磨り潰し踏み潰す、抗い難き絶対的な恐怖の、畏怖の在処を。


 「黙れ、と言っている」


 耳元で囁かれるエレナの声音は変わらず美しく、だが恐ろしく平坦な声音は更なる恐怖をアシュレイの脳幹に刻み込む。


 「貴様の感情の捌け口にレティシアを、あの子を利用するな、真実がどう有ろうがそれを口実に、理由にしてこれ以上あの子を侮辱する事だけは俺が許さない」


 まだ囀るつもりならその首を飛ばす、と冷酷な眼差しを向けて宣告するエレナにそれがか弱き少女が見せる虚勢であると高を括れる者が居たとするならば、それは愚かな道化だけであろう。


 淡々と……だが感情の揺らぎも迷いも見せず告げるエレナを前にして、植え付けられた死の印象は拭えぬ畏怖となってアシュレイを縛り付ける。


 「あの子に罪が有るのなら、それを裁くのもまた己自身で無くてはならない、あの子の罪はあの子のモノだ……断じてお前が口を挟む問題でも、まして愚弄して良い理由など有りはしない」


 エレナの手がアシュレイの首筋から離れ、身を離す瞬間に交差する眼差しの中、悲しげに、寂しげに揺れる瞳を前に、ふっ、と解放された様に呪縛から解き放たれたアシュレイの身体は力が抜けた様に背凭れへと身を預けていた。


 「貴方の生い立ちや事情を私は知らない、だからアシュレイさんが抱く感情が決して不合理なモノだとも思わない……その悲しみも怒りも憎しみも、誰にも侵す事は許されない貴方のモノなのだから……けれど、なればこそ、人は己にしか分からぬ深き業が有るゆえに……迷い抗いながらも歩みを止めずに歩いて往ける人間だからこそ……私は……」


 纏まりの無いエレナの独白は、頼り無き想いは掠れ往き。


 先程とは異なるエレナの変化に、消え入りそうな儚い風情に、アシュレイの脳裏に相棒と呼べる唯一人の男の言葉が蘇る。


 己が不幸だからと言って誰かを不幸にして良い道理など有りはしないのだぞ、と。


 何時だったかそんな綺麗事を宣う相棒を鼻で嘲っていた己の姿が思い返され……だが今は重く……重く響き、何故か嗤う気には為れない。


 なあ……アトリ、それでも俺はお前を見殺しにした連中を許す気にはなれねえよ……俺は俺を許せねえよ……アトリ、兄ちゃんどうすれば良い……。


 失った者は余りにも大きく……問い掛けに応える声は無い。


 「悪かった……感情を差し挟まないなんて言って置きながら、俺こそが最低の糞野郎だな」

 

 不思議と素直に言葉が口に出た。


 誰かを許し己を許す。


 それは思う程に容易い事などでは無い。


 鬱屈した負の感情は今だ心を蝕み、怒りも憎しみも変わらずこの胸に刻まれている……しかし今のエレナを前にして、これ以上醜い己の姿を晒したいとはアシュレイは思わない。


 交渉はこれで決裂するであろうし、エレナとの関係もこれで終いになるだろうが、最後にけじめだけは付けて置きたかったのだ。


 「話はまだ終わっていないのでしょう、続けて下さい」


 意外なエレナからの返答に、この少女がまだ交渉を終わらせる気が無い事をアシュレイは知る。


 「いいのか? 感情は差し挟まないと誓って言えるが、それでも気分の良い話じゃないぜ」


 「最後まで聞かせて下さいアシュレイさん、貴方が知るという真実を」


 それでも尚エレナが知りたいと望むなら、話すべきなのだろと。

 

 だがアシュレイは思わずにはいられない。


 エレナの見せる激しい二面性がその優しさゆえであるのなら本当に知るべき必要があるのだろうか、と。

 

 親が子を、子が親を、貶め抹殺しようと画策する愛憎入り乱れた醜悪で救いの無い物語の……その続きなどを。

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