第17話

 「感染症の恐れも無い様ですし、まずは一安心と言うべきでしょうね」


 祝杯を上げる、と例えるのは些か大仰ではあったが、心からの笑顔で朗報を喜んでくれる少女の、自分に向けて差し伸ばされた杯にアシュレイは応える様に自らの杯を重ねる。


 硝子の杯に注がれた葡萄酒が杯を重ねた衝撃で水面の様に僅かに揺らぎ……その光景一つ見ても、この場所が普段アシュレイが訪れる、住まう場末の安宿や酒場とは一線を画す別世界である事は疑い様が無い。


 設計の段階で計画的に中庭を配したのだろう、外観をも考慮に含まれた店内の内装は、王国中期を思わせる、また意識させる調度品や装飾は、訪れた客たちの意識を逆行させ、中世を忍ばせる社交場として一時、己の身分すら忘れさせる、貴族の如く振る舞える箱庭として各々が場の雰囲気を楽しんでいた。


 旧貴族の邸宅を改装して営業されてるこの手の社交場は、比較的裕福な中流層が好んで訪れる……云わば貴族の、或いは成功者たちの真似事を気軽に体感し楽しめる一種の遊技場として重宝され賑わいを見せる反面、身も蓋も無い言い方をするならば、特権階級に身を置く者しか通えぬ紳士淑女の社交場を雰囲気だけとは云え、金さえ払えば身分を問わず疑似体験出来る場として市井の者たちからの需要を満たす事で収益を上げる業務形態ゆえに、アシュレイの様な身元の不確かな者でも席を取れる最上級の店であった事だけは間違いない。


 店の定める服装の格を満たす為に、身だしなみを整える為に、アシュレイが浪費した金額は、例え後に必要経費として請求出来るモノだとしても、街のしがない何でも屋、の寂しい懐事情を考えればかなりの出費であった事は否めない。


 しかし、そんな痛手すら忘れさせる程に、今まさにこの場に置いてアシュレイは舞台劇の主役であった。


 男女の垣根を越えて、性別を問わず、同伴する少女に一身に向けられる周囲からの羨望と嫉妬の眼差し。


 中には好奇心が災いして露骨に二人の関係を詮索する無粋な輩も見られたが、人々の注目を集める少女の所作は、社交的な物腰は、公の場に必要な礼節に沿った非の打ち所がない見事なモノであった。


 ゆえに少女を侍らせる、と言う表現はやや適切さには欠けるであろうが、少女を連れている青年もまた身なりの良い紳士であり、若い二人の関係は別にして、彼らがお忍びで訪れた貴族の子息、令嬢である事を少なくともこの場で疑いを抱く者は居なかった。


 「名誉の負傷……って言いたいが恰好付けたあげく助けられちゃあ……な、正直内心複雑なんだが……まあ有難うよ」


 と、本心なのだろう、渋い表情を浮かべるアシュレイに、


 「危険を承知で女を庇い前に立つ、それは誰にでも出来る事じゃない、決して恥じ入るべき行いでは無いですよ」


 少女は……エレナは真っ直ぐに見つめ笑顔を見せる。


 アシュレイの瞳に映るエレナの姿は、普段の男装の麗人を思わせる中性的な服装とは異なる、礼装とまでは往かないが、努めて女性らしい服装は、長い黒髪を結い上げてより大人びた風情を見せるその美貌と相まって、女性らしさを際立たせている。


 普段の言動を鑑みても、着飾った今の姿がエレナ本人が望む、好む姿では無い事くらいはアシュレイも理解はしている……。


 だからこそ、なればこそ、


 それでも場の雰囲気に、格式に合わせ、己を殺し自分を立ててくれているエレナの気遣いに気付けぬほどアシュレイも馬鹿では無い。


 絶世の美姫を同伴させる自分に対して向けられる男共の羨望と嫉妬の眼差しは、エレナ・ロゼと言う少女に対して抱いている感情が、例え純粋な男女間の好意とは異なる複雑なモノであったとしても、男としての自尊心を擽られる、ある種の優越感を満たすモノである事は疑い様も無い事実であるのだ。


 男たちの下卑た欲情や、無神経に向けられる好奇の眼差しを何よりも嫌悪するゆえに、エレナが日頃から常に注意を払って行動しているのだとすれば、この様な場で、この様な姿を晒す事は本来の意に添わぬ、などと軽々しく口に出せぬ程に恥辱すら覚える行為であろう。


 そんな内心の葛藤などおくびにも出さず、親身に自分の身を案じ、怪我の程度の軽さを喜び安堵してくれているエレナの姿を前にして、恩義には恩義で報いようとするどこまでも義理堅く、真っ直ぐな少女の在り様に、安易に見世物の様にこんな場に呼び出してしまった己の迂闊さをアシュレイは悔やんでいた。


 だからこそ本来の目的を果たす事が……いや、アシュレイは逃げていたのだろう、己の醜さを晒す事に。


 交渉とは体の良い言葉ではあったが、その実エレナを利用して金を手にしようという、己の浅ましさに……らしく無く、本当にらしく無く、アシュレイは吐き気を催す程の嫌悪感を己に抱く。


 利き腕が不自由な事を差し引いても、普段よりも長く食事の時間を楽しむ二人の間に閑談こそあれ、本質的な話題が上らないのはそうしたアシュレイの心情ゆえであったのだが……。


 「アシュレイさん、言葉遊びをしましょう」


 と、テーブルから主だった料理が下げられた後にエレナは何気なくそんな事を口にする。


 「一問一答で互いに相手の疑問に答える……どうですか?」


 「別に構わねえけど、そんな遊びが今流行ってるのか?」


 深く疑問を抱く事も無く質問に質問で返すアシュレイにエレナはまあ、と曖昧な笑みを浮かべ頷いて見せる。


 「では私から、アシュレイさんが思っているだろう疑問にお答えしますね」


 エレナは手にしていた硝子の杯をテーブルに置くと、黒い瞳をアシュレイに向け、


 「エレナ・ロゼは仮の名で、本来の私の出自は西域の……貴族の家系に引き取られた戦争孤児です」


 思いもよらぬエレナの告白にアシュレイは言葉を失うが、だがそれ以上エレナが口を開く事は無かった。


 疑問に答えるとは言ったが、真実を告げるとは言ってはいない……ゆえにこれは余興であり遊戯であるのだ、と。


 信じる信じないはアシュレイの側に委ねられているのだ、と。


 言葉を重ねないエレナの姿勢からそれは暗に示され、アシュレイは答えを求め思考する。


 西域の事情に疎いアシュレイではあったが、有り得ぬ話では無い、とは思う。


 エレナが見せる作法は独学で……まして一朝一夕で身に着く種のモノでは無いし、十五、六の少女が身に付けるには過ぎた知識や剣技も、貴族特有の恵まれた学習環境ゆえの恩恵と考えれば腑に落ちる面もある。


 何より容貌の美醜は置いても、エレナの様な黒髪、黒眼と言う身体的特徴が西域でどの様に扱われるかは伝聞や風聞だけでも推して知れる。


 今でこそ民族的迫害は薄まったとは言ってもエレナが生き難い西域を離れ、身分を捨て名を変えて北域に渡ったのだとしても何ら不思議な話では無いからだ。


 「なるほど……ね」


 「納得して貰えましたか?」


 矛盾は少ない……だが無い訳では無い。


 しかし、それが真実かどうかよりは寧ろ何故こんな話題を切り出したのかというエレナの真意の方に、その意図するモノにこそアシュレイは興味を抱いていた。


 ゆえに、アシュレイは頷いて見せる。


 「良かった……では次は此方の番ですね」


 エレナはアシュレイに問う。


 「私に近づいた本当の目的は何ですか?」


 と。 


 沈黙……だがそれは決して長いモノでは無かった。


 「参ったね……本当に情けねえな俺は……」


 また助けられた……逃げ腰だった自分にエレナが助け舟を出してくれたのであろう事を、その瞬間アシュレイは悟る。


 無論それがエレナの善意からかと問われれば違うかも知れない……しかし、自分が誘い、自分が招いたのであれば、話題を切り出すべき責任は何方に有るかなど言うまでも無い事である。


 年下の、それも女の身である少女に諭され、叱られる様は……。


 だらしないなお兄ちゃんは!! もっとしっかりしないと駄目だよ。


 それは嘗て確かに在った……手にしていた忘れ難い光景――――。


 アシュレイは目の前の少女に妹の面影を重ね……同時に肩の力が抜けるのを感じていた。


 「俺とお前は対等だ、だから妙な恩義や義理なんざ止めてくれ、その上でエレナ……お前と交渉がしたい」


 「私は腹芸は苦手ですし、何よりも嫌いですよ……それを理解して貰えているのなら」


 酒瓶を手にしたアシュレイにエレナは無言で杯を傾ける。


 注がれる赤き血潮の如き葡萄酒。


 「ああ、お気に召して貰えるかは知れねえが嘘は無しだ」


 硝子の杯に半ばまで注がれたソレを味わう様に、堪能する様に、エレナはもう一度口付けを交わすが如く、愛おしそうに口元へと運ぶのであった。

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