第15話

 拭えない違和感。


 何かを取り違えている……それは例えて服のボタンを掛け違えてしまったがゆえに生じる着心地の不快さに似て、収まりの悪い酷く落ち着かぬ感覚は、今だエレナの内に拭えぬ違和感として影を落としている。


 自室の窓から覗く昼下がりの光景は何時もと変わらぬ長閑なモノで、二日目を迎えた収穫祭の喧騒も森から離れた此処までは流石に届く事は無く、街道を視界に映す立地ゆえに、異変が生じれば急報を告げる使者が往来を重ねるであろう街道も、時折疎らに荷馬車や農家の牛車が通るだけで、取り立てて普段の日常を侵す異質な変化は見られない。


 その場に赴かずとも流れる平穏な時間が、瞳に映る穏やかな光景が告げている……。


 何事も起きてはいないのだ、と。


 暫く窓辺から街道の様子を眺めていたエレナは小さく吐息を漏らと踵を返し、備え付けの棚へと足を向ける。


 棚の引き出しに入っているモノを思い浮かべると気は滅入るものの、アシュレイが用意した迎えの馬車が到着する頃合いを考えても余り迷っている時間は残されてはいない。


 カタリナが……いや、双刻の月として買い与えてくれた女性物の衣服には何度か袖を通してはいたが、あくまでもそれはカタリナやレティシア、そしてシェルンと云った言わば身内の前でだけの話であって、しかも屋内という限定的な空間の中でさえ覚える羞恥心を隠せぬと言うのに、そんな恰好で野外に……それも街中に出るなどエレナとしては覚悟の問題すら逸脱した……正に正気の沙汰では無い。


 無い……無いの……だが。


 「少し見栄を張って格好の付く店を予約した」


 と、後に嬉々として語ったアシュレイを前に、自らが前振りをしていた手前、断わり難かったなどと言い訳をしたところで、最早首を縦に振ってしまった現実は変えられはしない。


 昼を今度奢る、とは確かに言ったかも知れないが、予約が必要なほどの敷居の高い社交的な場に誘え、などと断じて言った覚えは無いし、堅苦しい場を好まないエレナとしては面倒極まりないとは内心思うものの、己の言動を反芻し、また、迷惑を掛けてしまったという負い目もあったのだろう、遠慮します、とは流石に言い出せなかったのである。


 覆水盆に返らずとは、良く言ったもので……だが、約束は約束。

 

 約束を交わしたにも関わらず、承諾したにも関わらず、何の準備もせず、用意もせずに何時もの恰好で赴いた結果、訪れた店で入店拒否などという恥をアシュレイにかかせる訳にはいかない。


 己がどう見られるかなど正直気にも留めはしないが、自分のせいで恩人が軽んじられるなど想像しただけで恥じ入るほどに、義理堅いエレナには断じて許容出来る話では無い。


 女の我儘に付き合うのが男の甲斐性、とアシュレイは笑って言った……ならば、男の株を上げてやるのが女の甲斐性であろう、とエレナは思うのだ。


 甚だ傲慢な話ではあるが、男尊社会の縮図の中で、良い女を連れて歩く事が男の価値を現す道具の一つであるならば、求められている、与えられた役割を果たしてやるべきだ、と思える程度にはアシュレイに対して借りがある、とエレナは感じている。


 幸いな事に……いや、皮肉な事に、男の目線での良い女を演じる事はエレナにとっては左程難しい話ではない……要はやるか、やらないか、と言う覚悟の問題だけである。


 ままよ、と勢いに任せてエレナは服を脱ぎ捨てると、棚の引き出しからソレらを一気に鷲掴み素早く袖を通すと、恐る恐る近くに置かれている姿見を覗き込む。


 其処に映し出された姿を前に、エレナは抱いていた羞恥も困惑し乱れる感情すらも嘘の様にすっ、と引いていく……違う……冷めていく。


 姿見から自分を見つめる黒髪の少女は美しい……。


 だが、それだけだ。


 エレナはその姿に胸が躍る事も無く、男なら抱かずにはおれぬであろう情欲すらも覚える事は無い。


 ソレは只々美しく……しかしそれだけのモノ。


 自分では無いソレは、形の整った人形は、エレナに向けて口元を歪め……。


 知らず浮かべていた苦笑に気づき、エレナは久しく忘れていたこの感覚に遠くは無い過去を思い出す。


 賢者と讃えられる魔法士、エリーゼ・アウストリアが生涯に於いて最高傑作と評する、禁忌に触れる事を、侵す事すら厭わず、持てる知識と技術の粋の結晶として創造された魔導人形。


 愛玩用として生成された外観は正に美の芸術と呼ぶに相応しく……しかし、折に付け思ったものだ。


 人形を構成する外装は、一体誰をモチーフに作られたモノなのだろうか、と。


 エリーゼとて人間である以上、全くの無から何かを生み出す事は不可能であるならば、まして絶世、と称しても良い自身の現身とは異なる理想を現出させた姿ともなれば、当然其処には想像の鍵となる、核となる誰かの存在が必要不可欠である筈。


 まだこの身体に馴染めず、歩行も困難な頃にエレナはエリーゼにそんな疑問を投げ掛けた事がある。






 「実に人間らしい、本当に馬鹿げた質問をするものね」


 言葉こそ辛辣ではあったが、コロコロと表情を変えて笑うエリーゼに姿は、多くの者たちが抱く聡明ではあるが妖艶で近寄り難い『賢者』としての印象とは掛け離れた、喜怒哀楽の豊かな普通の女性としての一面が垣間見え、


 だが、それが自分にしか見せぬエリーゼの飾らぬ素の表情である事をエレナは知っている。


 一年近くにも渡り彼女と共に大陸全土で戦い続けて来た日々は、今尚忘れ難い記憶と共にエレナの内に在る。


 自分たち『宣託の騎士団』と同行していた彼女の存在無くしては、魔女の討伐など為し得なかった……いや、それ以前にエリーゼの知識や助言が無ければ、各地での魔物の鎮圧すら困難を極めていただろう。


 あの時代を共に生き、共に戦った戦友であり、背を預け、預けられたエリーゼとの関係を最早余人に説明する事は難しい……男女の関係など超えて簡単に語る事など出来ぬ繋がりは言葉にすれば軽く響く様で……魔法士と騎士、例え立場も思想も理念も、共有すべき概念すらも異なる存在であろうとも、人として個としてエレナにとって特別な――――。


 曰くエリーゼ・アウストリアとは、


 己の弱さも愚かさも彼女は全てを知るゆえに、今となってはエレナが唯一人、胸の内を晒して語れる最後の……莫逆の友の名であった。


 「安易に他者に答えを求め、己で知らず己で導かず……本当に人間とは愚かで度し難い生き物ね」


 「随分な言われ様だが、俺もお前もその愚かしい人間だろうに……それに謎かけでも、まして禅問答でもあるまいし、いちいち世間話に意味深な言い回しをするのは止めて欲しいね」


 呆れるエレナにエリーゼはあらあら、とまた楽しげに笑い、そうね、と少し考えてから、


 「女の秘密を探る男は嫌われるわよ、英雄さん」


 と、今度は酷く分かり易く女性らしい物言いで、エリーゼは答えをはぐらかせて見せる。


 「魔法士は真理に挑み、理を解き明かす探求者……ゆえに魔法士とは禁忌を生み出す大罪者でもあるのよ」


 魔法士に何かを問うのならソノ本質を知りなさい、と少し真面目にエリーゼはエレナを諭す。


 人の倫理の外に在るゆえに、誰よりも魔法士こそがソレを知る。


 曰く魔法士とは秘密主義であり、他を欺く事に長け、ゆえに慎重で臆病な……それはある種に置いて最も純粋で人間らしい……そうした生き物で有るのだと。






 「魔法士の在り様……か」


 姿見の少女の呟きが、エレナを現実の世界へと引き戻す。


 過去を思い過去に触れ、エレナは確信を得る。


 魔香と灼眼の獣……魔法士と魔香の繋がりの深さを知ればこそ、どうしても切り離せずにいた両者の関係は今回に限って言うならば、偶然の……いや、少なくとも直接的な関係性は無いのかも知れない、と。


 あの獣の、バケモノの存在に魔法士が関与していたのならば、それは禁忌に触れる魔導の発現に他ならない……しかし禁忌を生み出す魔法士の存在を疑うならば、問うならば、今回の手口は余りにも杜撰に過ぎるのだ。


 収穫祭に紛れ何かを為そうと画策していたとしても、安易に……いや、現に物証を残す遣り様は、凡そ狡猾で用意周到な魔法士の思考とは掛け離れた合理性に欠けたモノで、その矛盾こそがエレナが抱く違和感の最たる要因となっていたモノ。


 「アレが自然の摂理に反した存在であるのなら……それに魔法士が関与していなのだとしたら……」


 そこまで考え、エレナは迷う様に首を振る。


 何も起きなけらばこれで終わり。


 レティシアとの約束を思い返し、エレナは思考を止める。


 今の自分はもう騎士ですらなく、真相を探る理由も、またその力も無い一介の傭兵に過ぎず……寧ろこれ以上踏み込む事でレティシアたちに迷惑を掛ける可能性があるならば引き際は弁えなければならない。


 集落を訪ね自分なりの答えを探したいと思う気持ちはあれど、それはもう己の役割では無いのだ、と理解しているゆえにエレナは語り掛ける様に自身を納得させる。


 エレナの視線の先、部屋の片隅に置かれた己の双剣を映し出し……だが、その手はテーブルに置いていた懐刀のみを手にするとエレナは部屋を後にする。


 アシュレイが用意した馬車を待つ為に。

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