第14話

 夕刻はとうに過ぎ、夜の闇が迫る繁華街はこれからが稼ぎ時とばかりに客引きや女たちの嬌声だけに留まらず、通りを歩く者たちの談笑などを交えた雑多な人々の声が安宿の薄い壁を越えて廊下を歩くアシュレイの下にまで漏れ聞こえて来る。


 変わらぬ日常の光景なのだろう、外の喧騒など気にした風も無く、アシュレイは住処として借りている部屋の戸を開ける。


 建て付けが悪いのか、薄汚れた木の扉は、ギイギイッ、と耳障りな音を立てながらゆっくりと開いていくが、扉自体に鍵が掛けられていた形跡は無く……だがそれも当然で、アシュレイは鍵など閉めた覚えはないし、そもそも扉のノブには鍵穴すら付いてはいないのだ。


 と言うよりも、その気になれば簡単に蹴破る事が出来る脆い木の扉などに態々自費で鍵など取り付けたところで何ら意味を為さない事くらいは此処の住人ならば当たり前に持っている常識である。


 寧ろ下手に鍵など取り付けようものなら、無用な疑いを持たれて部屋を家探しされかねない。


 長期滞在者を住まわせる安宿には如何に安かろうが娼婦ですら部屋など借りはしない……つまりはそういうところ、と言う訳だ。


 部屋に一歩足を踏み入れたアシュレイは、付けた覚えの無いランタンの灯火に目を慣らす様に僅かに細め、照らす明かりの先、寝台から伸びる影に視線を移す。


 「随分と遅い御帰宅であったな」


 「こっちはこっちで大変な目に合っていたんでね」

 

 と、影と同化する漆黒を纏う男に、固定された左腕を軽く振って見せる。


 「そっちはどうだった?」


 「傭兵たちを避けて森に入っては見たが……まあ……今更森林浴を楽しむ歳ではなし、終日、暇を持て余したな」


 「何も変化は無かったんだな?」


 「此処に儂がおるのだぞ」


 と、今度は隻腕の男がアシュレイを真似て手に持つ酒瓶を振って見せる。


 アシュレイはそんな男の様子に軽く肩を竦めると、自らも床へと座り込み、昨日からの経緯を男に説明し始めた。


 元々役割分担を決めて行動していた二人は、日没に顔を合わせ各々が手にした情報を持ち寄り交換する事を決めていたのだ……男がアシュレイの部屋に居るのはその為である。


 「灼眼の獣……興味深い話ではあるな」


 「アレはヤバい……断言しても良いが普通じゃねえよ」


 「で、あろうな……お前さんの腕は良く知っておるよ、それが文字通り、腕を持って逝かれた、と言うのであればな」


 くくっ、と隻腕の男は珍しく楽しげな笑みを漏らし……珍事、と呼べる程に貴重な、珍しい光景に目を丸くするアシュレイは、


 「まったく笑えんね」


 と、苦い顔を見せるが、それがこの男なりの冗談なのだ、と後に思い返し気づくのは今暫く先の話であった。


 「だが、その獣の首を斬り飛ばした女と言うのも随分と大概ではあるな」


 「一瞬過ぎて良く分からなかったが、凄腕ってのは違いない」


 「一瞬、だと……つまり一刀で、と言う事か?」


 「さてね、周囲も暗かったし、俺はエレ……彼女が抜いた剣も見えなかったからな」


 ほう、と感心した様に呟きを漏らす男にアシュレイは一転して鋭い眼差しを送る。


 「それは本当に闇夜ゆえに見えなかったのか、それとも……」


 「いい加減にしろ、彼女との交渉は俺の役割であって相棒の出番はねえよ、交渉が決裂するまでは近づかない……そういう取り決めだったよな」


 怒気を孕むアシュレイの視線を受けても男に動じた様子は見られない……しかし妙な沈黙を嫌ったのか、無論承知しておるよ、とあっさりと男が先に折れる。


 「案ずるな、腕が立つ相手に好戦的に挑むほど儂はもう若くは無いし、若く美しい女子に入れ込む情念なぞとうに枯れておる」


 ただ、と男は想う。


 己の終わった闘争の果て、再び双剣の使い手に巡り合うなどとは、しかもそれが女子などと……何の因果か……いや、一周回ってとんだ喜劇と言うべきか。


 「しかしあの野郎……とんでもない代物を掴ませやがって……依頼が済んだら倍額は請求してやるぜ」


 意図的にだろう、話の筋を変えるアシュレイに男は異論を唱えるでも無く手にした酒瓶を口に運ぶ。


 「それはお前さんが二つの依頼を同時にこなそうなどと要らぬ欲をかくからであろうに、神は欲深な者を憎み嫌う……全ては神の思し召しというモノだろうよ」


 「西域の人間ってのは信心深いこって……」


 神の存在など信じていないアシュレイにして見れば、神の罰などそれこそお伽話以前の下らぬ戯言でしか無かったが、それとは別に今回の騒動に関して何らも反省していないのかと問われれば、大いに反省している……いや、後悔していると言っても良い。


 結果的には深い繋がりが出来たとは云え、エレナを余計な揉め事に巻き込んでしまったかも知れない、という罪悪感はやはり拭えない。


 エレナは優秀な傭兵である……それは受ける印象からでは無く、彼女の示した推論が正しいと、誰よりもアシュレイ自身が良く知っていたからだ。


 エレナが違えた点はただ一つだけ……あの場に第三者など介在していなかった……と言うその一点だけなのだ。


 あの村で魔香を焚いたのは目の前に座る隻腕の男であり……エレナが再三に渡り注意を払っていた観察者は……そう、幾らエレナが注意深く探ろうと、見つかる筈など無かったのだ……何故ならその人物は常にその傍らに居たのだから。


 エレナと接触を図る為に訪れたあの村で魔香を焚いたのは指定された訳では無く、本当に物の序であり……あのバケモノと魔香の関係を疑っているエレナの推測が誤りである事をアシュレイは知っている。


 今となっては、そんな事実を告げられる筈も無く……あのクソったれなギルドでそれが原因でエレナが肩身の狭い思いをしているかも知れないと思うと、アシュレイは苛立ちを隠せない。


 「お前さんが持ち込んだ魔香は間違いなく獣寄せの魔香であったよ、あの商人も大方闇市で仕入れたモノの効能を見極めたかったのだろうよ」


 「相棒にそっち方面の知識があったとはね」


 「意外、であるかね?」


 「まあ……ね」


 素直なアシュレイの感想に男は苦笑する。


 「ビエナート……西域の王都ではこの手の代物は珍しくも無く、魔法士どもが常用しておったゆえな、忌まわしき……いや、懐かしきあの時代を生きた者なら嫌でも自然と身に着く程度の知識……特段に褒められたものでもあるまいよ」


 「あの時代って……相棒……あんた一体何歳なんだよ」


 予想通り、隻腕の男からの返事は無い……だがアシュレイも答えを期待して問うた訳では無いのだ。


 オーランド王国と並ぶ四大国の一角であり、西の列強として知られる西域の覇者は……ビエナート王国は他の列強とは異なる意味で特殊な国、である。


 長きに及ぶ動乱の大陸にあって他国を侵略しなかった唯一の国。


 神の御名の下に他民族を弾圧し虐殺の限りを尽くした宗教国家。


 アシュレイの拙い知識でも知るこれらは有名な話であり、今でこそ救世の騎士の名の下に統一と宥和政策が為され、渡航も可能とはなっていたが、それでもやはり西域からの来訪者は今だ驚く程に少ない。


 アシュレイがこの男と妙な縁を結ぶ事になったのも、そうした物珍しさが要因の一つであった事は間違いないが、出会ってから半年以上経つと言うのに、今だ男の名すら知らないというのは中々に滑稽な話ではある。


 しかし触れられたくない過去があるのは自分も同じ。


 仕事以外の事柄に一切関心を示す事も無く、互いに相手の人生に干渉しない男との関係はアシュレイにとってそれはそれで居心地の良いモノであった。


 「経過を観察するのは確か明日までであったな、明日は少し森の奥まで足を運ぶとしよう、仮にもしそんなバケモノを見つけたのなら儂が片付けておくゆえに、お前さんはお前さんの依頼を済ませて置くのが良かろうよ」


 「分かってるさ」


 言われるまでも無い。


 どんな経緯を辿ってエレナがあのギルドに所属する事になったのかは既に聞いている……ゆえにアシュレイは交渉が難航するとは考えてはいない。


 寧ろさっさと貴族の薄汚い揉め事から解放してやるのがエレナの為なのだ、と。


 エレナもあの一族の……メルヴィス家の真実を知れば嫌気が差すだろう、と。


 そして何より依頼主はエレナの望みを叶える術を持っている。


 ギルドを抜けさせてからエレナとは、また一から関係を築いて行けば良いと、この時のアシュレイはそんな事を考えていた。

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