第11話

 「疫病の類だとすれば面倒だな……」


 灼眼の狼から目線を逸らす事無くアシュレイは苦々しく舌打ちを漏らす。


 有史以来、猛威を振るって来た疫病の数々の名がアシュレイの脳裏を過るが、異様な様相を呈す獣の姿を前にしては当然、と言うべきか符号が合う病理や症状など有る筈も無い。

 

 最も似た、と表現しても良いならば狂犬病がこれに当たるとも言えなくは無いが……そもそもに置いて狼の種別に灼眼などと云う個体が存在するなど少なくともアシュレイは聞いた覚えも無く、もしその身体的要因が何らかの病が原因なのだとしたらその時点でお手上げ、理解の外、と言って良い。


 どちらにしても嚙まれるのは不味いだろうな。


 アシュレイはエレナを庇う様に前に出ると腰の剣を抜き放つ。


 「下がってろ、コイツは俺が殺る」


 エレナを怯えさせぬ為であろう、力強く、そして鼓舞するが如く、己の前に逞しき背を晒すアシュレイの姿に、揺らめく炎に照らされる横顔を目にし、腰の双剣へと伸びていたエレナの手が止まる。


 一歩……エレナが後ろに下がる気配を背に感じ、アシュレイは安堵する。


 アシュレイは職業柄、相手の力量を測る事には自信を持っている。


 培って来た修羅場や経験ゆえ、と自負するまでも無くエレナが剣の技量に……いや、そもそも荒事に向いていない事は一見しただけで直ぐに分かる。


 鍛えられた肉体と云うのモノは古代より受け継がれる遺産を考察するまでも無く、絵画が彫像に見られる様に変わらぬ共通美として今尚残る。


 国を興した覇王。

 竜を狩る英雄。


 そして近年に見れば救世の騎士アインス・ベルトナーを筆頭に大陸全土に名を馳せた英雄英傑たち。


 描かれる彼らの雄姿は、模される彼らの彫像は、見惚れる程の肉体美を誇る。


 鍛え抜かれた、完成された屈強な肉体こそが、大衆にとって……いや、大陸に住む人々が誇り、謳われる『強さ』の象徴である事は疑い様も無い。


 エレナ・ロゼの美しさとは、それらとは競うべき質が異なるモノだ。


 まだ未成熟な幼さは残すものの、十分に女性らしい曲線美は勇壮さでは無くたおやかな花を連想させ、鍛えられている、とはお世辞にも言えぬ肢体から覗く艶やかな肌は穢れ亡き白雪を想起させる。


 それらは優美さを競う女性としての資質としては称えられるべきモノではあろうが、傭兵として欠かせぬ資質の一つである『強さ』とは相反する……対極にあるべきモノであると言わざるを得ない。


 エレナが如何に優れた傭兵であろうとも、生まれ持つ才能以前に決定的に欠如した資質が存在する事だけは、アシュレイで無くとも彼女を一目見れば誰でもが容易に思い至る結論であろう。


 エレナが双剣などと云う扱う者すら稀な得物を腰に下げるのは、恐らく救世の騎士として知られる英雄に肖っての事なのであろうが、例えそれが劇場に立つ名優が如く様になる姿であろうとも、双剣自体の作りの精巧さゆえの見栄えの良さと比例して『軽さ』と『薄さ』が際立つ特有の形状ゆえに、其処から『強さ』を見い出す事は難しい。


 弱者を護るのが強者の務め、などと言う綺麗事などアシュレイや、そして傭兵として立つエレナの世界では、弱肉強食を胸とする世界では、成立すらせぬ絵空事ではあるが、それでもこの場で、この状況で、か弱い女を前にして前に出ぬ、という選択肢はアシュレイには無い。


 善悪や道徳と云った小難しい観念の問題などでは無く、もっと純粋で単純な……男としての沽券に関わる根っ子の部分で決して己を偽らず、譲る事の無い……それは信念と呼ぶべきモノ。


 アシュレイ・ベルトーニとはそんな男である。


 

 「人間様に牙を剥こうなんざ、調教が必要だな犬っころ」


 次の標的を定めたのだろう、身を低く屈め牙を剥きだして唸る獣を前に、アシュレイは腰を落とし中段へと剣先を下げる。


 最大限の力を籠めるならば両手で構えるべきところではあるのだが、松明を手放す事は自らの視界を閉ざすのと同義……暗闇の中、夜目が利く獣を相手に渡り合うのは流石に分が悪過ぎる。


 気配のみで対象を捉える……所謂、達人と称される様な馬鹿げた領域に足を踏み入れる化け物染みた連中もこの世界には居るようだが、少なくともアシュレイには其処までの卓越した技量は持ち合わせてはいないのだ。


 獲物を襲う好機を窺っているのだろうか、狼の……獣は闇に溶け込もうと、じりじり、と横に移動を始め……アシュレイは決して視線を切らす事なく獣の動きに合わせ松明を闇に向け翳す。


 人と獣の無言の攻防は立ち合いの間の如く……。


 相手の呼吸を盗み、一挙手一投足をも見逃さぬ程の集中力を感じさせるアシュレイの姿に、エレナもまた見守る様に獣の姿を追い続ける。


 ばちばちっ、と静寂を破る破裂音が響く。


 エレナが投げた松明が転がる大地の上で断末魔の悲鳴を上げ、急速に炎の勢いを弱め……アシュレイの視界の隅、闇が光を浸食していく。


 瞬間――――獣が地を蹴り上げ、アシュレイへと襲い掛かる。


 だが、アシュレイの集中力は切れてはいなかった。


 俊敏さ、瞬発力で獣に劣るアシュレイはこの瞬間を、好機を待っていたのだ。t


 踏み込む右足に腰の回転を加え、横薙ぎに放たれたアシュレイの剣閃は、放物線を描く獣の軌道を完全に捉える。


 完璧な間合い、絶妙な淀みの無い一刀は、まさに後の先を取る、と称するに相応しい、アシュレイの優れた技量を示すに申し分の無いモノで――――速度に乗った剣先はその胴体を分断する勢いで獣へと迫り。


 「アシュレイさん――――!!」


 エレナの警告とほぼ同時、空中で身を捻った獣の前脚が刀身を踏み締める、爪と鋼が擦れる微かな金属音が静まる闇夜に漏れ聞こえ、刀身を足場に更に跳躍した獣の滾る二つの灼眼がアシュレイの眼前へと迫る。


 常識では凡そ考えられぬ、緩やかに回る木馬の上を飛び移るのとは訳が違うのだ……並外れた動体視力、反応速度、そして身体能力……全てを兼ね備えていたのだとしても、動き自体に制限の掛かる空中でソレを成す異常さはアシュレイの想像を遥かに超えていた。


 ――――ゆえに。


 背後から響くエレナの警告にアシュレイが反応出来たのは、奇跡、と評する程出来の良いモノでは無く、高い集中ゆえに無意識に働いた偶然の産物、と言うべきであろうか。


 体勢を崩しながらも首筋を庇う様に伸ばされた左腕に奔る強烈な痛みに、アシュレイは表情を顰める。


 ソレを幸い、と呼んでも良いのかは疑問は残るが、獣の体格は標準的な狼のソレであり、左腕がら滲み出す血液を、完全に貫通した獣の牙から零れ落ちる己の血にも怯む事無く、アシュレイは左腕の筋力だけで噛み付く獣を宙吊りにする。


 牙で刺し貫かれた痛みよりも、今まさに食い千切らんとする万力の様な圧力が

骨を軋ませ……アシュレイの心を砕かんと嫌な旋律を奏でるが……。


 激痛からくる生理現象であろう、全身に冷たい汗を滲ませながらもアシュレイは嗤っていた。


 「教育してやるよ、犬っころ」


 理解し難い現実を前に、錯乱してもおかしくは無い状況下でも心を挫くにはまるで足りない、と物語る様にアシュレイは不敵な笑みを浮かべたまま、今度は全身の体重を乗せて左腕ごと獣の頭部を地面に叩き付ける。


 瞬間、地面へと激突した衝撃と圧力で己の左腕の骨が砕ける感覚と共に、ぐしゃり、と獣の頭蓋が潰れる確かな手ごたえが伝わり……左腕に掛かる圧力が霧散する。


 襲われた瞬間に手放した松明の明かりに照らされて、だらり、と動かぬ獣の死骸から左腕を抜き出し……アシュレイは今度こそ脱力した様に草むらに座り込んでしまう。


 「ちきしょう……痛てえなあ……おい……」


 集中が切れれば痛みが増すのは道理であり……激しい激痛の余り既に傷口が痛むのか、折れた骨が痛むのか、自分でも良く分から無くなっていた。


 「エレナ……悪いけど手を――――」


 見上げた視線の先、アシュレイは驚愕の余り目を見開く。


 立っている……立っているのだ……。


 頭蓋を潰され、脳漿を耳から垂れ流しながら、ソレは立ち上がっていた。


 初めてアシュレイの表情に恐怖の色が色濃く宿る。


 だがそれは……得体の知れぬバケモノに対する畏怖よりも……灼眼が捉え映し出す少女の影ゆえに。


 「逃げろ……逃げろエレナ――――!!」


 バケモノの標的が自分では無い事を悟ったアシュレイは咄嗟に叫んでいた。


 しかし、それこそが引き金となったのか、動きが鈍るどころか更に俊敏に、加速を加え、駆け出したバケモノは少女の影へと襲い掛かる。


 「アトリ――――」


 無慈悲に引き裂かれんとする少女の影を前に、アシュレイは別の誰かの面影を其処に見る。


 僅かな松明の明かりの外、微かに浮かぶ少女の影とバケモノの影が重なり合う様に闇に消え、刹那……何かが宙を舞い放物線を描いてアシュレイの直ぐ脇へと転がり落ちる。


 「えっ?」


 同時にどさり、と何かが倒れる異音と共に暗闇から姿を見せたエレナに、アシュレイは痛みすら忘れ、思わず素っ頓狂な声を漏らしてしまう。


 「大丈夫ですか、アシュレイさん?」


 エレナは転がるバケモノの頭部には目もくれずアシュレイの傍へと膝を付く。


 「少し我慢して下さいね」


 エレナは慣れた手付きでアシュレイの左腕に添え木を当てると、傷口を水筒の水で洗い流し自身の服の袖を破って手際良く止血する。


 「応急処置ですから直ぐに医師に診て貰わないと駄目ですね」


 経験など乏しい筈のエレナの余りにも場慣れした対処の早さに、狐につままれた様に呆気に取られていたアシュレイであったが、何よりも問わねばならない事柄を思い出し苦笑気味に口を開く。


 「エレナ……お前がコイツを殺ったのか?」


 転がるバケモノの頭部に視線を送るアシュレイに、エレナは黙って頷く。


 「そうか……恰好付けた割に随分と情けない無様な姿を晒しちまったな」


 「そんな事は無い!!」


 エレナが真剣な眼差しでアシュレイを見つめる。


 「命を懸けて誰かを護ろうとする……それが無様である筈が無い……ありません……少なくとも私はそういう人間が、男が好きですよ」


 言葉こそ少ないが、其処に込められた真摯な想いが溢れる様で……偽りなど感じさせない気高く神秘的な黒き瞳を前に、アシュレイは思わず手を差し伸べていた。


 「お前は優しい子だな」


 アシュレイの右手がエレナの黒髪に触れ、


 アシュレイの眼差しは自分を通して別の誰かを視ている……それに気づいているからこそエレナは敢えてその手を拒む事は無い。


 それは合わせ鏡の様に。


 優しく……そして悲し気な輝きは己自身が抱く想いに似て……それが誰かの慰めになるのなら拒む理由などエレナには有る筈も無かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る