第10話

 都市計画の一部として街灯の設置を義務付けられている市街地とは異なり、農村の村々では今だ日照時間に合わせ人々の生活が営まれている。


 日が落ちれば星々と月明りの頼りない輝きに頼らざるを得ない環境の中では、村の各所に設置されている篝火の淡い光のみが夜の闇を照らす僅かな光源となり、それですらも人々が早々と寝静まり民家の明かりが絶える深夜には種火は尽きて火は絶える。


 当然そんな環境下で、手を翳せばその手が見えぬ程の夜の帳の中、外をうろつく様な物好きなど居る筈もなく、日の出までにはまだ遠い深夜のこの刻限に村の周辺に人の気配など有る筈も無い。


 そう……この日を除いては。


 「魔香ってのはそんなにヤバい物なのか?」


 「効果は調合する量や魔法士の力量にも左右される筈ですけど、どの国でも使用には制限が掛けられている筈です」


 村の境近くには柵が張り巡らされ獣対策が施されている。


 しかし作り事態は専門の業者に依頼したモノでは無く、村人が有志を募り作られたお手製の云わば簡易的なモノであった為に、村を囲む様に円状に建てられた柵の所々は人が横になれば通り抜けられる程の隙間が見られる杜撰な作りになっている。


 その柵の外、ぼんやり、と浮かぶ松明の明かりに照らされる二つの影は闇夜に映え、或いは知らぬ者が不意に目撃すれば鬼火が出た、と腰を抜かしたかも知れぬ程に黒一色に染まる闇の中で煌々と揺らめいていた。


 勿論ソレは鬼火でもまして魔物の類などで有る筈も無く、其処には事前に待ち合わせしていたエレナとアシュレイの姿がある。


 「周囲に人の気配は無いですね」


 「ならやっぱり勘違いか、思い過ごしじゃないのか?」


 「なら良いのですが……」


 と、エレナは手に持つ松明で足元を照らす。


 松明の炎で照らされた先、地面の雑草が小さく円を描く様に煤けて黒ずみ、何かを燃やしたであろう形跡を残している。


 日が沈む前にエレナが臭いの下を辿り、痕跡を見つけたからこそ二人は今この場所に居るのだ。


 アシュレイの言う通り、考え過ぎならそれで良い。

 

 しかし、エレナはある種の確信を抱いて此処にいる。


 一言で魔香と言ってもその効能は多種多様……だが変わらぬモノもある……それは隠しきれぬ特有の臭い、である。


 限りなく無臭に近づけたモノや、花々や日常に漂う生活臭に似せたモノなど、調合する魔法士の匙加減で如何様にも偽装は可能であっても、生成の段階で鍵ととなる呪物が溶け合う際に生じる固有の香りまでは完全に消し去る事は出来ない。


 普通なら……いや、例え常人には嗅ぎ分けられぬ程の微細な香りであろうとも、忌まわしき記憶を呼び覚まさせるソノ臭いをエレナが違える事は無い。


 嘗て粛清と断罪の名の下に禁忌に触れる幾つもの結社と魔法士たちを相手に暗闘を繰り広げ、己の手を血に染めてきたエレナだからこそ……違う事など有り得ぬのだ。


 非人道的な悪魔の所業を……多くの忌まわしき事件に関与してきた魔法士たちが常に纏わせてきた、生涯忘れ得ぬ記憶と共に刻まれる呪わしき香りを。


 「魔香の効能ってのはその……あれ……なんだろ、楼閣あたりで使われる……その……」


 珍しくアシュレイは言い淀むがそれも無理はない……思い浮かぶ効能と言えばエレナを前にしては中々言い出せぬ種のモノであったからだ。


 「そうですね、一部の娼館などで扱われている催淫を齎す香草の類も魔香の一種ですね」


 「お前……催淫って……」


 と、寧ろアシュレイが焦りを見せる程に、


 年頃の娘が口にするには甚だ不適切な……しかし恥じらいなど皆無な、まるで動じた様子すらない冷静なエレナの物言いは堂々としたもので、傭兵としての顔を覗かせる少女の表情には女性一般に見られるその手の話に対する嫌悪感は微塵も感じさせない。


 成程ね……お嬢様連中とは明らかに場数が違う。


 魔法に対する知識、冷静に物事を捉える観察力……そして臆病な程の用心深さ……エレナが見せるソレらは傭兵として申し分の無い、と思わせる、納得させる程の雰囲気を有し……未熟な小娘、と侮る事など出来ぬ貫禄めいたモノをアシュレイに感じさせた。


 歳に似合わぬ成熟した物言いや性格も、経験不足を補う為の術なのだろうと思えばこれまでのエレナの言動や行動なども腑に落ちる点が多い。


 などと半ば感心し納得しているアシュレイをよそにエレナは思案を巡らせる。


 精神に干渉する特性を持つ魔香は用途に寄りその効能は多岐に渡る……焼け跡から採取した灰を調べればどの様な効能を持った魔香であるか調べる事は可能ではあろうが、エリーゼの様な高位の魔法士でも無い限り短時間で成分を割り出し求める答えを導き出せる者は少ないであろうし、また難しいだろう。


 だが寄り限定的にこの時期、この場所で魔香を焚く理由だけを考えるならば想像はそう難しいモノでは無い。


 「魔香の効能は分からなくても推測は出来ます」


 「獣を呼び寄せる……為か?」


 「はい……それが現状では一番可能性が高いかと」


 アシュレイも或る程度思い付く様に……いや、逆に言えばそれしか無い。


 「それにしちゃあ、随分と安直な手段じゃねえか? あの時点で獣共が寄って来ても何の利益になる? まだ祭りの前なんだぜ」


 「恐らくは魔香の効能を確かめる為でしょうね」


 魔香を使用した者、或いは者たちが魔法やそれに類する魔具に造詣が深く無い……知識の浅い者たちだとするならば、辻褄が合わぬ事も無いとエレナは考えている。


 「アシュレイさんが今言った様に、魔香を即効性の魔具と勘違いしている人間が多いのではないでしょうか」


 嗅いだ者の疲れを癒したり、或いは性欲を促進させたり、と効能は様々あれど、人間に対してですら体質以前にその日の体調や精神状態と云ったモノに左右される不確かな作用しか齎さない魔香は、本来は長期間に渡り継続して吸引する事に寄る体質の変化や改善を促す為の用途で使われるモノなのだ。


 前記した内容は言わばその場の雰囲気などを促進する為の副次的な効果に過ぎない……もっと分かり易く言えば気分を高揚させる為の一種のまやかしの様なモノ、と断じてしまっても良いかも知れない。


 「魔香の香りに誘われて仮に獣たちが集まったとしても、例えるなら甘い蜜の香りに引き寄せられる虫たちとは違い、理性を失わせる様な強い作用があるでも無し、野生の動物たちがああも人が多い場所に姿を見せる訳はありませんよ」


 「だとすれば、そいつらも肩透かしを喰らったって訳か?」


 「でしょうね、どの程度期待をしていたのかまでは分かりませんけど、人気が絶えたこの時間まで監視していないところを見ると……認識としてはまあ、正しいかと」


 あれだけの傭兵たちが居れば例え獣たちに村が襲われてもどうとでも対処出来る……魔香を焚いたであろう連中が安易にそう考えていたとすれば、寧ろあの時間に行動に移した理由の説明は付く。


 魔香の効能に理解が乏しいのなら、長時間に渡り監視の目を置かないのも理解出来なくは無い。


 だからこそエレナたちは今此処に居る。


 獣たちが村の周辺まで集まっていたとしても村を襲うなら恐らく夜間であろうとエレナは睨んでいたからだ。


 「でも……」


 と、エレナは隣に立つアシュレイを見上げ苦笑する。


 「本当に只の杞憂であったのかも知れません……私の我儘に付き合わせて御免なさい」


 先程述べて通り魔香が齎す作用は未知数……しかも強い効能ではないゆえに本当に村が獣たちに襲われるのかと、その危険性を、可能性を問われれば薄いとエレナ自身も理解している。


 それでも万が一、僅かな危険性が残るのであればエレナはその可能性を見過ごす事が出来なかった……何より己が経験してきた過去ゆえに、魔香、というモノに対する忌諱感ゆえに、己からそれに目を逸らす事が出来ずにいたのだ。


 しかし現実として此処まで騒ぎ一つ起きてはいない……今も視界を覆う闇の先、獣たちの気配すら感じぬと言うならば、全ては自分の思い過ごし、杞憂であった、と……不意にそんな気持ちにエレナがかられたとしてもおかしな事では無かったのかも知れない。


 「気にする必要はねえよ、むさい男に連れ回されるなんざ御免だが、女の我儘に付き合うのは男の甲斐性ってもんだろ」


 松明の炎に照らされながら、真顔でそんな事を語るアシュレイにエレナの口元が緩む。


 一銭にもならない無駄足を踏まされているかも知れないと言うのに、苛立つでもなくこの段に至っても自分を口説こうとしているアシュレイの姿に自然に笑みが漏れてしまう。

 

 良くも悪くも欲望に忠実な、奔放ゆえに自由な、この手の男をエレナは決して嫌いでは無い。


 「お礼と言うのはおかしいかも知れませんが、今度食事でも奢らせて……」


 下さい、と続く筈のエレナの言葉が不意に途切れる。


 「こいつは……なんだってんだ……」


 今度はアシュレイも同時に気づく。


 夜の闇……漂う春の風に交じり込むソレは……。


 濃厚な血臭。


 同時に生じた気配が急速に二人の下へと接近して来る。


 エレナは咄嗟に迫り来る気配の源へと手にする松明を放っていた。


 グルルルルルルルルル……。


 地面へと落ちた松明の炎が周囲の闇を照らし出し……気配の主の姿を浮かび上がらせる。


 狼……いや、最早そう例えて良いのかすら分からぬ程、その姿は異様であった。


 爛々と滾る如く妖しい輝きを放つ赤き二つの瞳、元の毛色すら判別出来ぬ程に返り血で全身を染め上げ、唸り声を上げて覗く牙から血の滴を滴り落とす獣の姿はまるで……。


 「魔物……いや……狼なのか……こいつ人を」


 「人じゃない、臭いが違います……恐らく群れを襲ったんでしょう」


 「おいおい冗談だろ……共食いかよ……」


 バチバチ、と炎が爆ぜる音と共に二人の下に体毛が焦げる嫌な臭いが漂って来る。


 血塗れの狼が……赤い目の獣が、己の前脚で松明を踏み締めていた。


 炎を恐れぬ獣など存在しない……魔物ですらも嫌う炎をまるで意に介す様子すらなく、己の身を炎で焼かれ焦がしながらも、厭うどころか微動だにせぬその姿はまさに異様。


 獣ならざるバケモノの姿が其処にはあった。



 


 


 


 


 


 

 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


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