第9話
「あたしの名前はララ」
「あたしはルルだよ、お姉ちゃん」
大きめの食卓に用意された夕食の晩餐をそっちのけに、二人の幼い少女たちは瞳を輝かせて予期せぬ訪問者を迎え入れる。
「今日はね……ララ、お姉ちゃんとお泊りするの」
「ずるいよ……ルルも一緒だもん」
準備を済ませ食卓に着いた農家の夫婦は、同じ様に席に着いている少女の両足にしがみ付きながらはしゃいでいる娘たちの姿を目にして済まなさそうに頭を下げる。
「お前たち、いい加減にしなさい」
と、二人の父親である農夫の男が娘たちを諫めると、ルルもララもはやり父親は怖いのであろう、しぶしぶ、と云った呈ではあったが大人しく自分の席へと戻っていく。
「エレナさん、御免なさいね……こんな物しか用意出来なくて」
「気にしないで下さい、突然お邪魔したのは此方の方ですし……それに納屋では無く母屋に泊めて頂けるだけでも十分有難いですし感謝していますから」
食卓に並べられている食事はとても質素な物で……日持ちさせる為に加工された固めのパン、そのパンをほぐす為に用意された暖かいスープにも具は殆ど入ってはいない。
客人に振る舞う以前に、力仕事に従事する父親や育ち盛りの娘たちが日々口にする食事としても余りに量もそして栄養価も足りていない。
「本当に気になさらないで下さい」
再度口にしなければならぬ程に謝罪を繰り返す農家の夫妻に、エレナは居たたまれない気持ちになる。
それだけこの夫妻は善良なのだ。
交渉は得意だと言うアシュレイに頼んで一夜の宿を探して貰った先で、この農家のお世話になる事になった。
当然、交渉の段で金銭の授受が無かった筈は無い……恐らく夫妻の罪悪感の源は受け取った額に見合わぬ客人に対しての待遇の悪さゆえ、なのだろうとエレナは思う。
人の善意すらただでは買えない……これは決して皮肉では無く、貧しい農村にとっては生きる為に必要な厳しい現実なのだ。
食事の席、と云っても普段の様にとはいかぬのだろう、はしゃぐ子供たちは別にしても黙々と食事を口にする夫婦の間には日常交わされている筈の会話すら殆ど見られない。
しかしそれは仕方が無い事であったのかも知れない。
まだ幼い子供たちを抱える一家にとって傭兵を受け入れる、と云う選択は簡単に決められる決断では無かった筈だ。
それでもエレナを受け入れたのは結果的に金銭の授受はあっても何もそれが主たる理由では無い。
エレナが女性でしかもまだ少女である事も理由の一つではあったのだろうが、何よりも子供たち……そして父親にとってはエレナはまるで知らない赤の他人、では無い、と云う事が一番の理由に挙げられるのだろう。
毎朝、畑に向かう途中に挨拶を交わす程度の関係ではあったが、それでも子供たちがこれだけ懐くのを見れば分かる通り、日頃見かけるエレナの姿から受ける印象ゆえに、彼女が決して悪人では無いと信じられるからこそだと言える。
「エレナさん、今日は寝室を使って下さい、私たち夫婦は子供たちと一緒に寝ますので……」
「あっ……良ければなんですが……出来ればこの子たちと同じ部屋でも大丈夫でしょうか、こう見えて私、子供が好きなんですよ」
こう見えて、とはどう見えてなのだろうか、と内心では自分自身で苦笑しながらもエレナは尚も気を遣う母親に向けて笑顔で告げる。
ギルドにとって明日は祭りの始まりでも、彼らにとっては変わらぬ何時もの日常でしかない……エレナにして見れば只でさえ朝が早い子供たちの両親に自分のせいで要らぬ負担をこれ以上掛けたくは無かった。
歓声を上げて喜ぶ娘たちとエレナを暫し交互に眺めていた母親であったが、これ以上強く勧めるのも逆に失礼だと思ったのだろうか、今度は素直にお願いします、とだけ告げると同意する様に頷くのであった。
日の出と共に仕事に出掛ける農家の就寝は早く、食事を終え片付けを済ませると夫婦は子供たちをエレナに託し寝室へと戻っていく。
エレナもまた子供たちに手を引かれ、誘われる様に子供部屋へと足を踏み入れるが、視界の先、映す室内に黒い瞳が僅かに揺らぐ。
子供部屋にしては広い……だが……何もない室内。
壁際に備え付けられた大き目の寝台……同じくテーブルが一つ、幾つか棚らしき物もあるが、中には本来あるべき子供たちの遊び道具も、学ばねばならない書籍の類も見られない。
只数冊だけ……古ぼけた、年代物の絵本だけがテーブルの上に置かれ、毎夜子供たちに母親が読み聞かせていただろう、形跡だけを残していた。
「お姉ちゃん、読んで」
と、既に寝台に潜り込んでいる妹のルルに代わり姉のララが古びた絵本を手に瞳を輝かせてエレナの手を引いてくる。
その手に持つのは読み尽くされているであろう絵本の中の一冊。
ルルやララの母親が新たに本を買い与えないのは何も経済的な余裕の問題だけではなく……当人自身が文字を読めぬのだろう事は二人の名を見ても薄々察せられた。
毎夜毎晩、夢枕で語られ……文字など読めなくても自然と記憶に刻み付けられてしまう程に……。
それは慣習として母親もまたその母から口伝の様に読み聞かされ、受け継がれ、この子たちもいずれ成長し子を成せばその子供たちに伝えられていくのだろう。
この子らの名と同じ様に。
覚えやすい短い名前は決して侮蔑されるべきモノでは無い……だが、現実として読み書きが出来ぬ子供たちが覚え易く、また同様の環境に身を置く地域社会で生きる為に、馴染み易い名前を子に付ける古き慣習は、この様な農村部では今だ色濃く残っている事だけは間違いない。
変化の無い日常……それは定められた物語。
それでも子供たちは与えられた世界の中で夢を見る。
「おいで二人とも、今日は違う遊びをしよう」
エレナは優しくララの頭を撫で、既に寝台で寝転んでいるルルを呼ぶと懐に残っていた何枚かの羊皮紙を取り出すとテーブルへと置く。
同じく忍ばせていた懐刀で折り畳み重ね合わせた羊皮紙を手の平の大きさに四角く切り分ける。
「二人とも、良く見てるんだよ」
エレナはその内の一枚を手にすると器用に折り目を付けながら折り畳んでいく。
「すごい……すごい、すごい!!」
「鳥さん……鳥さんだー!!」
エレナの手で器用に折られたソレ、にルルもララも興奮した様に歓声を上げて喜びを表現している。
「これはね、お守り……かな、想いを籠めて織ると願いが叶う、昔の御呪いなんだよ」
「おまじない?」
二人には上手く理解出来なかったのか不思議そうに小首を傾げるが、好奇心旺盛な姉妹は直ぐに、
「ルルもやる」
「ララも」
とせがむ様にエレナの服の袖を引っ張る。
「いいかい、見た目は関係無い、想いを……願いを込めるんだよ」
二人の頭を撫でながらエレナは床に腰を下ろすと、二人を膝に乗せ丁寧にゆっくりと折り方を教えるが、やはり幼い二人は上手く折る事が出来ず悪戦苦闘を繰り広げる。
ゆっくりと、だが穏やかな時間は確実に過ぎ去って行き。
窓の外、篝火も絶えて来た頃合いにもなると睡魔には勝てなかったのだろう、ルルはエレナにしがみ付く様な姿勢のまま、すやすやと寝息を漏らしララも眠そうに時折眼を擦っている。
「ララ、もう寝ようか」
エレナは二人の様子に気づき、ララを膝から下ろすとルルを抱き抱えたまま立ち上がり寝台へと寝かせる。
「お母さんがね、遅くまで起きてる子は怖い夢を見るって……」
二人の成長を考えてだろう、大き目の寝台は三人が横になるには十分な広さがあり、ルルの隣で身を横にしたエレナの背に不安そうなララの呟きが聞こえ、
「大丈夫だよ、ララが怖い夢を見たらお姉ちゃんが夢の中にまで行って護ってあげる、ララに怖い思いをさせたモノはみんなお姉ちゃんがやっつけてあげるから」
不安そうに寝台の前に立つララに、エレナは迎え入れる様に両手を広げ、
「うん!!」
と、ララはエレナに飛び付く様に寝台へと潜り込み、そんなララをエレナは優しく抱きしめる。
「大丈夫、大丈夫」
優し気な……いや、母親を思わせる慈愛に満ちた少女の声に誘われる様に、ゆっくりと、ゆっくりと、ララは暖かく優しい闇へと意識を沈ませていくのであった。
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