第37話 記憶
あれから三日が過ぎた。アルゴとヴァネッサの消息はいまだつかめていなかった。教会のある街の東側には立ち入り禁止令が敷かれた。もともと居住区は少なかったため、住む家を失う人はそれほど多くはなかった。しかし、それ以上の問題は、アルゴとヴァネッサが失踪してから悪魔の出没が相次いだことだ。
夜道で悲鳴がこだまする。
それより前に悪魔の存在を嗅ぎ付けていたベルは愛実を伴って駆けつけた。一組の男女が悪魔に襲われていた。男性の方は首から血を流したまま動かない。
「はああっ!」
ベルの跳び蹴りが悪魔を突き飛ばした。
「早く逃げろ!」
生き残っていた女性のほうが何度も男性の死体を何度も振り返りながら逃げ出した。
「てめえら、いつもいつも……!」
ベルが歯の奥を強く噛みしめる。そして憤怒とともに大鎌が突き出された。もはやベルは道で出くわしている並大抵の悪魔とは一線を画した強さに成長していた。アンドラスの力をはじめ、倒した悪魔の力をとりこんでいたのである。
力押しの攻撃が悪魔の防御を砕く。そうして無防備になった悪魔の頭部に大鎌が突き立てたれる。悪魔は漆黒の体液を流し、ビクビクと痙攣をはじめ、やがて動かなくなった。
倒した悪魔が消滅していくのも何度も見て来た。そこに、新たな刺客が現れた。
「お前が、アンドラスを、殺した、者か」
「ああ、そうだ。今日は無視の居所が悪い。相手してやってもいいがすぐにぶち殺すぞ」
「良かろう。なあ、お前が本当にアンドラスを倒したのか?」
「なんだ、文句付けようってのか」
「いや。あまりに華奢な女だと思ってな。ならば文句のつけようは無かろう」
現れたのは細身の猿のような姿の悪魔だった。
「だが、私の力は使わせてもらう。私には対象者の記憶を辿る力があってな。そうそう、名はグシオン。覚えておけ」
「何!?」
「貴様の記憶、覗かせてもらおう」
その言葉を最後に、「二人は」気を失った。
気を取り戻した愛実には荒涼とした荒野が目に移った。日は沈みかけていた。やけにくらい。辺りを見渡すと街灯の類が見当たらない。愛実の暮らす日常とはかけはなれた、大昔の時代、もしくは異世界というものに飛び込んでしまったらしい。
なのに彼女は、どこかこの風景に既視感を感じていた。
町の隅で、簡素な服を身にまとった人々が話をしている。愛実はその人々に呼びかけた。
「あのー、すみませーん。ここってどこですかー。」
人々はこちらに気付かない。
愛実は近寄って、先程より大きな声を出した。
「あーのー! すみません!」
やはり反応がない。
――違う国の言葉だからなのかな。
愛実は声での呼びかけをあきらめ、肩に触れようと人々に手を伸ばした。
しかし、愛実の手は肩をすり抜けた。人々は虚像のようになっていた。
愛実はしばし考えて、近くにあった柱に触れようとした。が、それも手をすり抜けた。
愛実は、直前に気を失ったときのことを思い出した。確かベルに憑依してもらっているうちに、グシオンとかいう悪魔に攻撃されて
――攻撃されて!?
――もしかして私、死んじゃったの!? ここって死後の世界ってやつ!?
もし死んでいるのなら沙羅や浅葱がどれほど悲しむだろう、もしこれが夢なら早く醒めてほしい。愛実は途方にくれて、辺りを見渡した。すると、一人の子供に目が止まった。
「……ベル?」
その子供は、彼女の契約した悪魔であるベルに酷似していた。もうすこしベルを押さなくすればこんな見た目だろう。
そこでようやく愛実は合点がいった。この場所の謎の既視感の正体に気付いたのだ。
ベルと出会う前の日に見た夢の中の光景だ。彼女はそう合点した。ならばもうすぐ目が覚めるはず。
――……覚める、よね? 覚めた瞬間グシオンの攻撃で本当に死んじゃう、とかだったらどうしよう。
愛実はそんなことを考えながらも、ベルに似た子供を見つめていた。木の棒で絵を描いて、一人で遊んでいる。やがて何かに気付いたようで、棒を捨てて一目散に駆けだす。そのさきには大人の男性がいた。彼は駆け寄った子供の頭をなで、手を繋いで歩き出した。どうやらこの少女の父親らしい。
「喧嘩はしなかったか、ヴィクト?」
大人が少女に話しかけた。
「うん、しなかったよ! 明日はバアル様の神殿に行くんだから、いい子にしてないと!」
ヴィクトと呼ばれたベル似の少女が元気よく返事をした。
二人は夕日に照らされながら歩き去っていった。愛実がそれについていこうとして足を踏み出した瞬間、意識が途切れた。
愛実は突然青空の下に投げ出された。急に照り付ける太陽の光に顔をしかめた。目の前に人影がいて、何かを目指して進んでいる。後ろ姿のうち二人はヴィクトとその父親らしかった。おそらくこの集団は彼らの家族なのだろう。
前方に目をこらすと、意思で作られた大きく、荘厳な雰囲気の建築物が見えた。愛実はそれらについての知識は持ち合わせていなかったが、なんとなく、それがヴィクトの言っていた「バアル様の神殿」ということは分かった。愛実はその後を追うかどうか少し迷った。また別の空間に飛ばされるかもしれないと考えたのだ。しかし好奇心に負け、恐る恐る一歩を踏み出す。飛ばされない。二、三歩歩いてみる。今度は飛ばされないらしい。愛実はヴィクトたちについていくことにした。
神殿の中は多くの人々でごった返していた。愛実はその人々を見回してみるが、やはり愛実と同じ時代の人々は見受けられない。愛実の目は、正面に鎮座している大きな立像に止まった。
愛実がそれに見とれているうちに、神官らしい男が人々の前に姿を現した。
その男は声を枯らして告げた。
「神託。我バアル・ゼブルは、人が神の座に就き代々継がれるものなり。されど人の魂は脆きものなれば、我が力弱まり、のちの災いを防ぐに能わず。なれば、我、新しき依り代となる者を欲す。我こそはと思わん者は名乗り出よ」
信託ののち、まるでせきをきったように神殿は大声で埋め尽くされた。神官はあまりのうるささに耳をふさいだが、やがて新しい信託が下ったのかおそるおそる耳から指を離すと、大音声に負けじと声を枯らして叫んだ。
「神託。よろしい、各々の思いは十分に通じた。今宵、一人を依り代として再びこの神殿に招こう」
神官はそう叫ぶと、限界がきたのか血を吐いて倒れた。数人の神官が彼を運び出した。
愛実の意識が再び飛んだ。
場所は変わらず神殿であったが、あたりはすっかり暗くなっており、月の光が神殿の中をうすぼんやりと照らしていた。賑わっていた日中と打って変わって人っ子一人いない、いや。
たった一人、ヴィクトが、バアルの像の前で立っていた。
――まさか、ヴィクトちゃんが、次のバアルに?
愛実は神殿の中を走り、ヴィクトの近くまで駆け寄った。
バアルが、地響きのような声でヴィクトに語り掛けた。
「なぜ、依り代を継ごうと思った?」
ヴィクトはその威圧感に気圧されながらも、かわいらしい声を張り上げてバアルに応えた。
「バアル神のおかげで、わたしたちが生きていられるんです。お父さんやお母さんも、みんなが喜んでる。そういう風にみんなが喜んでくれることなら、私がやりたいって思いました。」
「二度と元の肉体には戻れぬ。父母が死んだ後もずっと、ずっと。ここを守り続けていかねばならぬぞ。ふ、私などとうとう自分の名すら忘れたわ」
「……だからです。」
「何?」
「とても素晴らしいことだと思うけど、本当はとても辛く、悲しいことだってことくらい私にだってわかります。今日、みんなが依り代になりたいって言ったのも、その家がバアル様を出したってことでずっとずっと、大切にされて続いていくため。みんなそのことをわかっててやってる。私も、分かってる」
その答えを聞いたバアルは、満足そうな声で
「よろしい」
と告げた、直後、まばゆいばかりの光がヴィクトを覆う。愛実も光に目がくらんだ。光が晴れるころには、ヴィクトの姿はどこにもなかった。
一人になった愛実は、姿を消したヴィクトのいた場所に座り込んだ。すぐに意識が飛ぶだろうと何をするでもなくぼうっとしていた。ただ、神に命を捧げた幼い命に思いを馳せながら。
「……ねえ、そこに誰かいる?」
にわかに神殿中に響く声がして、愛実はビクリと飛び上がった。しかし、その声色がヴィクトのものであることに気付くと、愛実は返事を返した。
「何? 君、ヴィクトちゃん、でいいのかな?」
「うん、どうして知ってるの?」
「ごめんね、ずっと見てたんだ。お父さんと話してるところとか。声をかけようと思ったけど、誰にも聞こえなくて……ヴィクトちゃん、どうして急に私の声が聞こえるようになったの?」
「……わからない。ねえ、夜の間だけ、お話しない? 夜は寂しくて、怖い」
「ヴィクトちゃん、これからずっとこうやって一人で夜を過ごすんだよ?」
「知ってる。でも最初の日くらい、お友達がいる日くらい、お話ししてもいいでしょ」
「そうだね。折角会えたんだし」
「じゃあ、お姉ちゃんの名前を教えて?」
「私は十和田愛実っていうんだ……長いから愛実、でいいや」
「ダメグミ?」
「違う違う。メグミ」
「メグミ? メグミっていうんだ。ねえ、メグミお姉ちゃんはどこから来たの?」
「えっとねえ、ここからずっと遠くにあるんだけどね――」
結局、愛実はヴィクトと一晩中話をしていた。朝起きられない妹と姉のような二人と暮らしていること。新しい友人が二人増えたこと。
不思議と、睡魔の気配はなかった。
しだいに漆黒の夜空に光が差してきた。
「もう朝になっちゃった。早いね」
「そうだね。お姉ちゃんもこんなに長く話したの初めて」
「ほんと?」
「うん」
バタバタと足音がする。神官たちの朝は早いのだろうか。そう思って愛実は入り口のほうを見やる。
すると、ヴィクトの父親が神殿に駆け込んできた。彼の家族もいっしょだ。
彼はバアル神の像の前にひざまずき、涙声で叫んだ。
「バアル神よ、どうか、どうかお願いです……娘を返してください……! 私が身代わりになりましょう、何卒……!」
「お父さん? お父さん! 私はここにいるよ!」
ヴィクトは必死に呼びかけた。しかし、その声は彼女の家族のだれの耳にも入ることはない。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん! お父さんに私はここだって教えて!」
愛実に助け舟を求めたが、愛実は涙を流しながら首を横に振った。
「ごめん。私の言葉も、君の家族には届かない……私が……私が止めなかったから……」
突如、愛実の視界が暗転する。その中で、神殿の中のヴィクトのように、聞きなれた声が響いた。
「結局、アタシの家族はヨボヨボになって足をダメにするまで、毎日神殿に通い続けた。」
「ベル! ……待って、ヴィクトちゃんがベルだったってこと? 元は人間だったって言うの!?」
「ああ、そうだ。アタシは自分の身勝手な行動が起こした、取り返しのつかないバカらしい結末を悔やみながら二百年過ごした。まともにアタシの声が届くのは月に一度の神託の日だけ。でもさ、苦しいとか助けてとか、口が裂けても言えねえだろ? 神様やってんだから、みんなを怖がらせてどうするよ」
「二百年も……そうやってたの?」
「ああ。……そして、予言されていた災厄の日は来た。ソロモン率いるファルシオンの軍勢が攻め込んできた。アタシも敵に天災をぶっ放したりして頑張ってはみたんだけどさ、ダメだった。そんで、神殿にたどり着いたソロモンはアタシを一冊の魔導書に封印した。周りの連中がさ、こういったんだ。奴らはこの神殿の神のことをバアル・ゼブル、大きな館の気高き主と呼んだが、こうなってはベルゼブブ、糞にたかるハエの王だな、ってな。……これで満足か? グシオンのお陰でとんでもないものを見せちまったよ」
「待って、ベル、ベル! ベル!」
暗闇の中を手探りで、ベルの名を叫んだ。彼女がそれに応えることはなかった。
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