第35話 アルゴ・ローゼン
かつてファルシオン近くで活動していたテログループ「神の剣」。その頭領を務めていた男の元に、アルゴ・ローゼンは生まれた。アルゴ・ローゼンという名は後に改名したものであり、当時の名はリークといった。
「神の剣」は、かつてファルシオンの支配に反旗を翻して反乱を起こし、討たれた一人の司祭が持っていた宝剣に由来する。彼は冬の厳しさと不作の二大打撃を受けて餓死していく民をみかね、ファルシオンの国庫解放を叫んで蜂起したのであった。
テログループ「神の剣」は、その司祭とは無関係なものであったが、世界に衝撃を与えた言葉を冠することで、大義名分を訴えたのだ。貧困層の人々で構成されており、彼らは手あたりしだいに銀行などを襲って金を強奪していた。彼らを阻むものは何だって破壊してきた。たとえそれが生きた人間であったとしても。
年端もいかない少年だったリークは、父親タオブの威厳を部下たちに示すために、文字の読み書きより先にナイフと拳銃などの武器を扱い始めた。人を初めて殺めたのは三歳の時だった。自分のしていることが何かもわからず、彼は人命を奪い続けた。誰も彼が人を殺すすべを知るとは思うことはなく、完全に油断していたのだった。
彼の人生の転機は六歳のときであった。彼は暗殺任務を請け負っていた。目標はファルシの司祭の一人、エリナ・ローゼン。毎晩この道を通って家に帰る。
そのころには彼の腕はナイフを用いた暗殺術に馴染み、ナイフを腕の一部のように扱えるようになっていた。
足音が聞こえてくる。彼は必殺の範囲まで彼女が歩いてくるのを待った。
エリナと思しき者の足音は、彼の必殺の範囲にたどり着かないうちになるのを止めた。
出て来い。彼は思った。
のちになって、その思いが「神にでも祈るような」という言葉に表されていることを知った。「神の剣」の構成員でありながら、アルゴはファルシを知らなかった。アルゴは必要最低限の教養しか持ち合わせていなかったのだ。
苦痛の時間が数分続いた後であった。
「武器を置いて出てきなさい。あなたはそれを持っていてはいけない」
凛とした、それでいて優しさの見え隠れする女性の声だった。顔はまだ見ていないが、この声の主がエリナ・ローゼンなのだろう。アルゴは確信した。
しかし。彼女は自分が標的になっていることを知っている。暗殺者が近くに潜んでいることも。
ならば、銃を捨てて姿をさらし、ナイフを喉に突き立ててしまってもいいだろう。顔を見られたとしても別に咎めはあるまい。彼はそう判断した。
彼は銃を投げ捨てると、服の袖の中にナイフを隠し、女性の前に姿をさらした。間違いない。その女性こそ、暗殺のターゲットであった。
彼はナイフの柄を握りしめた。一瞬で動き、致命傷を負わせられるように。
しかし彼女はものおじすることなく、ただ一言、
「それも置きなさい」
と告げた。
アルゴは自分の行動が理解できなかった。今やすべての武器を捨て、完全な丸腰である。いや、首を締めることはできる。しかしそうなっては相手に抵抗されてしまう可能性がある。そうすれば暗殺は失敗するかもしれない。
そう逡巡するアルゴの手を、エリナは取った。
「……何を」
「あなたの身なりと、手慣れた武器の扱いを見ればどういう境遇か分かります。あなたを保護します。私の教会は孤児院も兼ねていますので」
女性の手を振り払って逃走することなど容易であろう。にもかかわらず彼がそうしなかったのは、彼の奥底では殺し続ける生活に疲弊しきっていたのだろうと、彼は後に考えた。
彼が新しく入った孤児院のメンバーでは、年齢が二番目に上であった。
にもかかわらず、学業は全く振るわない。何度、机の上にある不可解なことだらけの紙片を破り捨てようかと思ったが、そのたびにエリナが根気強く彼に指導をしたのであった。
ファルシも学んだ。血と鉄と硝煙の臭いの世界で生きて来た彼には信じられない教義であった。人のために生きる、など考えられなかった。
少しずつ、本当に少しずつだったが彼は笑顔を見せるようになった。
そんな小さな幸せを摘み取ったのは、彼が十六歳になった頃であった。
それまでテロ活動を続けていた父親が捕らえられたのだ。
タオブは現地の警察に仲間の居場所を教えるよう強要されていたが、一向に口を割ることはなかった。何度も拷問が行われた。結果、別人のような顔になった。
そして、しびれを切らした警察に、リークが「重要参考人」として召喚されることになった。エリナの元にその手紙が届いた。召喚されたリークがどのような扱いを受けるか、エリナに想像は難くなかった。
数日後、エリナの元に彼女と親交のあった友人がやってきた。エリナは彼女にリークをファルシオンに避難させるように頼んだ。友人は快諾した。
その際、リークの名のままでは彼の正体が露見してしまう。少年の幼さが消え、精悍な顔つきの成年への途上を辿っていたリークに、エリナは彼に新しい名を贈るのであった。
神話の時代、神々を乗せて大海原を渡ったアルゴー船。彼の旅立ちが幸あるものになるよう祈りを込めて、彼の名をアルゴ、姓はなかったので彼女の姓を名乗らせることにした。
こうしてアルゴ・ローゼンはエリナの友人に連れられ、ファルシオンに渡った。ファルシオンでは悪くない待遇を受けた。
一方、エリナの辿った末路は凄惨なものであった。
エリナが彼を逃がした後、「神の剣」残党はタオブ奪還のために爆弾テロをしかけた。重要参考人を庇うどころか逃がしたという罪、そして爆弾テロを招いたという罪に問われ、エリナは牢に繋がれることになる。
アルゴは議会に、そして大司祭エルマーにエリナの救出を訴え続けた。しかしことごとくが却下されていた。アルゴは若くしてかなりの地位に上り詰めていたが、同時に議会の進めていた身辺調査により、彼が元テロリストだと発覚した。これが世間に公表されては落ち目のファルシの権威が地に落ちる。議会は再司祭エルマーと結託して隠ぺい工作を行うと同時にアルゴに固く口封じをした。その中でもアルゴは何とかしてエリナを助け出そうとしていた。
なお、一人を助けるより全体の権威を守るべきだ、とエルマーに説き、エリナの救出を思いとどまらせたのが他ならぬヴァネッサ・ルーサーであったが、今の彼女には全く記憶がなかった。
エリナが獄中で死亡したという知らせが彼の耳に入ったのはそれから間もなくのことであった。彼は理解不能な司祭たちの行動と無力さ、理不尽さにもだえ苦しむこととなった。
お前たちが一言声をかければ、エリナは救われたんだ。お前たちはそこまで権力に執着するのか。善良な人が死んでいくのを黙ってみていたのか。こんなもの、あの人が信じたファルシじゃない。
彼は決意した。権力を手に入れ、肥え太らせ、頂点まで上り詰める。そして世界中に自分の正体と、ファルシの犯してきた数えきれない汚点を白日の下に晒し、権力を失墜させる。その目的のためなら道化を演じ、笑いながら死んで行ってやろうじゃないか。かれは決意したのだった。
その執着の強さに、エリナからアルゴを託された友人は彼から遠ざかってしまい、孤独に逆戻りしてしまったが、その眼光はテロリスト時代より鋭く、当時は持ち合わせていなかった憎しみの炎を滾らせ、待ち続けていたのだった。
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