第25話 愛実の夢
一人の少女が赤子を抱いている。時折左右に揺らしたり上下に揺さぶったり。赤子が笑い、それにつられて少女も笑う。その様子を一組の男女が幸せそうに眺めている。日の当たる明るい部屋で、特別でもなんでもないゆったりとした、幸せな尊い日常。少女の名は十和田愛実という。
――これが走馬燈、なのかな。
愛実はかつてあった日々を、平和を享受する自分の姿を見ていた。楽しげに笑っている。両親の表情は見えない。どれほど目をこらしても、顔にかかった影は晴れない。
――そうか。もう随分会ってないからなあ。写真もないし。
走馬燈は次々と場面を映し出す。
赤子の名前が決まった。「未来」という名だ。未来が初めて自力で立ち上がったところを、愛実が目撃していた。それを興奮気味に家族に話したことを今でもはっきりと覚えている。初めての神社で大泣きした未来をあやそうと四苦八苦していたことも。
――ああ、「あの日」が来てしまう。
目を背けても、両手で目を覆っても、光景はゆったりと、しかし確実に、残酷に流れ続け、愛実の前に日々の回想を映し出す。「あの日」まで続く日々を。
豪雨。雷の音。その中を両親と未来の名を叫びながら泣き崩れる愛実。それが、家族との最後の思い出になったのであった。
愛実は目を覚ました。体中に柔らかく重い感触がある。沙羅の寝室で眠っていたようだ。時計の針は六時を指している。あたりは薄暗く、午前か午後かも分からない。豪雨に見舞われているようで、雨粒が屋根に打ち付ける音がする。
手を伸ばして指を開き、これが現実の光景であることを確認する。液体が頬を伝い、枕をぐしょぐしょに濡らしている。愛実は目じりを拭い、布団から抜け出した。
様子を見に来たのか、ドアを開けて入って来た浅葱と目が合う。浅葱は緊張の糸が切れたような笑みを浮かべた。目には隈が濃く刻まれている。
「良かった、愛実さん……」
「浅葱さん……今何時ですか? どうやってここに?」
「朝の六時です。一日中ずっと眠っていましたから、次の朝の、ですが」
愛実は驚き、ぼんやりとした意識を覚醒させた。
「嘘……じゃあ、学校は」
「お休みになっていたはずでは? 沙羅から伺いましたが」
「ああ、そうだったね……沙羅はどうしてる? ベルは?」
「沙羅は愛実さんの部屋で眠っています。ベルさんは意識をなくした愛実さんを運んできて、沙羅さんと一緒に」
「そうなんだ……ごめん浅葱さん、しばらく横になってていいかな?」
「どうぞ、ゆっくり休んでください」
浅葱は静かにドアを閉め、部屋から出ていった。
一人残された愛実は再び布団を被った。身体の疲れはとれており意識もはっきりしている。ただ、原因不明の怠さが、囚人に巻きつけられた錘のように彼女にまとわりついている。
思えば、一人で過ごす時間は数日振りであった。ベルが部屋に来るようになるまではたった一人で就寝していたのに、随分と物寂しい気分になる。かといって浅葱を呼んで語り合いたいという気分でもなかった。
「ベル……」
なんとなく、新しい友人の名を呼んでみる。愛実が気を失う直前のやりとりが思い出される。
『バカ、あいつまで助ける気か! 別に親しいわけでもないし、ああなったのは自業自得だろうが!』
『あいつはもう手遅れだ! あいつを食っている間にアンドラスを仕留める、それでいいだろうが! アタシもお前も死なずに済む、ダメだって言うのか!』
『お前……どうかしてるぞ!』
田淵を餌にしてアンドラスを仕留める、というベルの提案は上策と言えただろう。実際、こうやって自分が生きて帰って来ることができ、沙羅も浅葱も泣かせずに済んだ。ベルの策は成功したのだろう。田淵を犠牲にして。
実際のところ、なぜ自分がクラスメイトの生死にあそこまで拘泥したのか、愛実にも分からない。ただ、ベルが自分を異質であると非難したことも理解できなかった。危険な目に遭っている人がいたら、それを救うのは当然のことだ。そのどこが異質なのか。
――何がしたいんだろ、私。
頭を抱えて考え込んでいるうちに、愛実は再び睡魔に攫われてしまった。
愛実とベル、資憐とアンドラスが命の火花を散らして戦った廃材置き場の倉庫。時間の流れに置き去りにされたようなこの場所は、人でごった返していた。辺りにビニールのテープが張られ、警官が慌ただしく行き来していた。
その様子を、離れた位置でヴァネッサが淡々と眺めていた。
「まさか、ベルゼブブが勝つとは」
誰に聴かせるまでもなく一人呟く。
「私はこの結果は見えていた。むしろアンドラスが今まで持ったことが驚きだね」
十字架の中からベリアルが声を掛けた。
「ベリアル、覚悟はいいですね? これからが本当の戦いです」
「知っているさ。アンドラスを面倒がって、今まで隠れていた連中が姿を現す。ベルゼブブとの同盟はどうする?」
「生き残ったならばそれも善し、としましょう。アンドラスの力も吸収して、心強い戦力になった」
「友人の心配をするより君の心配をするべきではないかね、ヴァネッサ? これからの戦いは熾烈なものとなろう。それこそ、死んだほうがマシだと思う程度に。そのためにベルゼブブにアンドラスをあてがったのだろう?」
「私にも覚悟は出来ています。それに、私にも目的はあります。それを達成するまで死ぬつもりはありませんから」
「私たち、であろう。まあしばらくは退屈せずに済みそうだ」
ヴァネッサは踵を返し、その場を立ち去った。
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