第24話 最期

 ベルは後ろに飛び退き、ハルバードの一撃を回避した。そのままアンドラスから離れ、逃げ出す。

「何やら勝算があってのことだと思ったけど……ただの時間稼ぎ?」

資憐は小さくなってゆくベルを笑い飛ばし、アンドラスを低空飛行させた。力でも、速さにおいてもアンドラスが優位にあった。ベルは後ろを振り向きながら逃走を続ける。

 

 「ベル、大丈夫。私の教えた通りに」

 ベルの中に愛実の声が反響する。今まで気づくことはなかったが、意識を愛実に近づけることで彼女の意図や言葉を聴くことができたらしい。ベルが愛実の体を使って戦っている間、愛実の意識も存在するのだ。

 地面を蹴る脚にさらに力を込めた。ベルの全力、そして愛実の全力の二人分。とうとう、途中でアンドラスに追いつかれることなく、彼を「誘導」することに成功した。

「よし、上手くいったぞ! あとはここに飛び込めばいいんだな!」

「うん!」


 ベルは意識の中の愛実に呼びかけた。しっかり届いたようで愛実も力強く返事を返した。ベルは逃げるのを止め、道路の脇にあった建物の敷地に転がり込んだ。

 それを見た資憐は札を出して、自分より先に進んでいたアンドラスを止めた。そしてアンドラスの横に立ち、ベルが逃げ込んだ建物を眺めた。随分人が使っていない建物のようで、夜の闇の中でも屋根が錆びついていることが見て取れた。扉やシャッターのようなものはない駐車場のようなスペースに作業用具と思しき物品が並べられていた。


「廃材置き場、ってことかな。よく見つけたね。障害物の多い場所に誘い込んで不意打ちでもしようって事なんだろうけど、そう上手くいくかな?」


 資憐とアンドラスはゆっくりと足を踏み入れる。資憐が手をかざすと、アンドラスがハルバードから斬撃を飛ばし、廃材の一角を切り落とした。

「早くしないとアンドラスに切り落とされるよ。せっかく逃げ込んで勝機を伺ってるのに、それで死んじゃ勿体ない――」


 それを言い終わらないうちに、ベルが大鎌を振りかざして資憐に奇襲を加えた。資憐は驚愕しながらもアンドラスを引き寄せ、攻撃を受けさせた。

 ベルはアンドラスが反撃に入らないうちに武器をひっこめ、廃材の中に身を隠す。

「今更逃げたって無駄だって! ……そこかっ!」

アンドラスの斬撃が、ベルが隠れている機材目がけて放たれる。ベルは間一髪、斬撃が着弾する前に飛び退き、切断から逃れた。


 ――まだだ。もっと引き寄せろ。

 愛実の心臓が危険を訴えかけている。息もすっかり上がっている。落ち着かせるようにベルは念じた。


 入口に立っていた資憐とアンドラスが一歩、中へと足を進める。また一歩。

 ――いいぞ、もっとこっちまで来い。そうでもなければ、アタシの体力が持たない。


 「ぐがっ!?」

とうとうベルは避け損ねてしまった。斬撃によって破壊された残骸がベルの背中に激突したのだ。

「ふう、ようやく終わりか。疲れたけど楽しかったよ、久しぶりの鬼ごっこ」

 資憐が心底楽しそうに告げる。そして、アンドラスに攻撃を命じた。


 「終わる……?」

ベルが一人小さく呟く。

「終わるのは……お前たちだ」


 ベルは残った力全てを振り絞り、跳躍する。着地した先には、高さがベルの身長程度ある物品があった。毛布がかかっていて、その物品は何か、それを見ただけでは分からない。ベルはその毛布を思い切り引き払った。

 闇の満ちる夜にさすわずかな光。その光を吸収して、鏡はアンドラスと資憐の姿を映し出していた。

 

 愛実の用意した策とは、この廃材置き場にあった鏡であった。愛実は、アンドラスは「目に映るすべてのものに破壊衝動を覚える」と聞かされていた。もしアンドラスが獣並みの知能しか持ち合わせていないならら、鏡の中の虚像にも攻撃を加えようとするだろう。そう予測を立てたのだった。

 その悪魔は突如現れた虚像、新しいモノをじっと見つめる。やがてそれを敵だと判断すると、一直線に飛び出し、叩き斬ろうとした。横で倒れているベルには目もくれず。


 「止めろアンドラス、そいつは罠だ!」

資憐の声はアンドラスに届いたが、一度飛び出したものを引き戻すことはできない。結果、鏡を目の前にして棒立ちになるアンドラスという、ベルにとって絶好の機会を作り出すことになってしまった。そして、その隙をベルが逃すはずもなかった。


「はああああっ――!」

大鎌の斬撃が、容赦なくアンドラスを抉る。黒い血飛沫と絶叫を迸らせ、身体が激しくのたうつ。


 勝利を確信したベル。しかし――

「何だと、まだ生きてやがる!?」

致命傷を負ったと思しきアンドラスは、いまだ健在であった。激怒する彼の目にはもはやベルしか見えていない。自分に傷を負わせた、憎い敵に。


 身の危険を、ベルは第六感で感じた。大鎌を投げ捨ててアンドラスから距離を取る。

アンドラスは資憐の命令を待たず、持てる全力での斬撃を、全方位に――放った。

建物の中に瞬間的に嵐が巻き起こったかのようであった。殺意ある刃があたりを刈り取ってゆく。


 ベルは体の無事を確認すると、ゆっくりと起き上がった。轟音の後の耳鳴りが酷い。視界を舞う埃を手で振り払う。

 打って変わって、戦場を静寂が支配していた。この様子では、呼吸だけでも位置が割れかねない。ベルは早鐘を打つ心臓に耐えながら、アンドラスの次の行動を見極めることにした。

 

 一向に、アンドラスは攻撃を仕掛けてこない。それどころか、足音の一つも聞こえない。まるで時間が凍り付いたような奇妙な空間の中、埃の霧が晴れてゆく。

 アンドラスは、斬撃を放ったまま、肩を落としうなだれていた。

 その向こうで資憐が震えている。耳を澄ますと、彼のうめき声が聞こえる。


 資憐はアンドラスの攻撃に巻き込まれ、護符ごと右手を切り落とされていた。

 自分を縛るものが失われたことに気付いたアンドラスは、その眼光を資憐に向け、ゆっくりと歩み寄った。


反撃を加えようとせず、契約者を追い始めたアンドラスを、ベルは不審に思った。ふと、ベリアルの言葉が、「アンドラスは人を喰らって力を増した」という言葉を思い出した。

 ――まさか契約者を食うつもりなのか。そうだ、奴は散々人を食って肉の味を覚えたんだ。


 資憐は血相を変え、護符も拾わずに奥の方へ奥の方へと逃げ出した。アンドラスはそれを悠然とした歩みで追う。歩くたびに垂れ流される血液と資憐の息遣い、そして足音。今までで最も容易い狩りであった。

「はぁ、はぁ、あぁ、はぁっ」

 身体のあちこちを廃材にぶつけ、その欠片が地面に散らばる。体はふらつき、呼吸はすっかり乱れた。


 資憐が何度も見てきた、アンドラスに殺される人々の最期の姿であった。逃げ切ることは不可能と知りながら無様に抵抗を続ける姿。そして、アンドラスはそんな犠牲者を一人残らず仕留めて来た。自らの使役していた黒い影が、死神にも見えた。資憐の表情は恐怖に引き攣り、目尻には涙が溜まっている。


 資憐の命の灯が消えゆく、その様を眺めていたベルの頭の中に力強く訴えるものがあった。

「何やってるの、ベル! 助けなきゃ……助けなきゃ田淵くんが死んじゃうよ!」

愛実の声だった。声には熱が篭もり、嗚咽が混じっていた。

「バカ、あいつまで助ける気か! 別に親しいわけでもないし、ああなったのは自業自得だろうが!」

愛実の勢いに圧し負けまいとするようにベルが怒鳴り返す。

「見捨てるって言うの!?」

「あいつはもう手遅れだ! あいつを食っている間にアンドラスを仕留める、それでいいだろうが! アタシもお前も死なずに済む、ダメだって言うのか!」


 「駄目だよ! 死んでもいいなんて間違ってる!」

しがみつくようにベルが叫ぶ。ベルの意思に背き、右腕が前に突きだされる。ベルは両足を踏ん張ってそれに耐える。

「お前……どうかしてるぞ!」



 二人が問答している間に、資憐は建物の奥まで追い詰められた。逃げ場を失った獲物に、契約を交わしたはずの悪魔がじりじりと距離を詰める。

「嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ止めろ――」

アンドラスは耳障りだとばかりに片手で資憐の口を押さえつけて持ち上げ、頭から床に叩きつけた。建物全体を伝う轟音と振動、それが田淵資憐の生涯を終える号砲となった。

 早速、アンドラスは物言わぬ肉塊になった元契約者の腹を爪で引き裂き、腸を引きずり出して齧り付く。辺りに真紅の果汁が飛び散ることも構わず、夢中で晩餐に興じた。


 愛実は全てを悟ったのか、ベルとの口論をやめた。意識を手放したようだ。言葉の一つも返さない。途端に肉体は枷を解かれたように、ベルの望む通りの動きを取り戻した。

「そうだ。大人しく眠ってろ、愛実。目が覚める頃には全部終わってる」

 大鎌を引きずって歩き出す。身の毛もよだつ咀嚼音のする方向を目指しながら。


 主人と同様、アンドラスの最期も呆気ないものであった。背後まで歩みよっても、忍び寄る死に一向に気付くことはなかった。

 振り下ろした鎌はアンドラスの喉を貫いた。腕が力なくだらりと垂れ下がる。

――こんな、こんな奴のために何人も殺されたっていうのか。こんな簡単に死んじまう奴に。

ベルはこみ上げる無念をすり潰すように、ありったけの力を込めて鎌を引き抜いた。


 漆黒の体液が飛び散り、アンドラスは血の海の中に倒れ込んだ。一人と一体の歩んだ・虐殺と流血の道の果てであった。

 黒い血は、処刑の下手人となったベルの体にも飛び散っていた。それはアンドラスが最後に遺した、呪いじみた置き土産に思われた。

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