第19話 黒翼魔アンドラス
「止まりなさい、最後の警告です!」
ヴァネッサは拳銃を構えて二つの人影に向かって叫んだ。二つの人影のうち一つは先刻奇襲を受けた翼の悪魔。もう一つはその契約者と見て間違いないだろう。契約者らしき人影はぎょっとしてこちらを一度振り返ったものの、再び背を向けて逃げ出した。その背中目がけて、ヴァネッサは躊躇することなく引き金を引いた。
火薬に打ち出された金属の弾丸が、肌を刺す空気の中を轟音とともに真一文字に突っ切る。
銃弾は命中することなく、アスファルトを抉るにとどまった。
契約者が何か命令をしたのか、悪魔は突然走るのをやめ、ヴァネッサに向き合った。ヴァネッサは射殺すような視線に怖気づくことなく、視線を合わせたまま十字架を握った。
「私は契約者を仕留めます。あなたはあの悪魔を」
「負傷を知ってのことか? まあいいだろう、奴にはたっぷりと礼をしなければならなかったからな」
どうやらベリアルも辛酸を舐めさせられた苦い記憶を、その襲撃者を討つことで上書きしたいようだ。ヴァネッサは十字架の封印を解き、その場を離れて契約者を追った。
こいつがアンドラスとみて間違いないだろう。何度か拳を交わしたベリアルは確信した。
「力を増したな、何人喰らった?」
アンドラスはベリアルの挑発には一切応じない。ただ、金切り声のような雄叫びをあげてハルバードを振り回すのみである。自分の負傷を計算外にする力づくの攻撃ほどやりづらいものはない。ベリアルは舌打ちした。
「貴様を相手にしていると一人で楽しんでいるようで味気ないな。やはり多少弱くてもあの女とやりあうほうがもっと味があるというものだ」
ベリアルは吐き捨てると、両拳を勢いよく突き合わせた。拳のガントレットから噴き出す轟炎が闇を赤く、熱く照らす。
「これで幕引きといこう」
姿勢を落とし、身体を屈める。その勢いを突き上げる拳の勢いに乗せ、必殺の一撃を放つ。
闇の中であったが、逃亡を図る契約者は若い男であることが見て取れた。しかし、悪魔祓いとして血風の中を生き、何度も死線を潜り抜けて来たヴァネッサにとって追い詰めることは造作もない。とうとう、拳銃の届く位置まで契約者を追い詰めた。
――弾は十分。まずは腹を撃って動きを止め、次に頭に止めを刺す。いつも通りでいい。人でも悪魔でも、秩序を乱す存在に違いはない。
自分が異常に緊張していることに気付き、何度も、自分に言い聞かせるように反芻した。ヴァネッサは、人を撃ったことはなかったのだ。
銃声、そして男の悲鳴。
ヴァネッサの殺意は契約者の腹を穿つには至らず、腕を掠るに留まった。彼女は自分の犯した愚行を信じることができなかった。被弾した腕を庇って走り続ける男に、震える手で照準を修正する。背中は氷でも入れられたかのように冷え切り、額と指先は鉄のように熱い。
――逃がしてはいけない。
彼女は引き金に指をかけた。今度こそ、あの絶対悪を撃ち抜くのだ。
ベリアルはアンドラスの行動に驚愕することになる。
アンドラスは突然ベリアルへの興味を失ったように飛び去った。炎は虚空をかすめた。ベリアルはアンドラスの行く先を目で追っていたが、直後、その行動が何を意味するか悟り、走り出した。
「ヴァネッサに狙いを……!? させるか!」
ヴァネッサの放った二発目は、突如降り立ったアンドラスによって阻まれた。
感情の一切見えない、ただ殺意のみがにじむ視線がヴァネッサに向けられる。そして、ハルバードを構えた。
死というものは唐突に訪れる。悲しみと安らぎの中で終わりを迎えるヒトが例外なのであって、本来獣の、命の終わりには一切の憐憫も劇的さもない。
そして悪魔祓いは、悪魔という獣との戦いに身を置く職業。その最期もまた獣のそれと等しい、否、それ以下である。死して他者の、悪魔の糧となるなら上々、八つ裂きにされて道端に捨てられるのが常なのである。ヴァネッサは、そのような最期を遂げた同僚を何度も見て来た。笑顔と誇りを胸に旅立った者たちが、物言わぬ肉片となって帰ってくる様を。
――そうか、私の番か。
そのため、ヴァネッサは、いつか悪魔に蹂躙されるものだと覚悟していたし、それが目前に迫っても一切の恐怖も、感慨も抱くことはなかった。
振り上げられた刃が彼女を両断する、その寸前で彼女を突き飛ばす者があった。
「お前の最期がここだと? 認めぬ、もっと足掻いてもっと無様に死ぬ、私がお前に求めているのはそれだ」
彼女の契約した悪魔が駆けつけ、アンドラスと対峙する。
しばらくにらみ合いを続けた後、アンドラスの契約者が片手を挙げた、それを合図にアンドラスは契約者を片腕に抱え飛び去って行った。
静寂が訪れる。闇は晴れつつあり、白い光が東から差している。
「……ベリアル」
「何だ」
ヴァネッサは契約した悪魔の名を呼ぶ。
「ありがとうございます」
ベリアルはそれを一笑に付した。
「お前がここで死ぬのが気にくわなかっただけだ」
「……でしたら」
ヴァネッサがベリアルに手を差し出す。
「何だ」
「立てないので、手を貸してください」
「どこまでも腹の立つ女だ」
ベリアルはヴァネッサを抱え、帰路についた。
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