第11話 炎魔ベリアル


 ヴァネッサ・ルーサーは日本行きの飛行機の中で目を覚ました。前もって日本の標準時間に直しておいた腕時計を見ると、午前四時を指していた。予定通りの就航なら、間もなく到着のはずだ。


 一度深呼吸をしてシートにもたれる。すると、彼女の下げていたペンダントが彼女に語り掛けてきた。

「憂鬱そうだな、ヴァネッサ」

低い男の声であった。ヴァネッサは目を閉じたまま顔をしかめ、声の主にぴしゃりと言い放った。

「みだりに話しかけない、という決まりのはずですが」

「は、それは君が勝手に決めたものだろう」

しかしその男、ベリアルにはどこ吹く風。そのままの調子で続ける。

「どうかね。これから背中を預け合う者同士、交友を深めておくべきだと思うが」

「反吐が出ます」

「やれやれ、とりつく島もないか」

姿を現していれば、あきれ顔で肩をすくめてでもいただろう。


「あなたは私の道具として扱わせていただきます。そのつもりでいるように」

「なら、こちらも好きにやらせてもらうこととしよう。その気高き魂、いつまで持つか愉しみに見ているとしよう」

「は、戯言を」


 出来るのならば、ヴァネッサは今すぐこの十字架を粉々に砕いてしまいたかった。しかし、これは忌々しくも父親からの贈り物であり、唯一無二の武器なのであった。

 このような形で日本を訪れることになるなど、夢にも思わなかった。彼女にとって日本は、常識の一切通用しない、異世界と言ってもいいかもしれない。ファルシ教が徹底されていない、数少ない国の一つである。

 元は、ファルシ政権の樹立者が、「世界中にファルシを伝播していくにあたり、全土において信仰を強制しては抑圧されたことによる反発が危惧されるため、ある程度ガス抜きのできる国を設けてもいいだろう」という提案であった。。その対象として日本などいくつかの国が選ばれ、今に至るのである。


 はっきり言えば、ヴァネッサは日本について微塵も興味が沸くことはなかった。父エルマーは、娘に密命を遂行すると共に日本などでしか見られない、多くの価値観が並び立ち、互いを尊重する気風を学んできてほしいと願っていた。ファルシオンではファルシの価値観が絶対であり、エルマーの望む新しい時代には、理解しあう感情が必要だと考えたのだ。しかし、親の心子知らずと言うべきか、ヴァネッサは父の意図を察知することはできなかった。


 ようやく太陽が顔を出し始めた頃であった。霧の中、雲の向こうから光が溢れている。日本の冬は厳しいと聞いていたが、この程度ならファルシオンのほうがまだ酷いものであった。とはいえ、飛行機の暖房に慣れた体には少々堪える。早いところ手続きを終わらせて、あらかじめ手配されている学生寮に身を落ち着けたいものだ。ベルトコンベアーに乗って来たキャリーケースを受け取り、ヴァネッサは早々に立ち去った。


 車窓からの風景を、何をするでもなくヴァネッサは眺めていた。彼女の出身であるファルシオンは、古代の都市国家を引き継いだつくりになっており、周りを見渡せば四方に城壁があった。頼もしさとともに、しかし少々の息苦しさを感じさせるものであった。一方、日本にはそういった城壁の類が見当たらない。閑散とした風景で、空港で見かける顔も、弛みきった表情の人々ばかりであった。

「温室だな……ここは」

 誰に聴かせるでもなく、一人呟く。――こう何もしないでいると、この国の緩慢さに染まってしまいそうだ。


 そうしているうちに、バスは目的の停留所に到着した。霧はだいぶ薄くなっていた。

 この時間帯に大荷物を抱えて歩いているのは彼女しかいない。ローラーの音が街に反響していた。ヴァネッサが大通りをそれて小道の曲がり角に差し掛かった時であった。


 「……匂ウぞ、人ゲん」

ヴァネッサは即座に身を翻し、背中を塀に密着させたまま、神経を声のする方向へ尖らせた。曲がり角を超えれば、お互い身を晒す位置である。ヴァネッサは懐に手を突っ込み、舌打ちした。――そうだ、アレは荷物に分解して紛れ込ませていたのだ。

 危険を察知したヴァネッサは塀を蹴り、飛び退いた。間一髪、その塀が粉々に砕かれた。襲撃者の風貌が露わになる。


 それは人とも獣ともつかない、グロテスクな風貌の怪物であった。細部は夜闇に紛れて確認できないが、ケンタウロスの姿に、複数の手足が覗いていた。そのあまりの醜悪さにヴァネッサは顔をしかめる。

 鷲のようにするどい爪、馬のように強靭な蹴りが、不規則に彼女を襲う。彼女もまた、人間離れした体術を駆使し、それをやりすごしていた。不思議と、口元には笑みが浮かんでいた。

「そうだ……そうだ、こうでなくては! 私の居場所は戦場! 命を張り、悪を討つ! これが、私の!」

「だが、逃げてばかりではキリがないぞ?」

 ベリアルが水を差す。しかし、高揚した彼女を止めることはできなかった。

「丁度いい。あなたの尊大な態度が口だけではないこと、証明していただきましょう」

「良かろう。恐怖するがいい、我が契約者よ」


 機嫌の良さそうなベリアルの回答を合図にしたかのように、ヴァネッサの眼前、にわかに火柱が轟く。ヴァネッサに接近していた怪物は、その炎に腕を数本焼き切られた。耳をつんざく金切り声がこだまする。

 「その様子を見るに、お前はビフロンといったところか。は、ここで私と出会った、お前の不幸を呪うのだな、ケダモノの王よ」

 炎が打ち払われ、黒き長身の悪魔、ベリアルがその姿を現した。不敵な笑みを浮かべ、両拳を強く打ち付ける。マントを翻して、睨みつけるビフロンに殴りかかった。

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