第10話 夜花仕
「うっわ、なんだこれ、何もねえじゃん」
愛実の部屋を見たベルが開口一番、正直な感想を述べた。彼女の乱暴な言葉遣いには悪意があるのではなく、言葉を偽るということができないのと、歯に衣着せぬ物言いをする主義なのだろう。愛実はそう考えることにしていた。
「だから言ったじゃん。こっちには寝に帰るくらいだから物は置いてないって」
ベルを先に中に入れ、鍵を締める。一人、この部屋の住人が加わった分、心なしか寒さが和らいでいる気がした。ベルがこちらに寝泊まりするようになったのは、愛実が契約者であるという事実と、ベルの前でも
「じゃあ私、先にお風呂入っちゃうから」
「風呂? ああ、湯浴みのことか」
「終わったらシャワーとかの使い方教えるから。待ってて」
「ああ。適当に暇潰してるわ」
頭越しに、ベッドの軋む音が聞こえる。とりあえずうろちょろすることはやめて、一旦落ち着いたようだ。愛実はひとまず安心して、ブラウスのボタンに手をかけた。
「ひゃっ!?」
脱衣場からの悲鳴に、ぼうっとしていたベルは雷に打たれたように跳びあがる。ちなみに、人の裸身をむやみに見るものではない、という常識は彼女には通用しない。
「おい、何があった!?」
「いや、あの、えっと……」
愛実は素っ頓狂な悲鳴を上げたことに恥じ入りながらも、指先で首に走る紋章を示してみせた。先ほど怪物につけられた傷はふさがり、代わりに契約印が刻まれていた。
「ああ、気にするな。契約者の証みたいなもんだ。悪魔と契約したやつは体のどこかに契約印が現れる。お前の場合、傷の上に刻まれることで命を繋ぎ止めようとしてるんだろ」
ベルは愛実に詰め寄ると、素肌の上から契約印をなぞった。まるで安全を確認するように。
「じゃあ、別に危ないわけじゃないんだね……良かった。悪いんだけど、ドア閉めてくれない?」
「いや、別にいいだろ」
「ベルは困らなくても私が困るんだけど……」
「そういうもんなのか」
「そういうものなの」
納得の様子は見せなかったものの、とりあえず要求は呑んでくれるようだった。
「ふーん……あ、そうだ。ついでに言っとくわ」
「なに?」
「沙羅の奴は絶対言わねえだろうからな。あいつ、お前が白い箱に乗せられて、こっちに戻ってくる間、ずっとお前のことで、自分が悪い自分が悪いって言って、傍を離れなかった。トリシラベ? は受けてたみたいだけどな」
「……信じられないな、沙羅がそんな思いつめるなんて」
「お前、あいつとはどれくらい一緒にいるんだ?」
「四年くらい、かな」
「それじゃあ、お前の知らない沙羅がいてもおかしくないだろ」
「そうなのかな……」
曖昧な返答をしてバスルームのドア締め、会話を打ち切った。
鑑に寄り掛かりながら、愛実はぼうっとしてシャワーに打たれていた。
傷は恐るべき速さで治癒されていた。これも契約者の能力なのだろうか。いや、それよりも……彼女の気がかりは他のことである。
愛実の記憶の中の沙羅は、常に太陽のような笑顔を咲かせていた。時々、眩しくて目を背けたくなることもあるが。天災で家族を亡くし、絶望に打ちひしがれていた彼女を救ったのも、沙羅の笑顔であった。
「無理、させてたのかな……」
口を突いて出た独り言は、水がタイルに打ち付ける音でかき消されていた。
沙羅とは少なくとも、家族の一人として親しく付き合ってきたつもりだった。しかし、沙羅のことを、本当の沙羅のことを、私はどのくらい知っていただろう。もしかしたら、沙羅は今のいままで、笑顔を貼り付けて生きてきたのかもしれない。ならば、沙羅の在り方を歪めたのは――
そう考えていると、慚愧、切なさ、悔しさが喉までこみあげてくる。息が苦しい。
ここなら、我慢しなくてもいい。誰も見てない。
水が洗い流してくれるのは体の汚れだけではない。彼女はそれを知った。
「おう、遅かったな」
結局、さんざん泣きはらした後、ベルを待たせていたことを思い出してカラスの行水を済ませた。泣き疲れでもしたのか、半分寝ているような気分で用具や給湯器の使い方を教えた後、引き寄せられるようにベッドに倒れ込んだのだった。
しばらくして、意識が半分眠りの世界に落ちていった頃、誰かが布団をめくりあげ、重くて温かいものが身体をねじこんで来るのを感じた。
「……どしたの」
「どうしたも何も、他に寝る場所ないだろ」
「……そういえばそうだったね」
愛実はベルのほうに向きなおり、頭を抱きしめた。
「おい、お前何やってんだ……おい、おいってば。もう寝てるのかよ……全く」
ベルの寝心地は最悪だったという。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます