2013年12月 別れと引っ越し
「え? 引っ越ししたんですか?」
いつものようにお昼の休憩がかぶるあたしと追本さん。
「そうそう。
誇らしげにそう言いながら、ドヤ顔でこっちを見てくる。なぜかはわからないが、相変わらずイラッとする。
「前の家で歌の練習してたら苦情がきてさ。それまでもちょいちょいきてたんだけど、今度のは脅しに近い感じで。そのまま続けるんだったら出ていってもらいますって。だから、出ていくことにしたんだよね」
「そうなんですかー」
そりゃそうだろう。どれくらいの声量で練習してるのか知らないけど、アパートの一室から謎の歌声が聞こえてきたら、迷惑でしかない。
「それに今度の部屋では、バッチリ練習できる部屋なんだよね」
「え? 防音の部屋ってことですか?」
でもさっき、前の部屋より五千円安いって言ってたような……。防音設備ついて、そんな安い部屋なんてあるのだろうか。もしや、まただまされてるんじゃ……。
「いや、防音ではない」
「ん? でも練習できるんですよね?」
「そう」
「つまり?」
「これがそのアパートの発想のすごいとこさ。なんと! 住んでる人、全員ミュージシャン」
つまり、だ。そのアパートの住人すべてが音を出す人達だから、他の人が音をだしても文句は言えない、と。確かに、それは斬新な考えだ。
「いやー、嬉しいよね。他の部屋からもさ、楽器の音が聴こえてくると、仲間がいるんだなーって感じるよ」
「……そういうもんなんですか」
「そーいうもんさ」
そう言ってホクホク顔をしていた追本さんだが、急に真剣な表情に切り替わった。
「新しい思い出も、作らなきゃだし」
なんかいつもと違う。いつもこう、前向きというか、無駄にポジティブというか、ともかく腹が立つほど変な自信を持っている追本さんだが、今日は柄にもなく憂いを帯びている。
「追本さん、なんかありました?」
「……わかる?」
「いや……急に落ち込んでるじゃないですか」
「実はね……。聞きたい?」
そう言って、激しくまばたきをしてくる追本さん。うん。この人の才能がよく分かった。一瞬で関心の芽を摘み取る天才だ。もういいですって言いそうになったのをぐっとこらえて、軽くうなづきながら次の言葉を待つ。
「……別れたんだ。彼女と」
「え! マジですか!」
……と驚いたのは本当だが、一瞬でそりゃそうだろうなと思い直した。正しい選択をしたよ、彼女さん。一回り以上年上のフリーター借金男と付き合って、良いことがあるはずもない。
「ま、これから音楽活動も忙しくなってくるし、ちょうど良かったんだよ。ははははは……」
笑いが乾いている。必死に笑おうとしているが、目が笑っていない。無理してるのバレバレだなー、この人。あれ? でもそうすると……。
「ってか、気まずくないですか? 一緒のバイト先で」
「いや、円満に別れたからね。今でもたまにバイト後に一緒にご飯食べに行ったりしてるよ」
いやー信じられない。あたしなら、別れた男とは絶対に顔合わせたくない。自分がふったにせよ、相手にふられたにせよ。追本さんの場合は……。
「別れようって切り出したのって、どっちなんです?」
すると、追本さんは腕を組み、うーんと頭をかしげた。
「どっちなんだろうね」
「はぁ!?」
おっと、いけないいけない。思わず大きな声を出してしまった。
「ちょっといろいろと複雑な事情があってね。このまま一緒にいても、僕が幸せになれないからって。そう言ってくれたのは向こうだけどね」
「つまり、切り出したのは彼女さん、っていうことですよね」
「まぁ、そうなるんかなぁ……」
ダメだこりゃ。自分が愛想尽かれたことに、まるで気づいていない。いや、その方が追本さんは幸せか。本当にできた彼女さんだ。別れて正解! うん。100%もっと良い男、見つかるよ! 若いんだし、もっとしっかりした人と恋した方が良いよ。
「ま、今は音楽活動に専念しないと。来年は、改革の年にするぞー!」
そう言って、大きく伸びをする追本さん。今年も終わらないうちに来年の決意を述べている男と付き合っていても、この先苦労するだけだろう。うん。
ついにすべてを失った追本さん。職なし(正社員ではない)、金なし、彼女なし。三拍子揃っちゃったよ。この男の行く末を、同じバイト先で見続けないといけないと思うと、さすがにちょっとつらい。
【2013年12月接客ランキング結果】
50.75/Dランク
120位/141位(全社)
【結果考察】
先月からまた大幅にダウン。年末の繁忙期のレジは、なんだか殺気立っている。セールもあったせいか、みんな疲れた顔をしていた。そりゃ、笑顔なんか出ないよね。ショーコさんから表情マッサージのやり方が書いてある紙をもらったけど、まだ見てない。美容効果もあるらしいけど、あたしはそういうの、まだ良いかな。
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