第8話 本気の願い

「ああ! ああ! 冷たいって!」

「うるせー! お湯出るまで洗わないわけにいかねーだろ!」


 大家のおばあさんには風呂の掃除もしろと言われてしまったが、アタシは燃えていた。

 初めて役に立てるんだ。そう思うと、何も気にならなかった。

 裸にひん剥いた実習生に、ざぶざぶとシャワーヘッドを外したホースで水をぶっかけ続け、ついでに汚れたズボンとパンツにも別の蛇口から水をかけまくる中、酔いの覚めない実習生はずっとガタガタとふるえながら戯れ言を抜かし続けていた。


「恥ずかしいよぉ! お嫁に行けないよぉ!」

「お婿だろくっせぇなぁ!」

「見ないでぇ!」

「見ねぇときれいになったか分からねえだろ!」



 凄惨な作業が終わり、服を部屋の中に干す間も、実習生はくだを巻いていた。


「……一介のファンがだよぉ、近くに来てくれただけで大喜びしてたらよぉ、子供出来たから辞めるねぇとかいわれて、こんな深酒して、しかも漏らしてよぉ……」


 まあ、生徒のような立場の人間に、裸にひん剥かれて汚物の処理をされたのだ。心に応えるものもあるだろう。

 布団にくるまって、目も合わせてくれない。


「そ、それは仕方ないっての。あんな事言われたらアタシも傷つくし」


 実習生の額に手を置いてみる。

 なんだろう、少し優越感のようなものを感じてしまう。


「やめてくれ。やめてくれよぉ。俺はさぁ、俺の恩人に下の世話なんてさせたくなかったんだよぉ」


「話が支離滅裂だよ」


 恐らく恩人とは先生の事だ。恩人というか恩師の世話になっている生徒に下の世話をさせてしまったとでも言いたいのだろう。


「支離滅裂? 支離滅裂なもんかよ……酒の勢いで言ってやるよぉ……お前がバットでボッコボコにしてくれたんだよ……俺の、俺の死ぬほど苦しかった青春時代全部」


「は? な、何、言ってんの……?」


 ふと思い当たった。


「まさか、実習生の事いじめてたのって……」


 アタシの婿第一候補。確かに年齢は一致するかもしれない。


「そうだっての……あいつ、二つ年上の癖に、親なしの施設育ちの貧乏人をいじめ倒しやがってよ……先生の前じゃ言えないけど、あいつが怖くて、うちの高校で教育実習やるなんて、怖くて仕方なかったのに、お前が、倒してくれたから……!」


「え……? 親無し……?」


 露骨に目を逸らされた。コンプレックスなのかもしれない。


「悪かったよ……先生が、親みたいなもんでさぁ、お前が、先生の事あんな目で見るから、イライラしちまって。ほんとは、感謝したかったんだよ……こんなの先生目指してる奴がさぁ、復讐心満たして悦に浸ってたらいけねえんだけどさぁ……!」


「で、でも……か、感謝しちゃ……ダメだよ」


 喜んではいけないのは分かっている。でも、あんな事をして救われる人もいるのか。許されてはいけないのに、許された気持になってしまう。

 

「なら、感謝した事は誰にも言わないでくれ」


「い、言わないよ」


 それに、そんなにアタシに優しくして、秘密なんて共有しないで欲しい。

 この人から離れ難くなってしまう。

 明日、実習生はここを出る。

 もう先生の家にも、戻れない。

 家に帰ったらもう、実習生と会う事もないだろう。教育実習期間は終わって、アタシは先生と生徒の関係に戻る。

 実習生との接点はそれで消えてしまう。

 それどころか、家に幽閉されてしまうかもしれない。


「あ、あの、さ、アタシに……どれくらい感謝してる?」


「じ、人生最大の感謝だ。そんな生きてねぇけど。今日だって、あんな、あんな、初めて最前のチケット取れて……最後になっちまったけど、JKのお陰で近く来てくれて目が合ってさ……ケツまで洗ってくれてよぉ……」


 なんだ、あの声優がたまたま近寄って来た事も感謝してくれるのか。


「だったら、なんか願っていい?」


「なんでも願えぃ。もう初デートバージンは奪われるわ介護までされてよぉ。なんでも言えよぅ」


 なんだかちょっと気持ちが良い。

 心の中に抱いているわがままを全てぶつけてやろう。


「だったら、この下宿引き払わないでここいてよ」


「はぁ? 大学は隣の市なんだぞ。それにマンション借りっぱなしだぞ」


「だったら、アタシがそこから学校通う」


「片道二時間かかるぞ。バスと電車だから定期高いぞ……はぁ」


 実習生が少し息を吐く。


「……バイト申請出せ。さすがに二部屋の部屋に住める程バイト代は無い。奨学金を受けてる身でな」


「え? ほ、本気で言ってる?」


 冗談なら早く行って欲しい。期待を持たせるのは残酷だ。

 

「お前が本気で願っている事を、本気で返さないわけがなかろう」


「は、はぁ!? ど、同情ならもういいのに!」


 嬉しいはずなのに、イライラしてしまう。そんな短い時間考えるだけでそこまで決めて良いとは思えない。


「ま、毎日毎日夜中に悲鳴を上げる奴を放っておけるか」


「ひ、悲鳴なんてあげてるの? 夢の中で首絞められて息詰まるのに」


「声じゃない。でも、聞こえるんだから仕方あるまい!」


 たまに武士口調になる変な人なのに、どうして、こんなにこの人から離れたくないという気持が募ってしまうんだろう。


「そ、その苗字が嫌なら俺の苗字を使え。いらなくなる日が来たら、いつでも戻せばいい」


 自己中心的な考えかもしれないけど、アタシはこの人がいなくては、生きていられない。それだけは確かだった。


 だから、いつか、いつか必ず返すことを約束して、アタシは、実習生の体に縋り付いた。

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