第6話 待ち望んだ遠出はやや特殊で
翌日は本当に良い目覚めで迎える事が出来た。
たまに実習生は、お前のしたいことはなんだと質問してくれる事があった。
その時、アタシが決まって答えるのは「遠出」だった。
実習生は当然車も持っているのだから、アタシの家の支配が及ばない場所で遊びたいとねだったのだが、生徒とデートめいた行為をする気はないと突っぱねられていた。
そもそも初デートをアタシとするのは癪とも。
それを曲げてまでの遠出は予想外だった。
駐車場に車を駐めた所で、かなりの違和感に苛まれた。
県内で一番大きなイベント展示会場の前が、あまり見たことのない大群衆に取り囲まれていた。
「何? この人達……?」
「我が戦友だ。お前もこれを着用せい」
渡されたのは、家電量販店の店員が着ていそうな法被だった。聞いたこともない人名と、あだ名らしきものが両襟に書かれていた。
「な、何? アイドル? これライブ?」
「声優だ。似て非なるものだ」
アニメや映画の吹き替えに声をあてる人が、こんなに人を集めるなんて。
でも、この空間はとても気が楽だ。
誰もアタシに目すら合わせようとしない。アタシが苦手とする、あのバットで殴り倒した男と同じような、細身で背の高い奴は誰もが猫背だ。
なんだか冴えないからか、恐怖を感じなかった。女子もいなくはないが黒髪が多く、平気でこの法被を着ていたから恥ずかしさも感じない。
形成された列の最前で、扉が開く。
「さぁ、行くぞ!」
「え!? ちょっと!」
会場へと足を踏み入れた瞬間、実習生に手を引かれ、ライブ会場へと入ると、舞台前の最前列に立たされた。
空席と言っていたから椅子があるかと思っていたが、一つも無かった。
折ると光る棒を渡され、色々手ほどきを受けている内に音楽が鳴り響き、舞台上にアイドルだか声優だかが走り込んできた。
「しぁっていくぞぁー!」
怒号に近い叫び声が響く。なんだ、なんだこれ。
鼻にかかったような声の歌手の歌は、大声でかき消されて聞き取れやしなかった。誰もが自分が出せる最大の声と、唾と汗が飛び散る酸鼻な光景だったが、体を思い切り動かせるのが気持ちよかった。周囲に併せてなんとか同じように、渡された光る棒を振る。
「お前も声を出せい! 法被に書いてある名前を叫べ! 力の限り!」
言われたとおり、大声で叫ぶと、気分が良かった。
「ああー! 最前に女の子来てくれてるぅ! ありがとう!」
小学生みたいな二つ結びヘアの演者が近付いて来て手を出してきたので、思わず握手してしまった。
結構大人なのに、堂々とあんな髪型が出来るなんて羨ましい心の強さだ。
「く、くうぅ! ま、間近に降臨してくださった! お前を連れてきて、良かった……!」
知りもしない演者と握手したところで何の感慨も無いが、実習生が喜んでくれた事はすごく嬉しかった。
名前を連呼すると、何度も手を振ってくれた。その度に、実習生が歓喜するので、声が枯れても止められなかった。
しかし、その喜びも、そこまでだった。
「えと、今日、みんなに聞いてもらいたい事があります。聞いてくれますかぁ!?」
観客が肯定的な反応をする。
「ついに来たか……。お前に言っても分からんだろうが、ついに一年通しのアニメの主演をやるって情報があってなぁ!」
心底嬉しそうにしちゃってまぁ。
「生まれ故郷のファンのみんなに、最初に報告したくて、今日この場をお借りして報告致します!」
すっと会場が静まり返った。
「昨日、生まれた町の役場に、婚姻届を提出しました……」
会場が静まりかえった。
何を、何を言っているんだこの女。
「えと、実は今、一人で舞台に立っているようで、二人で、舞台に立ってます。お腹の中で新しい命が……」
何を言っているんだ。
こんなにお前の事を好きでいてくれる連中の前で、何をお花畑の住人のような事を言っているんだ。
やめてくれ。こんなに熱心な実習生の前で何言っているんだ。エンターテイナーとしての矜持はお前には無いのか。
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