闇の猫

紅和 京

第1話

【闇の猫】


私、黒田 雅(くろだ みやび)の家には小さな同居人がいる。クセのある黒髪、少し吊りあがり気味の琥珀色の瞳を持つ少年、名前を隼人(はやと)という。とても人懐っこく、12歳という年相応に無邪気な彼だが、よく家事を手伝ってくれるとてもいい子だ。


そんな彼だが、時々ふとした瞬間にとても不安そうな顔をする事がある。そして今もそんな顔をしていた。隼人がその顔をする度に、私の心臓は小さく跳ね上がる。


「ねぇ、みやちゃん。何だか僕とっても怖いよ。」


隼人はベッドに腰掛ける私に抱きつき、怯えた目で私を見上げる。


「‥‥何で怖いの?」


内心焦りながらも平静を装い、安心させる様に柔らかなクセ毛を撫でた。正直、毎回答えに困る質問だった。隼人は私の胸に頭をうずめ、ぐりぐりと小さな頭を押し付けた。


「わかんない。何だかポッカリ穴があいた感じがする。前にも誰かが抱きしめてくれたような気がするのに、顔が出てこないんだ。笑ってた筈なのに、それが何だったかもわかんない。気持ち悪いよ。」


私は、その答えを知っていた。だけど言えなかった。


幼い彼にその現実はあまりにも残酷だったから。だから、あえて嘘をついた。


「もう、隼人ってば忘れたの?お姉ちゃん、小さい頃もこうやって抱きしめてたでしょ?あ、そっか。小さかったから覚えてないのか〜。」


そう言って、ニコリと微笑めば、隼人もつられて笑う。


「ねぇ、みやちゃん。」


「なぁに?」


私の黒い瞳の中に、彼の少しはにかんだような顔が写り込む。


あぁ、本当に可愛らしい子。


「みやちゃんは、ずっと僕と一緒にいてね?離れちゃダメだよ、約束!」


先程の不安な表情はどこかへ消え、満面の笑みでおねだりする隼人。そんな彼の小さな体をギュッと強く抱きしめれば、嬉しそうに更に抱きしめ返してくれる。


「一人になんかしないよ。寂しい思いはさせない。だから、なにも心配しなくてもいいんだよ隼人。」


ーほんとうに。


「本当に?」


私の思いを読み取った様に返ってきた声は、今までの隼人の高く子供らしさを感じさせる声ではなく、低く唸るような声だった。まるで、飢えた獣みたいな声。


彼だ。隼人の中に眠ったもう一人の彼。もう一つの人格。その人格が楽しそうに笑う。


「本当にずっと【俺】と一緒にいてくれんの?」


そう言って見上げる顔は、完全に大人のものだった。丸かった目は猫のように細められ、口元はニヤニヤと笑っている。


大きな黒猫の様だと思った。


「何なのその顔。怖いからやめてよ、【玲】−れい−」


私は何だか急に恥ずかしくなり、急いで引き剥がすも玲は楽しそうに笑い、逆に私の体をベッドの上に押し倒した。子供とは思えない力に、なすすべ無く重力にしたがった体がベッドに沈む。


それもその筈だ。何故なら今の彼の中身は、12歳ではなく、25歳。【玲】という人格で、【隼人】の時とは違い飄々としていて、悔しいが大人の余裕すら感じる。


【二重人格】という言葉を一度は耳にした事があるだろう。正しくは【解離性同一性障害】という。本人にとって堪えられない状況を、離人症のようにそれは自分のことではないと感じたり、あるいはその時期の感情や記憶を切り離して、それを思い出せなくすることで心のダメージを回避しようとすることから引き起こされる障害のことだ。


その中で最も重く、切り離した感情や記憶が成長して、別の人格となって表に現れるものである。通常は独自の名前を持ち、性別・年齢・性格などが本人とは異なる。


隼人もその内の一人であり、彼の場合は虐待が引き金となった 。


実は、私と隼人には血のつながりがない。彼の家族は元は仲が良かったが、両親が互いに不倫をし、離婚。母側に引き取られたが、不倫相手の事しか見れなくなった母親は子供を邪魔に思い、次第に暴力をふるうようになった。彼には姉もいたが、不倫相手の男が酔った勢いで撲殺してしまった。母親は一瞬驚いた顔をしたが、男のご機嫌取りの方を優先したのか、何も言わなかったらしい。


そんないかれた家庭に耐えられなくなった隼人の中で、ある変化が起きる。



人格の分裂が起きたのだ。



精神的に壊れかけた隼人という人格を守る為に生まれた保護者人格【玲】。玲は主人格である【隼人】を意識の中に閉じ込めると、近くにあった果物ナイフで母親と男を殺害。その後逃走し、たまたま近くにあった私の家に侵入、隠れていたところを私が保護した。保護というよりは、ナイフを突きつけられて「匿わなければ殺す」と脅されてから今に至るわけだが。


最初こそ怖かったが、彼の境遇を聞いているうちに段々と怖さは薄れていった。むしろこんな子供が殺人を犯さなければならなかった現状に苛立ちを覚えたし、彼も次第に心を開いてくれるようになった。


人格を分裂させてしまう程の苦しみを、幼い隼人は背負いきれず、無意識のうちに玲という人格に託した。今、全ての記憶を思い出してしまえば、隼人は壊れてしまうかもしれない。だから、隼人がその事実に触れてしまいそうになる前に、嘘で隠してしまう。そしてその事実は、玲も隠したがっている。どうせいつかは、嫌でも思い出さなければならない時がくるんだ。


長時間過ごす事で、犯人に対して過度の同情や好意等を抱くストックホルム症候群というものがあるらしいが、私もそれなのかもしれない。でも、どうでも良かった。


ー壊れてしまうくらいなら隠そう

ー壊れてしまうくらいなら私が守ろう


「ありがとう」


「あ?何だよいきなり。お前がそんな事を言うなんて明日は雨か?」


ポロッと出た言葉に、玲は一瞬驚いた表情をするも、すぐにいつもの小馬鹿にしたような態度に戻る。


そんな玲に「うるさいな」と返しながら考える。


もうこの際言ってしまおう。まだ言っていなかった本当の気持ちを。彼には感謝すべき事がたくさんあるから。


「あなたがいてくれて良かった。あなたという人格がいなかったら、隼人は死んでいたかもしれない。だから。警察には言わない。家には居たいだけ居ればいいよ。私がー‥‥守るから。」


ーー絶対にこれ以上は汚させはしないから。


玲はしばらく私の目をじっと見つめていたが。やがて「フッ」と笑った。


「守るからって逆だろ?最初は殺されかけてた癖に。」


でも、と彼は小さくつぶやき、私の耳元に顔を近づけた。耳にあたる息がくすぐったい。


「ありがとう。は俺、いや俺達の方だ。【愛情】というものに飢えていたからな。強制的だがここに来て、それが満たされた気がした。ここにこなけりゃどうなっていたか分からない‥‥。ところで、さっきの質問の続きなんだが、本当に俺らと一緒にいてくれんのか?」


最後の方は、少しだけ震えているような気がした。不安を滲ませた声‥‥。玲だって本当は怖くて仕方なかったのかもしれない。本当は人殺しなんてした自分に罪の意識を感じているのかもしれない。彼もまた、自分を偽って生きている。


そんな彼を、彼らを。

愛しく思ってしまう自分がいる。


「本当。ここまで知って、見捨てたりしないよ。」


「殺人鬼でも?」


「正当防衛だよ。」


そう言って、頭をポンポンと軽くたたく。玲は私より2歳上だけど、今ならしてもいいような気がした。それに安心した玲は、クックッと喉を鳴らして笑うと、「ところで」と言って、再び顔を私の正面に戻す。先ほどの様に、ニヤニヤと妖しい笑みを浮かべた顔と、この体に覆いかぶさったような体勢でやっと気づく。


「この体勢はまずいんじゃないか。」と。


「え、何、ちょっと玲‥‥」


「言質はとったぞ。一緒にいるってことは、結婚するって言ってるようなもんだよな?だったらもう俺のもんだなぁ。今夜するか?」


玲は今度は妖しい笑みから、爽やかな王子様スマイルを浮かべて、私のアッシュグレーの髪をひと束手にとり、口付けをした。言ってる事は最低だが、その見た目は幼くてもかっこいいと思う。


私の顔は不覚にも熱くなる。


「ちょっと玲!隼人の体でもあるでしょ?やめなさい!」


「隼人君はおやすみしてるよ、良い子だから。」


「そういう事じゃなくてね!?」


バタバタともがく私を見下ろし、玲は心底おもしろそうに笑った。


「嘘だよ、悪かったな。けど‥‥、言質は確実に取ったからな。」


彼はもう一度ニヤッと笑うと、私の上から降り、部屋を出て行ってしまった。時間はたっぷりある。そう言いたげな目で最後にこっちを見て。


「はぁー、もう玲のやつ‥‥隼人の体でもあるんだからね‥‥」


さっきまで緊張して跳ねていた心臓はようやくおさまり、フウと大きくため息をつく。この気持ちがなんなのかまだ整理がつかないけど‥‥、でも、家族愛以上のものになりつつある事は確かだった。玲が離れていく瞬間、少し残念な気がした。私も飢えているのかもしれない。


でも、せめて彼らが成長し、隼人が事実を受け入れられる時がくるまでは、この気持ちを内に秘めておこう。


そう固く誓った。



外では未だ玲が起こした事件はニュースとして取り上げられており、警察が血眼になって探している。


いつ、ここに隼人がいる事がバレて警察が踏み込んでくるか分からないし、どこで誰が見ているか分からない様なリスクだらけの生活だとしても、私は君を守り続けていくよ。


隼人も玲も、どっちも私の大切な家族なのだから。



【終】




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