『疑問』(2007年01月05日)
矢口晃
第1話
正太は今年の春二年生になったばかりの、とても元気のよい男の子です。ある日正太は学校の昼休みに、教室で花瓶の水を取り替えていた佐伯先生に話しかけました。ずっと前から疑問に思っていたことを、先生に聞くためです。
「先生」
花の茎を切りそろえているところだった佐伯先生はその手を止めると、正太の方に優しい視線を向けました。
「どうしたの? 翔太君」
「先生、あのね、子供はどうして生まれてくるの?」
正太のこの質問を聞いて、佐伯先生は一瞬表情を曇らせました。しかし次の瞬間には先生の顔はまた普段の表情に戻っていましたから、正太は先生がどきっとしたには気がつきませんでした。
佐伯先生はしばらく「うーん」と教室の後ろに張ってある大きな時間割表の方を眺めながら、何と答えたらよいか考えている様子でした。正太はその間、じっと先生の顔を見つめてどんな答が返ってくるかわくわくして待っていました。
するとそれから少しして、先生はにっこり笑って正太の方に向き直ると、明るくこう答えました。
「それはね、お父さんとお母さんに聞いてみたらよくわかるよ」
「お父さんとお母さんが教えてくれるの?」
「そうよ。だって、正太君を産んでくれたのは、お父さんとお母さんでしょう? だから二人が一番よく知っているのよ」
「うん。わかった。帰ってから聞いてみる」
その日の夕食の時間になってから、正太は会社から帰ってテレビのクイズ番組を見ながらビールを飲んでいたお父さんに、さっそく問いかけました。
「ねえ、お父さん」
「うん? 何だい?」
お父さんは唇についたビールの泡を布巾で拭きながら、正太の顔を見ました。
「あのね、今日学校で佐伯先生に聞いたらね、お父さんとお母さんに聞いてご覧って言われたの」
「へえ。何を聞いたんだい?」
お父さんは興味深そうに、正太の方へ少し顔を近づけました。台所でおかずを作っていたお母さんも、思わず聞き耳をたてました。
「あのね、子供は、どうして生まれてくるの?」
「子供はどうして生まれてくるの、かあ」
そういいながら、お父さんは台所に立っているお母さんの方へ視線を投げかけました。お母さんは振り返って、お父さんと目を合わせました。それから束の間、二人は目だけで何か合図を送り合うと、お父さんはまた正太の方へ顔を向けて言いました。
「正太ももう二年生になったから、本当のことを話そうね」
「うん」
正太は目をきらきらと輝かせて、お父さんの続きの言葉を待ちました。お父さんは話す前にもう一度ビールを一口飲むと、唇に残った泡をまた布巾できれいに拭き取りました。
「どうして子供が生まれてくるかというとね。それは、人間が罪を犯さずにはいられない生きものだからだよ」
「罪を?」
正太は首を傾げてお父さんに聞き返しました。お父さんはさっきより真剣な表情になって、こう言いました。
「そうだよ。人間はね、いけないとわかっていながらも、どうしてもそれをせずにはいられない生き物なんだ。だからね、お父さんもお母さんも、生きるのがつらい、おもしろくない、生まれて来なければよかったと思っているのだけれどね、子供を産んで子供にまでこんな思いをさせたくないと思っていたのだけれどね、ついお前を産んでしまったんだよ。わかるね?」
「生きることは、つらいことなの?」
「そうだよ。お前にもじきにわかるよ」
「ふうん」
正太は、きょとんとまるい目をして、お父さんのことをまだ見ていました。お父さんはコップのビールをまた飲むと、苦そうに顔をしかめました。
次の日、正太はまた昼休みになると、教室で掲示物を張り替えていた佐伯先生に声をかけました。
「先生」
「なあに」
先生は壁から抜いた画鋲を丁寧に箱にしまいながら、正太に聞き返しました。
「先生、昨日ね、僕聞いたよ。お父さんとお母さんに」
「どうして子供が生まれるかってこと?」
「うんそう」
「そう。それで、お父さんとお母さんは、何て言った?」
佐伯先生は新しい掲示物に画鋲を刺しながら聞きました。
「あのね、お父さんがこう言ってたよ。人間は罪を犯してしまう生き物だから、子供を産んじゃうんだって」
「そう」
先生は仕事の手を止めずに動かしながら、そう口の中で呟きました。
正太はまだわからないことがあるように、先生に続けて聞きました。
「ねえ、先生。子供を産むのって、いけないことなの? 生きて行くって、つまらないことなの?」
先生はその時ふっと手の動きを止めると、どこか遠いところを見やるような眼差しで、目の前の壁にしばらく視線を向けていました。そしてしばらくたってから、やっと正太に、
「そうよ」
と一言だけ答えました。
『疑問』(2007年01月05日) 矢口晃 @yaguti
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