棘のある動物(7/8)
「動物園なんて久しぶりだな」
ジョージがふぅっと息を吐き出して言った。
コンビニの袋を持って、ピンクのフリースに迷彩パンツの出で立ちは、子供にはゲージの中の動物よりも奇妙な生き物に見えるだろう。隣りのケンが、紺のパーカーとチノパンという地味な格好なだけに、すれ違う誰もが一瞥していく。
入口近くの売店前にはたくさんのテーブルと椅子が並んでいるが、どこにも空きがなく、朝食抜きの二人は空腹を我慢して、二股に別れた順路の右手側を進んだ。
子供たちがモルモットと触れ合えるコーナーは、ちょうど昼休み時間で、背の低いゲートの向こうは、空間がそこだけ切り取られたみたいに人影がない。
満開の桜の下をケンとジョージはつかず離れずの位置を保って歩いた。
カモシカ、ヤギ、カピバラ……飼い慣らされた動物がエサを食(は)み、自由に横たわる姿を見て、ケンは動物園ほど平和な場所はないと思う。草食動物たちが暴れ回るときはこの世の終わりに違いない。
地面から1メートルほど掘り下げた半円形の飼育所で、ジョージが足を止めた。大人が周りを囲めば、10人ほどで定員オーバーになるスペースだ。
大小さまざまな材木と向き合うかたちでガラス張りの部屋があり、ケンとジョージの位置からは、寝床のような草が見えるだけで生き物の姿はない。
全体を注意深く観察すると、手すりに寄りかかる子供たちの視線の先――コンクリートの壁に密着したところで、ペットにも家畜にも似つかない一匹が、身の回りを点検する様子で動いていた。
プレートには[タテガミヤマアラシ 齧歯目ヤマアラシ科]と書かれている。
上半身は焦茶色のこじんまりした体だが、胴の真ん中からお尻にかけて、頭部のサイズとアンバランスな白黒斑模様の毛が密集していた。二体の別々な生き物を無理矢理くっつけた感じだ。
見物客に囲まれたヤマアラシは、のっそりと歩みを進め、やがて、ジョージの正面で止まると、地面に落ちたキャベツの葉をおもむろに食べ始めた。小さな前足でエサを抑え、つぶらな瞳を微かに揺らしながら口を動かしている。
「食べてるよ。見て見て!」
幼い女の子が母親の上着を掴んで甲高い声を発すると、ヤマアラシは捕食者を警戒する動物になって静止し、次の瞬間、体に貼りついた毛を逆立てた。孔雀の羽に似た扇型のシルエットは見栄えが悪く、長い毛と短い毛が混じり合い、人間の手がメンテナンスしている形跡はない。隠すのに腐心していたものを、決死の覚悟で露わにした格好だった。
「すごい棘だな……」
ジョージがポツリとつぶやき、「あんなので刺されたら、人間だって大怪我するよ」と、口をへの字にした。
「棘じゃなくて、針だろ」
誤った日本語を軽く諌める調子でケンはジョージに応え、動物を凝視する。
ヤマアラシは、先の尖った無数の鋭利な器官を立てたまま、同じ場所に留まった。
「……いや、あれは棘だ。棘ってのは、隠し持ってることを本人も気づかないまま相手を傷つけるんだ。あいつは、いま、自分の体を守っているものがどんなかたちか分かっていない」
珍しく攻撃的なジョージのセリフにケンは驚き、「棘のある動物」を黙って見つめた。
やがて、二人は芝生の広場に立った。入り口から数百メートル離れた敷地は、施設の規模にそぐわないゆったりした空間だ。来場者がボール遊びをしたり、子供たちが駆け回れるほどの広さで、程よい数のベンチもある。
いつになく寡黙なジョージが桜を眺める横で、ケンは親友を追い出す結果になった数日を振り返った。異動辞令、マヤとの喧嘩……いまの会社に入ったこと、マヤと結婚したことに人生をやり直したいまでの後悔はないが、留学経験を生かした別の選択肢を選んでいたらどうだっただろう? 一枚一枚かたちの異なる桜の花びらも、違う幹の違う枝の蕾だったら、それぞれの色を変えていたのではないか……そんなことを思った。
それから、広場の中央で、二人はどちらから切り出すともなく、空いたテーブルに腰かけ、食べ物を取り出した。
ジョージはビニールの封を乱暴に開け、何日もエサにありついていない動物みたいにハムサンドを貪ると、顔に直射する陽射しを嫌ってレイバンのサングラスをかけた。
(8/8へ続く)
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