棘のある動物(6/8)
「……なるほどね」と、マヤがひとりごち、ケンは腕を組んでうつむく。言わんとすることは分かるが、はたして、いまの会社が[ライド]に値する川なのか。
ジョージがアメリカの大学進学を決めたとき、ケンはニューハンプシャー州にある、その[ニュー・イングランド・カレッジ]をウェブサイトで検索した。
Googleマップの航空写真でカレッジ周辺を見下ろすと、一本の太い川が[つ]のかたちでキャンパスを包んでいた。敷地の南端に野球のグラウンドがあり、その北西側に広大なテニスコートが見える。
学校紹介のホームページは青を基調にしたデザインで、左サイドのメニュー部分に[amaze YOURSELF]というキャッシュコピーがあり、当時、二十歳になったばかりのケンにとって「自分を驚かせろ」のメッセージはなかなか刺激的だった。
留学生活から都立高校に復学し、一応は全国に名の知れた大学に入学したものの、自分を驚かせる何かが見つからず、世間で言う五月病を経験した。アメリカの大学と違って、受験の合格が目的のような日本のキャンパス。自分を取り囲む世界の壁を感じ、その壁がもたらすものは、いつかジョージが語っていた「狭さ」だと気づいた。
■
一週間の勤務が終わって週末を迎えるというのに、ケンは鬱々とした気分で帰りの電車に乗る。
夕方に人事異動が全社メールで配信され、そこに紛れもなく自分の名前が示されていた。
例年より開花の遅れた桜がようやく咲き、缶ビールをビニール袋に詰めたサラリーマンが電車の中で笑い声を上げている。
マンションのエレベーターを降りると、なぜか、ケンは妙な静けさを感じた。いつもは施錠されている玄関の鍵も開いていて、リビングにジョージがポツンと座っていた。
「マヤは、まだ帰ってないんだ?」
ケンはジョージに問い、ハンガーに掛けたコートをクロゼットに戻した。
「タカハシ……夕方にいきなり仕事から帰ってきて、なんか、実家に行くって出てちゃったよ」
ネクタイをほどく手を止め、ケンは慌てて携帯をチェックする。電話もメールの着信もないが、念のため、受信の問い合わせボタンを押すと、1件のメールがかくれんぼで見つかった子供みたいに現れ出た。
「土日は実家で過ごすから、ジョージをよろしく!」
二時間前に送信されていたメールは、確かにマヤのアドレスだった。
「……怒ってたか?」
ケンは返信の文言を探す前に、ジョージに恐る恐る問う。
「いや、全然。なんだか楽しそうだったな。鼻歌を歌ってた。ワンリトル・トゥーリトル・スリーリトルインディアンってやつ……」
■
次の日。中央線を吉祥寺駅で降りたケンとジョージは、ファミリーマートでサンドイッチとおにぎりを買って大通りを南下した。
頭に靄がかかった状態のケンは、逆立ちでもしたらすっきりするんじゃないかと思いながら、二車線道路の信号を渡り、焼き鳥屋の煙が大気に融けていく様を見つめる。
起きて2時間しか経っていないのに、すでに時計の短針は24時間の半分を周り終えていた。
ジョージと夜更かししたわけではない。むしろ、これといった会話もなく、ユースホテルでたまたま居合わせた旅人みたいに、各々の「自由行動」で就寝時間を迎えた。
平日の習慣で、ケンは7時に目を覚ましたものの、隣りの空っぽの布団を見て二度寝した。一日中眠り続けてやる――そんな気分のふて寝だった。
やがて、ジョージの口笛で起き上がり、リビングのソファに体を預けたが、マヤのいない現実に口数を減らした。
「明日の夜にタカハシが帰ってきたら、オレはここを出ていくよ」
不意を突かれ、ケンは一瞬耳を疑った。しかし、ジョージを引き留める理由もなく、餞(はなむけ)の言葉も浮かばなかった。
「まだ泊まっていればいいじゃないか」――そんな返事をジョージはけして期待していない。相手の気持ちをいたずらに試したり、物事の結論を他人任せにする男でないことをケンはいちばん理解している。
そうして、しばらくの沈黙の後、ジョージは窓を開けて、「桜でも見に行かないか?」と、無邪気に提案したのだった。
直線道路を10分ほど歩くと、道の歪曲した場所に駐輪場がある。
歩道橋が繋ぐ反対側一帯は花見客で賑わう井の頭公園だ。ケンとジョージはどちらが言い出すともなく、無数の自転車を従えた[自然文化園]のチケット売り場に並んだ。
「ゾウのはな子さん」で有名なその施設は、1年のうちで今日が稼ぎ時とばかりに、家族連れやカップルであふれていた。
(7/8へ続く)
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