棘のある動物(5/8)

勘違いを責めてもしかたないが、留守中に二人で酒をしこたま飲んでバカ騒ぎするなんて。自室でコートを脱ぎ捨てると、ケンは思いがけない感情の振幅で目頭を熱くした。親指と人差し指で鼻の付け根を抑える。

そのまま寝てしまいたかったが、四畳半のスペースでは横にもなれず、シャワーの音がしたタイミングで、リビングをすり抜けて寝室に向かう。

浴室にいたのはジョージの方で、マヤはキッチンで片づけをしていた。

ダイニングテーブルには、宅配ピザのボックスが蓋を閉じた状態で残り、ワインの替わりに飲みかけのペットボトルが置かれている。

マヤに捕まらずに布団に潜り込めたものの、神経が昂って眠れない。やがて、彼女も大きなため息とともに床に就いたが、落ち着かない様子で体をもぞもぞ動かしている。

「……ジョージ、いつまでうちにいるんだろうな」

思いきって、ケンは話しかけてみた。口をきかないまま朝を迎えるより、今晩のうちに仲直りの糸口を得た方が賢明だと考えた。

「知らないわよ。あなたが訊いてよ……っていうか、ジョージの面倒を見てよ!」

つぶやき程度のケンと真逆に、甲高く尖った声でマヤが言った。

「……面倒?」

「結局ね、ご飯を用意するのも洗濯するのも私でしょ。着替えるときだって気を遣うのよ!わたしは女なんだから」

いまにも起き上がりそうな勢いで、マヤはまくし立てた。結婚して1年。交際しているときも何度か言い争いはあったものの、過去最高に厳しい口調だ。

「……オレだって、気にしてるよ。あいつは日本に戻ってきたばかりだし。だいたい、マヤの方が、ジョージと楽しそうにしてんじゃん。あんなに酒なんか飲んじゃってさ」

言った後で、ケンは「しまった」と心で舌打ちする。ひとつ屋根の下のジョージに聞こえないよう、声のトーンを落としていたが、勢い任せで相手の急所を突いてしまった気がする。

案の定、マヤは電気をつけてケンを見下ろした。蛍光灯ののっぺりした光がオフホワイトの壁に不気味な影を作る。

「楽しくしているのは、ジョージがわたしたちの友達だからでしょ。今晩なんかは、あなたも早く帰ってきて、彼の相手をすれば良かったじゃない!」


お通夜のようなテーブル。

ケンとマヤはけしてお互いの目線を合わせない。

ジョージが短いジョークで二人の接着剤になろうとしても無駄だった。朝食のロールパンとベーコンエッグが消化されるスピードも明らかに遅い。

「……オレ、日本の会社の仕組みはよく分からないけど」

コーヒーカップの呑み口に左の手のひらを乗せて、ジョージは上目遣いにケンを見た。

「管理部ってのは、会社全体を統括する部門だろ。そこに配属されたってことは、イガラシケンはエースって意味だと思うぜ」

ケンはジョージの考えを黙って受け止める。「そうではない」と否定したところで、理解してもらえないだろう。名刺の発注や会議室の予約管理……そんな仕事を説明すれば、「おもしろそうじゃん!」と姿勢を前のめりにするはず。ジョージみたいなポジティブ思考で自己主張があれば、きっと、自分の思い描くキャリアプランも実現できるにちがいない。

ふいに、ケンは交換留学のときに「ミスターイガラシ イズ トゥー ハンブー」と、ハイスクールの教師に肩をすくめられたことを思い出す。[humble]という形容詞が、「控えめ」の他に「みすぼらしい」という意味を持つことを帰国してから知った。アメリカでは謙虚や遠慮は美徳ではない。けしてアメリカ人にはなれず、だからこそ、日本人として日本のサラリーマン社会の中でもがいているのだ。

長い沈黙の後、「キャンパスの話をしたっけ?」と、ジョージが問いかけた。

ケンは首を傾げ、マヤは「あまり聞いてないわ」と答える。

「オレの通ってたカレッジは、キャンパス沿いにコントゥークックって川が流れてて、学生たちはそこでカヌーやカヤッキングなんかもできるんだ」

そこまで言い、ジョージは右の人差し指で左の手首を指し、「時間は大丈夫か?」のジェスチャーを向けた。出勤までにはまだ余裕がある。ケンもマヤも小さく頷く。

「オレは、その川の流れを見るのが好きで、いつも、日に日に変わる水の個性を観察していた。ボートに巧く乗るためには、まず、流れを知ること。緩やかなのか急なのか、深さは?水温は?……それと大切なのは風だ。風の向きや強さで水面の表情が全然違う」

ジョークなしで真剣に語るジョージに、ケンもマヤも動きを止めて傾聴した。

「……そして、心を決めて、流れに逆らうことなくライド! ゲットーン!」

最後の単語とともに、ジョージはボートを漕ぐ動作を見せた。オールを握って、前から後ろにひと掻き。そして、リビングルームに圧しかかる空気は追い払う感じで派手に笑った。



(6/8へ続く)

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