棘のある動物(4/8)

会社全体の面倒を見る――実体は、文房具の発注や社員の勤怠管理といった、総務的なよろず仕事だ。

外回り営業の後でオフィスに戻ると、すでに何人かが彼の異動を知っていて、腫れ物に触る感じで接してきた。そして、その辞令が「現職者の寿退社による欠員補充」とケンが知るまで、それほどの時間はかからなかった。

外された。そう思った。営業職で必死に頑張り、そろそろ制作部門に異動できると思っていたのに。

「君の営業仕事は十分に評価している」「仕事の経験のひとつ」――取り繕いの説明ではなく、なぜ自分を選んだのかを聞きたかった。英語力も、これまで培ってきた営業力も虚しく、管理部長の言う「経験」という代物が底の空いたバケツに放り込まれていく気がした。

「オレ、4月から管理部になる」

少しだけ気持ちの整理がついたところで、ケンはマヤに短いメールを送った。

一日の仕事が終わり、家にまっすぐ帰るべきだろうが、同期入社の仲間に誘われるまま、大衆居酒屋にふらりと寄る。

異動についてのマヤの返信はなかったが、「遅くなるのでご飯はいらない」と書き送ったメールには「了解」の返事がすぐに来た。あえて、ジョージのことには触れず、「二人で好きに時間を過ごしてくれ」という心境だった。

一杯190円の安ビールを酌み交わし、意識的に明るく振る舞う同僚の馬鹿話を聞いていたが、店員のネームプレートの[高橋]に、ケンは結婚生活を顧みる。

マヤは大学の英文科を出て翻訳関係の仕事に就いた。収入こそ自分より低いものの、働くことへの満足度や会社からの期待度は彼女の方が上だろう。夫婦だから、そんなことを競い合う必要はないし、結婚を理由にマヤが仕事を辞める必要はない。しかし、同じ留学経験者として、自分はあまりにも情けないのではないか?

酒が進まず、財布にダメージがないくらいの会計を済ませて店を出た。

「ま、ちっこい組織だからさ、中途採用すれば、お前もまたすぐに異動なんじゃねぇの? 結局、オレたちは会社の決定に従うしかねえよ」

22時過ぎの駅のコンコースで、慰めか諦めか判然としないセリフを残して、赤ら顔の同僚はケンに背中を向けた。春の家族旅行を誘うポスターがプラットホームのサラリーマンに休暇を呼びかけている。

春まだきの風に吹かれて帰路を辿り、ケンは我が家の前に立った。

ふと、笑い声が漏れ聞こえてくる。

マンションの部屋は、5世帯が入居するフロアのエレベーター前。住人のざわめきが室内まで聞こえることはあっても、その逆をケンが耳にするのは初めてだ。

鍵を開けて革靴をシューズボックスにしまい、無言のままリビングの扉を開けると、缶ビールを手にしたジョージとマヤが驚いた顔で振り返った。

テーブルの上には宅配ピザの残骸と空になったワインボトルがコルク栓を携えて鎮座している。

「イエーイ!ショーカク、おめでとう!」

ジョージは大声を発し、ゴールを決めたサッカー選手もどきのダンスを披露したが、その動きは水揚げされた軟体動物みたいに覚束ない。ひどく酔っている。クリスマスパーティーで子供が被る三角錘の帽子を頭に乗せ、百円ショップで買ったレイを首から下げていた。

「おめでとう~!」

ソファから立ち上がったマヤが、ジョージと一緒に乾杯のポーズを取った。

リビングの入り口に佇んだケンの体から、少量のアルコールがきれいに抜けていく。

「……おめでとうって?」

ボディタッチしてくる軟体動物を払いのけて、ケンはマヤに尋ねた。

「だって、管理職になったんでしょ?」

目を丸くしたマヤと、外国人ばりのオーバーアクションでVサインするジョージの前で、ケンはポケットから携帯電話を取り出し、送信済みのメール画面を二人に向けた。

「管理職じゃねぇよ!管理部だよ。よく見ろよ!」

ホストの剣幕に、ホームステイの客は海老みたいに後ずさり、妻はソファに置いた自分のスマホを急いで確認する。

「ウッソォー、管理部って……管理職のことじゃないのぉ? ヤダァー」

泣きべそに似た表情で、マヤは顔をしかめ、「メールを返せば良かったわぁ。サプライズパーティーやって損しちゃったじゃないのぉ」と、ろれつの回らない口調で放言した。

それから、覇気を無くしたジョージの肩を思いきり叩き、ネジが外れたようにゲラゲラ笑い出す。

「いずにしても、ケンの仕事に、カ・ン・パ~イ!」

ジョージがまた踊り出し、よろけるついでにマヤの胸にタッチする。

「いい加減にしろっ!!」

階下に聞こえるほどの怒鳴り声で、ケンはありったけの力でリビングの扉を閉めた。



(5/8へ続く)

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