間隙 八門金鎖

(まるで、異界だな)


 鞍上で揺られながら、八十太夫は思った。

 内住郡南部の山岳地帯である。栢の森から山に入って、丸一日が過ぎていた。

 昼間でも薄暗く、聞こえるのは狐狸野鳥の鳴き声ばかりだ。深山幽谷である。今まで、八十太夫には縁が無かった場所だ。このような場所に、山人やまうどが暮していると思えば、やはり彼らが山猿と言われても仕方がないものがある。

 八十太夫が率いるは、三十名の軍勢だった。その中核は八十太夫の家臣十名で、他は伊川郷士ら足軽である。その一隊が縦列を組んで、なだらかだが細い道を進んでいた。

 藩庁からの追捕の兵は、それだけではない。夢十が率いる柏原党と瓦解寸前の目尾組、そして平山孫一の逸死隊が先導役の山人と共に、本隊より一日早く先行している。総勢は、百余名。それで、雷蔵一味を討ち取れると考えていた。


(しかし、雷蔵も肝が太い)


 雷蔵は大胆不敵にも、内住郡にいたのだ。旧領地は当然警戒していて、監視の目を厳しくしていた。雷蔵潜伏の情報を聞いた時、八十太夫は監視をしていた者を更迭した。しかし斯様な場所であれば、判らないのも無理はない。おおよそ此処は、化外の地である。

 密告が無ければ、その所在を掴む事は出来なかったろう。雷蔵の居場所を知らせた男は、山人の元頭領ズメロウだった。室衛門に取って代わりたい。それを交換条件に、八十太夫に持ち掛けて来たのだ。

 裏切りの者の犬め。そう思ったが、八十太夫はそれに乗った。結果、その情報は本当で、元頭領ズメロウを室衛門と交代させようと考えていたが、その前に元頭領ズメロウは何者かに殺されていた。恐らく雷蔵一味の仕業だろう、就寝中に首を獲られたそうだ。

 今、藩内は雷蔵への恐怖で満ち溢れていた。清記の闖入ちんにゅうに立ちはだかった者は勿論、関係の薄い者ですら、屋敷の警備を厳重にしている。あの相賀などは、まるで戦支度のような有様で、戦々恐々としているほどだ。添田派を裏切った。その負い目があるのだろう。清記の転落も、相賀の裏切りから始まったと思えば、雷蔵がまず襲いそうな男が相賀なのだ。

 しかし、雷蔵は相賀に未だ手を下していない。相賀とは面識があったからだろうか。その辺りは、よく判らない。襲わない事で、地獄のような恐怖を長く与えるつもりなのか。もしそうなら、雷蔵とは気が合いそうだ。


(しかし、敵ながら見事だ)


 やる事に容赦がない。利重も自分も確実に、追い詰められている。特に、牧文之進を斬ったのは実に妙手だった。利重の最も中枢を狙ったのだ。その衝撃も大きかった。

 牧文之進は、自分が見出した男だった。そして、いずれは取って代わられるだろうとも予感していた。しかし、殺された。それまでの運だったという事だ。雷蔵には感謝しなければならないだろうが、取って代わられる事に対して、特に不安も不満も無かった。自分が利重に付き従うのは、父を殺した平山清記とその平山家をこの世から抹殺する為だったのだ。直接手を下した清記は、叛乱へ導いて殺した。あとは雷蔵。それもあと少しで殺す事が出来る。それさえ終われは、後はどうなろうと構わない。

 復讐が全てだったのだ。復讐の為に、男妾にもなった。人並みの幸せなど放棄したのだ。全ては復讐である。この一命は、父の無念を晴らす為だけにあるのだ。


「警戒を怠るな。相手は山人。どこから襲ってくるか、知れたものではないぞ」


 足軽の指図役の叱咤する声が聞こえた。

 確かにそうだ。しかし、これでは注意しようがないとも思う。頭上を覆いかぶさる樹木と、いくら歩いても変わらない景色が方向感覚を失わせ、一種の〔酔い〕を覚えさせるのである。

 そうしている間に、山は険しさを増した。騎馬では厳しくなり、八十太夫は徒歩に変えた。

 獣道である。休憩を挟んでいるが、兵の中には明らかに疲労の色を見せている者もいる。


「もうすぐ、山人の領域に入ります」


 先導役の山人が駆けて来て報告した。この山人は武士の恰好をしていて、それが似合っていない。所詮、山猿は山猿。人間様にはなれぬという事だ。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 突然の悲鳴。

 柏原夢十の眼前で、その男は倒れた。

 先導役の山人。首に深々と、矢が撃ち込まれていた。


「糞っ」


 矢が撃ち込まれた方向は、岩山だった。射手が小さく見える。あの距離から、山人を狙って射たとしたら、とんだ腕前だ。


「親父、追うかい?」


 息子の市助いちすけが駆け寄って言った。夢十には、五人の息子がいる。その中で次男の市助だけを伴って、夜須へ流れてきた。残りは九州の浮羽に残り、一族を纏めている。


「お前が追いたいのだろう?」

「そりゃまぁ、敵だからね」

「やめとけ。罠があるはずだ。それに目指すは、平山雷蔵の首一つ。山猿一匹など捨てておけ」


 市助が頷く。

 息子達の中で、市助の腕前は頭一つ抜けていた。今も、二十名の手下を掌握している。しかし、経験が少ない。それさえ積めば本物になると思っている。


「江上様へ伝令を出せ。先導役をられたとな」


 恐らく、後方に続く逸死隊と江上本隊の山人も殺されているだろう。でなければ筋が通らない。


「市助。これからどうする?」

明丸あけまる雲丸くもまるを出すというのは」


 夢十は頷いた。明丸と雲丸は、柏原党が使う忍犬である。雷蔵の臭いから、その居所を追う事が出来る。


「よし、じゃ準備するぜ」


 犬がすぐに連れて来られた。白と黒の大きな着物だ。その鼻に、雷蔵の着物を近付ける。建花寺村で手に入れた物だ。十分に匂わせて放った。

 暫く、道なき道を進んだ。二匹の犬は迷いなく進んでいる。罠も本能的に避けるだろう。その訓練もしている。


「親父」


 市助が血相を変えていた。夢十が駆け寄ると、そこに二つの骸が転がっていた。


「罠だ。二人もられた」


 最後列を進んでいた者だった。竹槍が身体を貫いている。


「五作と、太兵衛か」


 悲鳴。今度は前方からだった。市助と顔を見合わせて、駆け出した。落とし穴。今度も竹槍で、一人が即死、一人は重傷を負った。それを助けようとした手下も、上から降ってきた丸太に頭を潰されている。


「罠ばかりだぜ、こりゃ」


 市助の表情は固い。夢十も同じだった。


「市助」

「何だい?」

「立ち入ってはいけぬ領域に、我々は足を踏み入れたのかもしれぬ」

「俺もそう思うぜ、親父」


 忍びとして、この泰平の世に生きながらも、それなりに経験を積んだ。〔名人三無〕と謳われた始祖・柏原三無かしわばら さんむから始まる柏原党の首領として、その名に恥じない働きをしてきたつもりだった。しかし、この窮地。恥ずかしながら、恐怖すら覚える。


「女だ」


 先頭を進む手下が言った。

 夢十は、前に出た。確かに女。それも山人の女が、道の先に立っていた。

 女は、こちらに向かって手招きしている。


「罠だ、追うなよ」


 しかし、猛然と明丸と雲丸が駆け出していた。

 女に向かって牙を剥く。が、それは矢の餌食になった。


「しまった」


 女に注目していた隙に、囲まれていた。山人だ。手には小型の弓。幅広の剣を持った者もいる。

 やられた。山全体が罠だったのだ。今頃、他の隊も襲われているだろう。命あっての物種。夢十は、躊躇いもなく退却の命令を出した。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 必死に駆けた。

 生き残った七名の手下は、全て市助に預けた。市助を生き延びさせる為でもあるが、一人の方が動きやすいという事もあった。

 勾配の激しい山道だった。息が苦しく、途中で忍び頭巾を脱ぎ捨てた。

 血臭が鼻を突いた。それは山を下るにつれ、濃いものになっていく。


(もうこれで、仕官の話は消えたな……)


 夜吼党を全滅させた失敗に続き、このザマである。戦う事も放棄したのだ。このまま夜須を出るが吉であろう。

 拓けた場所に出た。山中にあって、比較的平坦な地形である。


「これは」


 そこが、死体の山であった。逸死隊の他に、江上本隊にいた足軽のものもあった。手や首だけでなく、腸も散乱している。まるで狼に喰い散らかされた惨状だった。

 その中。二人の男が向き合っていた。

 一人は平山孫一。もう一人は、黒尽くめの男。塗笠に黒羅紗洋套で身を包んでいる。


(平山雷蔵……)


 夢十は、骸の中に身を潜めた。

 雷蔵と思われる男が、塗笠を取り洋套を脱ぎ捨てた。

 色白で、狐目。美しい容貌は、まさしく雷蔵だった。

 不思議と、氣を感じなかった。だから、二人の存在よりも、骸に目が行った。使い手二人が対峙していれば、その氣も半端ではないはずなのだ。

 ほぼ同時に抜いた。

 孫一は正眼、雷蔵は下段だった。その切っ先は地面に着きそうなほど沈んでいる。

 孫一と雷蔵から、全くと言っていいほど氣や圧力を感じなかった。ただ、佇立しているように思える。


(今なら、雷蔵を仕留める事が出来るのでは……)


 脳裏に、何かの声が囁いた。

 幾らあの雷蔵でも、自分と孫一が一気呵成に仕掛ければ、ひとたまりもないはずだ。手柄は孫一と分け合う形になるが、このまま浮羽に逃げ帰るよりましである。

 雷蔵の意識は、孫一に注がれている。こちらに気付いている風は無い。

 好機。夢十は懐の手裏剣に手を伸ばした。そして、身を起こそうとした時、夢十は自らの異変に戦慄した。

 足が震えた。それも、膝が揺れるような激しいものだ。歯の根も合わない。

 そして、恐ろしいほどの寒気。雷蔵の氣だった。悠然と立っているようで、その実は違う。雷蔵の氣に自分は、そして恐らく孫一も呑まれているのだ。

 それは、恐怖だった。生まれて五十余年。忍びとして生きて来た。相当な修羅場も潜ったが、奮えるほどの恐怖とは無縁だった。

 夢十は、顔を伏せ臍を噛んだ。折角の好機に、何て様なのだ。


(無理だ)


 孫一では、雷蔵に勝てない。二人で挑んだとしても、結果は見えている。この雷蔵の氣に呑まれた空間が、何よりの証拠だ。

 ならば、せめて念真流を目に焼きつけよう。そうする事で、勝機を見出せるかもしれない。

 夢十は、顔を上げた。

 孫一は上段に構えを移していた。雷蔵は相変わらずの下段。ただ二人の距離が、微かに縮んでいるのに気付いた。

 跳ぶのか。いや、跳べ。跳んでみせろ。そう念じたが、先に跳んだのは孫一だった。

 雷蔵は下段のまま動じない。孫一の斬撃。迫る。


(何をする気だ)


 夢十は、息を呑んだ。

 雷蔵は動かなかった。動いてないが、孫一の一刀はその鼻先を掠めた。

 動いたようには見えない。ならば、孫一の狙いが外れたのか。


「おのれ」


 着地した、孫一の声。雷蔵は構わず刀を納めると、孫一の身体が揺れ、上半身だけが地に倒れた。


幻位朧崩げんみ おぼろくずし」


 声と共に、雷蔵の視線がこちらに向いた。


「念真流を破る為に、編み出した寂滅の秘奥だ」


 雷蔵が、歩み寄ってくる。夢十は伏せていた身体を起こそうとするが、力が入らない。腰が抜けているのか。雷蔵。近付いてくる。そのかおわらっていた。

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