第一回 狼の目(後編)

 しなやかな手捌きで茶を点てると、静照院は利重に天目茶碗を差し出した。

 夜須藩邸中屋敷。その庭園の一角に拵えた利休好みの茶室である。〔陰明庵いんめいあん〕という名で知られたこれは、藩財政に痛打を与える事しか知らなかった、風流狂いの父・栄生利永さこう としながが、天岸佐閻あまぎし さえんという、当時売り出し中だった庭師を京洛より呼んで造らせたものだ。

 利景は、この陰明庵を「地味であるが奢侈」として取り壊そうとしたが、時の将軍がわざわざ利景を呼びつけ、「これは万年に残る傑作。ここで壊すは後世の批判は免れない」とその芸術性を解いて、取り壊しを断念させたという逸話がある。

 その陰明庵に利重が入るのは、これが初めてだった。まだ陽が高い昼下がりだというのに、茶室全体は薄暗い。それが陰明庵の由来でもあるのだろう。そして此処には、自分と義妹たる静照院しかいなかった。

 静照院は、今年で二十三になる。こうして二人っきりで話すのは、初めての事だった。


「どうぞ」


 そう言われ、利重は茶に手を伸ばした。

 仄かに甘い茶だった。泡もきめ細かく、静照院の腕が中々のものだという事が判る。

 その茶を、利重はゆっくりと飲み干すと、静照院が口を開いた。


「毒を仕込まれていると、お疑いにはなられぬのですね、義兄上?」

「あなたが私の命を奪う理由が見当たりませんので」


 平然と返した利重に、静照院が笑顔を投げかけた。


(やはり変わった)


 特に目だ。相変わらずの狸顔は女としての魅力を感じさせないが、その目には毅然とした意思を感じる。これが母親の強さというものだろうか。


「国元はお変わりありませんか? 最近は特に忙しいご様子だと、聞き及んでおりますけども」

「それが、昨年の一件が何かと尾を引いていおりましてな。特に人手不足は痛恨事。急いで有用な士を集めておりますが、中々……。故に、此処にも来れず申し訳ない」

「いいえ、義兄上。義兄上は、夜須の領主なのですから、まずは政事を第一に考えて下さいませ」

「亡き利景公から受け継いだものは、私には中々重く、改めて先君の偉大さに感じ入っておりますよ」

「利景公は天駆ける麒麟でございましたから。そして、そのたっといい血は常寿丸にも受け継がれております」


 利重は頷いた。

 常寿丸は、今年で四歳になる。先ほど会ってきたが、風邪は既に完治し元気に遊んでいた。受け答えもしっかりとしていて、利景が直衛丸と呼ばれていた頃を否応なしに思い出させる。


「近頃は、利景公によく似て来ましたな」

「本当に。目元口許もそうですが、声が特に」


 利重は同意するように頷いた。脳裏に、利景の美声が蘇る。あの通る声は天性のものだ。組織の統率者にとって、声というものは重要な要素である。


「今日は、腹を割って話そうと参上いたしました」


 静照院が、ゆっくりと伏せていた目を上げた。

 覚悟している女の顔だった。いつかこの日が来る。そして、今日の来訪がその為だと、心の準備をしていたのだ。


「もうお疲れでしょう。暗殺を警戒するのは」


 そう切り出すと、静照院は含み笑いをして見せた。


「何かおかしい事でも?」

「それを、義兄上が申されるのは滑稽というものですわ」

「やはり私をお疑いなのですね」

「そう思っているのは、私だけではございませんでしょう」

「まぁ、そうでしょうな。しかし、私は常寿丸をどうにかするつもりは毛頭ありませんよ。むしろ皆の前で誓ったように、次期藩主に据えるつもりです」

「では直ちに隠居し、常寿丸に家督をお譲りください」


 以前の静照院には考えられぬ一言だ。こうも直言を弄すとは予想外だ。しかし、それで動じる事はない。利重は余裕を持って、口を開いた。


「静照院殿。私の本心を申せば、すぐにでもこの座を嫡流である常寿丸にお譲りしたい。ですが、御公儀と厳しい時勢がそれを許さないのです」

「……」

「もし、私が勝手に隠居すれば、栄生家は潰されます。私が利景公の跡を継いだのは、幕府の意向なのですから。私は栄生家の者として、家臣を路頭に迷わす事は出来ない」

「私の望みは、常寿丸の安全と藩主の座。あなたのいる場所は、本来あの子がいるべき所なのです」

「それは保障します。常寿丸は世子として養育するつもりです」

「信じられません」


 静照院が即答した。


「もし義兄上が妻をお迎えし、男児が産まれましたらどうなりましょうか?」

「家中が割れるでしょうな」

「そうです。騒乱の種にしかなりません。それは古今の歴史を紐解かずとも判る事ですわ」

「では、こうしましょう」


 と、利重は膝行し一つ前に出た。


「あなたが私の妻となるのです。そうすれば、常寿丸は私の嫡男になる。万が男子が生まれたとしても、それもあなたの子」

「何を馬鹿な」


 思わぬ一言に、静照院が声を荒げた。無理もない反応である。が、それが静照院に動揺を与えたのは確かだ。


(ここが切り口かな)


 と、利重は内心でほくそ笑んだ。後は、少しずつ切り崩していけばいい。


「私は出家した身でございますよ」

「還俗すれば問題ありません」

「逆縁になります。世間から後ろ指を指されます」

「逆縁は、神君家康公の異父妹もしておられるし、家臣に薦めた事があります。もし、我らの結婚を批判する者がいれば、それは神君を批判すると同意。何を恐れる事がございましょうや」


 静照院が言葉が詰まり、視線が揺らいだ。そうだ、それでいい。強がって変わったつもりでも、根は早々に変わるものではない。


「それに、もう私に失うものはございません。昨年の一件で天下の笑いものにされたのですから。しかし、それでも栄生家は、夜須藩はあり、我々はそれを守らねばならない」


 利重は注意深く、そして少しずつ語気を強めた。それは、手ぐすねを引くような感覚だった。静照院の責任感と心をこちらに寄せなければならない。母性というものを枷にして。


「ですがお恥ずかしい事に、藩内で私に対する反感が多いのは事実。昨年の一件が最たる例ですが、未だその火種はそこかしこに燻っているのです。常寿丸に譲れば解決するのでしょうが、それは幕府が許さない。この窮状を打開する手が、静照院殿を妻に迎える事なのです」

「そのような……」

「夜須二十六万石を救う手は、この他にありません。あなたを妻に、嫡子として常寿丸を迎えれば、家中は再び一つになれるのです。そして、あなたの想いもそれで叶えられる。常寿丸は名実ともに、私の世子です」


 自然と、利重は平伏していた。これでどうだ。心中で、そう思った。


「全ては常寿丸の為。あの子に、亡き利景公の全てを受け継がせる為なのです」

「どうか、お顔を」


 静照院の手が、利重の両肩に触れた。その感触は、何故か利重の男の部分を刺激するものがあった。

 獣のように、押し倒そうか。そう思った刹那、


「……実家の弟にはかってみます」


 と、静照院が呟いた。

 伏せていた顔に笑みが浮かぶのを、利重は必死に堪えた。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 江戸郊外、小梅村の広大な屋敷。

 この屋敷は小梅荘と呼ばれる意安の別邸で、宴や会合でよく使われている。利重が訪れたのは、これで二度目だった。

 広間に導かれると、既に座が乱れていた。


(はて……)


 約束の刻限には間に合っているはずである。八十太夫が聞き違えた可能性もあるが、遅れた今となってはどうしようもない。


「おお、利重殿」


 利重の姿を認めた上座の男が、陽気な声を挙げて立ち上がった。

 田沼主殿頭意安。

 利重は、無意識に身構えていた。


「ささ、こちらへ。よくぞ参られた」


 と、意安は利重を中へ導いた。


「何かとお忙しい中、御足労をおかけした。申し訳ござらぬな」

「こちらこそ、お招き頂き感謝いたします」

「なんの、なんの」


 意安は、柔和な男だった。

 細面で色白。そして、人を惹きつける笑みを湛えている。一見して、気のいい中年だ。

 田沼と言えば尊大な為政者と市井で思われているが、実際は全く違う。恐縮するほど、腰が低いのだ。


(だが、抜け目のない男……)


 そう利重は、思っている。腰の低さが立身の要因なのは間違いない。しかし、それ以外の何かがなければ、濁流派の領袖として絶大な権力を築けるはずはないのだ。

 顔を合わせるのはこれで六度目だが、この男に対する認識は最初に抱いたそれと変わらない。


「皆の衆よ。夜須二十六万石を、野心と才能一つで掴んだ梟雄が来られましたぞ」


 その紹介に、座がどっと沸いた。〔梟雄〕という言葉に眉を潜めたが、意安は意に介していない風であり、参加者は好意的に受け取っている。


「さぁ、こちらへ」


 言葉選びに訝しむ利重をよそに、座るように促されたのは意安の左隣りだった。


「私のような新米が斯様な席では、差し障りが」

「お構いなく。今夜は濁流派の宴だが、集めたのは新進気鋭の若手ばかりでの」


 確かに、広間には始めて見る顔ばかりだった。知っている者と言えば、印西いんざい藩の千葉浪江ちば なみえおぎ藩の大内一問多おおうち いっとうた、高家旗本の武田但見たけだ たじみ。この三人は、嫡流であるが家を継げなかった、次男三男だった。


(なるほど、そういう事か)


 自分も、同じだった。家を継げぬ穀潰し。一応、犬山家を継ぎ別家待遇ではあったが、立場はそう変わりは無い。

 だが、何故このような不遇な境遇の者を集めたのか。利益を第一の意安にとって、家を継げぬ彼らには値打ちは無いはずだ。

 利重は、意安の酌を恐縮して受けた。流石に田沼の酒。かなり上等な代物で、飲み応えがある。


「大名の子弟だけでなく、旗本の小倅もおりますぞ」

「何故、斯様な者達を?」


 すると、意安はにんまりとして、人差し指で頭を指さした。


「ここが切れる。だが、彼らは家督を継げぬ部屋住み。そんな人材を埋もれさせるのは、この国にとって損失ですからのう」

「なるほど」


 これが、意安の人材登用であり、利益か。利景にも通じる所はあるが、部屋住みまでには手を伸ばさなかった。


「ほほう。早速真似しようと思っておられるな?」

「ええ。確かに、これは善き策かと。私の声一つで、明日にも出来そうな事です」

「ふむ。確かにその通りだが、これが中々難しいものですぞ。まず、銭がいる。新たに登用するからには、知行を与えねばならん。今の世の中、どの家中も懐は火の車。次はここの問題」


 と、意安は自らの胸を軽く叩いた。


「心、ですか」

「跡目を継げなかった者を抜擢すると、当主が臍を曲げるでの。その当主も家臣だから、これが何とも厄介」

「判る話です」

「だから未だ何も出来ておらぬ。幕府でも国元でも。無理を通す事は出来るが、それでは人心が離れてしまう。どちらの顔も立つようにせねば、この策は成功とは言えぬ」


 利重は渋い顔をして頷いたが、意安は莞爾として笑った。


「だからこうして、時折招いては憂さ晴らしをさせておる。今少しの辛抱だと」

「深いお考えがあるのですね」

「まぁ、ただ飲みたいだけという事もありますがな」


 暫く、利重は歓談をしながら盃を重ねた。若者達は、意安を〔親父殿〕と親しみを込めて呼び、意安も気軽に応えている。

 また、利重にも話し掛ける者もいた。それは政事向きの話もあるが、多くは藩主になった時の気持ちなどだった。


「彼らが田沼様の片腕になればよいですな」


 利重は、銚子を差し出して言った。


「ふふふ。片腕もいいが、彼らが嫡男を追い落とし、当主の座に就けばもっとよいのう。それこそ、利重殿のように」


 意安がわらった。利重も微笑んで、


「御冗談を」


 と、返した。

 暫く酒を呑み、庭園の東屋あずまやに誘われた。

 あるのは、灯籠の灯りと火鉢。如月の夜風が肌を刺すが、酔いを醒ますのには丁度いい。


「昨年は大変だったようだな」


 東屋に置かれた椅子に座ると、意安が口を開いた。今までとは、口調が一変している。さて、どちらが本当の意安か。


「はっ。それに関しては、お骨折りをしていただき」

「構わん」


 と、意安は利重の言葉を遮った。


「そのお陰で、かなりのものを受け取ったしのう。特に阿芙蓉に関しては、釣りがいるぐらいだ」

「……」

「ようも斯様な販路を、一代で築いたものだの。犬山梅岳という男は大したものよな。〔阿芙蓉大名〕の異名を時折耳にしていたが、何処にいるかまで探れなかった。それがまさか、夜須におったとは」

「しかし、結局は田沼様に知れてしまいました」

「だが、それは梅岳の死後の事よ」

 確かにそうだ。今思えば、大きな義父だったと思う。しかし、その梅岳を自分は殺させた。

「平山清記に栄生帯刀だったか」

「はっ」

「特に平山は念真流なる流派を使い、刺客を務めていたとか」

「ええ」

「飼い犬に手を噛まれたか」

「あれは、犬ではなく狼でございました」


 すると、意安は鼻を鳴らした。表情には笑みが無い。自分の発言に不快感を与えたのだろうか。


「私は、お前を買っておる。故に助けた。そして、許している」


 利重は目を伏せた。意安の眼光が鋭かったのだ。それは、まるで狼の目。清記のものとは質が違うが、直視出来ない圧があった。


「はっ……」


 怖気づいたわけではない。利重はそれを証明するかのように、腹から声を絞り出した。


「私は、お前という男が好きなのだ。このご時世に下剋上を為したのだからな」


 意安が話は終わりだと言わんばかりに、立ち上がった。


「私を失望させるなよ。尽くせよ。私とこの国の為に」

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