第一回 狼の目(前編)

 自分の叫び声で、栄生利重さこう とししげは目を覚ました。


「殿、如何なされましたか」


 と、すかさず、襖の向こうから宿直とのいが声をかけてきた。

 暫く胸を伝う汗に目をやった後、利重は襖の方へ顔を向けた。


「すまぬ。気にするな」

「かしこまりました」


 そう言った宿直が気配を消すと、一つ息を吐いた。

 また、あの夢を見てうなされたのだ。寒さが残る如月だというのに、着物が濡れるほどの酷い寝汗である。

 まだ辺りの闇は深かった。払暁には、幾分か時間があるのだろう。


(いかんな)


 諸肌になり、手拭いで流れる汗を拭った。

 悪夢だ。それはいつも同じ光景である。

 誰もいない城中で、利重は抜き身を手にした男に追われるのだ。そして最後は必ず追い詰められ、斬られる。

 男の顔ははっきりとしない。何か靄が掛かっているようで確かめられないでいる。しかし、利重には男が誰だか判る。あの男以外に、いようはずもないのだ。

 昨年の晩秋。利重は家臣に叛かれた上、本丸にまで斬り込まれてしまった。一人は叔父の栄生帯刀さこう たてわき。もう一人は御手先役おてさきやく平山清記ひらやま せいき。そして、この二人に追従している者共に。

 おそらく、悪夢はあの日の事が原因であろう。それほど、あの一件が利重の心に深い傷を残した。

 恥辱である。安永八年、江戸に幕府が開闢かいびゃくされ百七九年も経た泰平の世にあって、家臣に城攻めされるなど、恥辱以外の何物でもない。そしてあろう事か、この身体に叛徒の刃が届いてしまった。

 その日以来、利重と夜須藩の名は天下の物笑いになっている。城に討ち入られるという、前代未聞の失態。白日の下に晒された、嫡流簒奪の汚名。栄生家棟梁でありながら敵に怯え、一太刀を浴びた事への嘲笑。これらの醜態を、当然の報いだという者も多いという。


(私は、自分の力を試しただけなのだがな)


 簒奪への反感は、当然の反応として覚悟していた。特に帯刀や反梅岳派は騒ぐだろうと。だが藩主になってしまえば、全て権力と権威で封じ込められると、迂闊にも甘い算段をしてしまっていた。


(清記は兎も角、帯刀の破天荒を計算に入れるべきであった)


 と、今になって後悔しても詮無き事である。

 そもそも、嫡流を簒奪した事に罪悪感は無い。利景を暗殺したわけではないし、後継者は常寿丸を指名する事で一応の筋は通している。もし我が子が生まれ藩主への野心を抱いたのならば、お互いの才を競えばいい。また常寿丸が自分を父のかたきと弓引こうものなら、喜んで受けて立とう。簒奪した以上、その業から逃げも隠れもしない。それよりも無能者が安穏と地位を継ぐ方が、家臣や領民にとっても、不幸ではないのか。

 優秀なものが、群れを率いる。それは人間にも畜生にも共通する理論原則である。自分はそれに従ったまでなのだ。

 利景亡きの栄生家で、最も優秀な人間は、この利重をおいて他にいない。本来担ぐべき常寿丸は幼く、当然そのような幼君では、〔関東の蓋〕と渾名され江戸防衛の任を務める夜須二十六万石を治める事など出来ない。家臣の合議という手もあったが、それでは内訌ないこうによって藩政が滞りがちなる。現に少し耳打ちしただけで、相賀は添田を裏切って、いとも容易くと二つに割れていた。

 そうした状況下の栄生家に、自分だけがいた。望めばその地位が目の前にあったので、手を伸ばしただけである。まず朝廷を動かし、そして幕府もそれを認めた。その為に多額の銭を撒いたが、それも才能の一つだ。


「常寿丸を殺すなよ」


 と、帯刀が死の間際に言った。

 どうやら叛徒は後の禍根を残さぬよう、常寿丸に手を掛けると思っていたらしい。


(何と愚かな早合点よ)


 当然利重に、常寿丸を手に掛ける気など毛頭ない。常寿丸は、利景の優秀な血を引いているのだ。後々の成長が楽しみであるし、後継者として大切に

養育するつもりでいる。

 その意向は、江上八十太夫えがみ やそたゆうにも伝えていた。あの男は善かれと思って平気で手を穢す男。だから、くれぐれも常寿丸にだけは手を出すなと、重々言い聞かせている。

 そうした心積もりだったからか、謀叛の目的を知った時は流石に悔やんだ。もっと帯刀や清記と、胸襟を開いて話すべきだったと。


(全ては、私の怠慢か……)


 利重は、左頬の傷に手をやった。

 既に完治し、引きったそれを触ると、あの日の光景が鮮明に蘇る。

 あの男は狼だった。邪魔する者は噛み殺し、ただ私だけを喰おうとする狼。そして、その牙は、この身に届いた。

 最後の一撃。降り下ろされた刃は、確実に命を奪うものだった。皆藤左馬かいどう さま、いや平山孫一ひらやま まごいちが頭上から舞い降りて来なければ、この首を獲られていただろう。

 命に縁があった。生死を分けたのは、ほんの僅かな運だけだろう。そして、清記には死しかなかった。その後の取り調べて判明した事だが、余命幾許もない死病を患っていたという。そうした素振りなど、おくびにも出さなかった。今思えば、それが何ともあの男らしい。


(誇り高い、武士であった)


 もし麾下に迎えられていたのなら、どれほど心強かった事か。

 そう思う。これまで出会った多くの男の中で、最も惹かれた武士らしい武士だった。こうした武士でありたいと、幼き日に憧れてさえもいた。いや、それは大人になっても変わらない。しかし、今は恐怖でしかない。

 手が震えていた。あの光景を思い出せば、寒気すら覚える。死など怖くないと思っていたが、そうではなかった。

 あの目。あの狼のような目に、恐怖しているのだ。

 平山清記。あの男は、まさに狼のすえだった。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 結局、それから眠れないまま朝を迎えた。

 江戸藩邸での一日は、八十太夫の報告から始まる。それまでは側用人だった沖岡主水おきおか もんどの役目だったが、前年の騒動で清記に斬られ、以後は八十太夫が引き継いでいた。


「さて、先日申し上げた新規召し抱えの件ですが」


 と、八十太夫は持ち前の抑揚の無い声で切り出した。

 中庭に面した、御座間ござのまである。側には火鉢があり、綺麗に配置された炭が暖かな熱を発している。


「骨のある者はおったか?」


 すると、八十太夫は無表情のまま首を振った。


「どれも小者です。その程度ならば、藩士の二男三男を登用すれば済む話でしょう」

「お前の目が厳し過ぎるのではないかな?」

「私の目にも掛からぬ者が、殿の目に掛かるはずはございません。それとも殿は有象無象を増やして、無駄に知行を与える事がお望みですか?」

「そう嫌味を言うな。ある程度の振るい落としは、お前の役目。思うままにしてみせい」

「はっ。では人材登用の募集を、広げようと思います。大坂、京都、長崎、博多、日田辺りまで」

「関東だけでは足らぬか」

「ええ」

「何とも、人の問題はままならぬな」


 これも前年の謀叛の余波だった。側用人の沖岡を筆頭に主立った者で、若年寄の大関喜一郎おおぜき きいちろう、物頭の許斐亘このみ わたる、書院番頭の倉知勇蔵くらち ゆうぞうなどが、叛徒の凶刃にたおされた。それだけでなく、見込みある優秀な若者も数多く死んだ。叛徒には常寿丸の為に優秀な家臣を残すという発想は無かったようで、こうした人材の損失が最も深刻だった。

 また目尾組しゃかのおぐみ逸死隊いっしたいの被害も大きかった。忍びである目尾組の補充は一朝一夕に出来るものではなく、剣客を集めた逸死隊もまた同じ。一応は人を方々に放っているが期待は薄い。

 兎にも角にも、人材登用と再建が急務だった。差し当たり、沖岡に代わって八十太夫を側用人に任じた。本人は裏で生きたいと言っていたが、そうした意向を聞くほど夜須に余裕はない。藩政に関しては、一時遠ざけようとした相賀舎人あいが とねりを戻すしか手は無さそうだ。


「あと一つ。田沼様がお会いしたいと」

「来たか」

「ええ。濁流派だくりゅうはの宴を開きたいので、日程を調整してくれというしらを受けました」

「いつだ?」

「五日後でございます」

「中々厳しいものになりそうだな」


 利重が腕を組むと、八十太夫が頷いた。

 二十日前の閣議で、栄生家中の騒動を清流派せいりゅうはに突かれた。

 清流派の首魁である松平諏訪守まつだいら すわのかみ定成さだしげが、


「家臣を御し得ないのは力量不足。そもそも嫡流でない身で継ぐ事が間違い故、改易すべし」


 と、徳河家治とくがわ いえはるに訴え、また世子である家基いえもともそれに同調した。

 しかも定成は、利重は栄生家の血を引いておらず、犬山梅岳いぬやま ばいがくの子であるとも言ったのだ。


(何でもありだな、江戸の政局というものは)


 それを耳にした利重は、思わず苦笑してしまった。

 出生に関しては、噂に過ぎない。昔から家中のほんの一部で、まことしやかに語られていた事は知っていた。が、父も母も梅岳も死んだ今、真実を知る事は不可能であるし、三人が生前の内も調べようとも思わなかった。自分は栄生家の男だと信じていればそれでいいと信じていたのだ。

 流石に、この時ばかりは覚悟した。これで野望も潰えるのだと。

 しかし、絶体絶命の窮地を救った男がいた。田沼主殿頭たぬま とものかみ意安おきやすである。家治を熱心に説き伏せ、定成の訴えを退けさせたのだ。当然その謝礼に多額の銭と、それまで犬山家が抱えていた、阿芙蓉とその販路をそっくり譲る事になってしまった。

 意安と会うのは、それから初めてなのだ。きっと厳しい事も言われるであろう。窮地を助けられただけではない。意安が仲介した、老中・酒井靱負さかい ゆきえの娘との縁談も、今回の騒動で流れてしまっている。

 ただ、これで阿芙蓉との関わりを完全に切る事が出来た。それは不幸中の幸いというものであろう。

 そもそも、阿芙蓉の密売は梅岳が始めた事で、好きでやっていたわけではない。そこから上がる利は惜しいが、藩の存続の方が大事であるし、ここ最近は幕吏に睨まれやりづらくなっていた。

 阿芙蓉から手を引いて、肩の荷が下りた気分だった。面倒事を押しつけたような気もするが、意安ならば上手く捌けるはずだ。兎にも角にも、反対しそうな梅岳を始末していたよかった。生きていれば、何を言われるか知れたものではない。

 今思えば、この一件は自分を引き摺り下ろす帯刀の策だったのでは? と思わくもない。利景は清流派と近しく、帯刀はその筋を利用したのではないか。もしそうなら、出生の秘密が知れた事も頷ける。


「お断りしますか?」


 八十太夫が、利重の孤思こしを断ち切るように訊いた。


「無用だ。まぁ、案じても仕方あるまい。行くと返事していてくれ。……それより、私はこれより常寿丸の見舞いへ行く」


 中屋敷で暮している常寿丸が、三日前から風邪で寝込んでいるのだ。典医を遣わしたが、まだ伏せっているという。父に似て病弱かもしれない不安がある。


静照院せいしょういん様とのお話も?」

「時間があればな。そろそろ腹を割って話す時期だろう」


 静照院とは、亡き利景の正室である。高家旗本・京極家の出で、現当主・京極大膳太夫きょうごく だいぜんたゆう高遠たかとおの姉に当たる。

 利景の名声から大名や幕閣からの縁談はあったが、実家が大きいと色々面倒だと言って、さして大きくもない京極家を選んだ。縁組に際して利景はそれだけを気にして、それ以降は何も口出しはしなかった。

 麒麟児に選ばれた静照院は、平凡な女だった。歳は二十三。美貌に優れるわけでも、才女というわけでもない。ただ子を愛し、夫に尽くすだけの女である。

 そう思っていた。しかし、その静照院が利景の死後、がらりと様子が変わった。

 まず落飾すると、常寿丸を連れて中屋敷へ移ったのだ。それだけなら自分に遠慮したのだろうと思うが、身の回りには常に護衛を付け、食事も自ら拵えるという徹底ぶりであった。

 おそらく、常寿丸を暗殺されると思っての事だろう。帯刀にでも入れ知恵されたのだろうが、静照院はそれを信じ切っているようである。


「いっその事、常寿丸様共々ご実家に帰ればいいのですよ。その方が、後の禍根を残さずとも済みます」

「喋り過ぎだ、八十太夫。私の気持ちは知っておろう」


 常寿丸を養子に迎える。それは決めた事だった。出来れば、静照院を還俗させ正室に迎える。そうなれば一番良いのだが、こうした逆縁婚は評判が悪い。今更評判を落としても構わぬのだが、八十太夫は珍しく難色を示している。

 正室など、誰でもいいのだ。藩を効率よく治めるに有益な女なら、身分や美醜は問わない。その点から言えば、静照院を迎える事は最良の一手ではないのか。


「申し訳ございませぬ。では、中屋敷には、人を走らせておきましょう。私は同道出来ませぬが、道々お気を付けて」

「仰々しい護衛は御免だぞ」

「平山清記の一粒種が、まだ生きておりますので」


 そう言うと、八十太夫は平伏した。

 平山雷蔵。久し振りにあの女形おやまのような青年の顔を、利重は思い出した。

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