第二十三回 最後の密命(後編)

 三郎助を、居室に呼んだ。

 利重が訪れた、その夜である。

 開け放たれた縁側で、酒も用意している。肴は、利重の膳に出した岩魚イワナの残りであった。

 庭は、季節の花が咲いている。夜だが月の光が照らし出しているのだ。今は、秋明菊しゅうめいぎくが見頃である。

 花には興味が無い。だが、志月が好きだった。志月は一見して暗く冷たい印象が強い女だったが、花を愛でている時の表情は、まるで少女のようであった。その志月が庭に花園を拵え、彼女の死後は平山家に残った侍女がそれを引き継いだ。


「御方様を思い出しますな」


 三郎助が、しみじみと言った。清記は何も応えず、銚子を傾けた。

 もう遠い記憶だ。季節ごとに代わる代わる咲く花を眺めていても、思い出す事は少ない。だが三郎助がそう言うと、花を手入れしている志月の横顔が、まるで昨日見た風景のように浮かんでくる。

 志月は、雷蔵が三つの時に死んだ。流行り病だった。清記は、その対策の為に郡内を駆け回り、志月の死に目にも立ち会えなかった。その事を、誰も責めなかった。仕方ない。代官として当然の事をしたまでだと。それがまた、心に深い陰を落とした。


「お役目を頂戴した」

「……やはりそうでしたか」

「ああ。これが最後になるらしい」


 清記は、猪口を口に運んだ。五匹あった岩魚は、それぞれ二匹ずつ食べている。


「最後と申されますと、いよいよ隠居を?」


 その問いに、清記は首を振った。


「御手先役の役目を、暫く凍結するそうだ」

「それは」


 三郎助の表情が曇った。


「これが終われば、町奉行に任じるという内定を得た。隠居どころか、明日をも知れぬ身なのだがな」

「では、雷蔵様は?」

「来年にお殿様に付き従って、江戸へ行く事になっておる。帰国後に内住郡代官だそうだ」

「なんと」

「全ては今度のお役目の成否次第だがな」


 清記は頭と骨だけになった岩魚を、庭に投げ捨てた。草の中だ。かさり、と音がした。猫が岩魚を咥えて、どこかへ駆け去ったのだろう。


「それは心配しておりません」

「それが、そうはいかんのだ。今度のお役目は骨だ」

「殿が左様な事を申されるとは」

「死ぬかもしれん。もし私が遅れを取っても、雷蔵やお前達が咎めを受けぬよう、利重様に取り計らってもらった」


 と、清記は懐から誓紙を取り出し、三郎助に差し出した。


「何かあれば、使ってくれ。そして、もし私が戻らぬ時は、平山家の始末を頼む」

「ご冗談を。不吉な事を申すものではございませぬぞ」


 三郎助も、盃を重ねた。顔は既に赤い。下戸ではないが、すぐにそうなるのだ。若い頃から、変わらない事の一つである。


「殿」

「……」

「お殿様を、お斬りになられるのですね」


 ふと、三郎助が言った。何故、そのような事が判るのか。動揺した清記は慌てて否定したが、三郎助は微笑みで応えた。


「顔を見て、判りました。殿は覚悟なされたと」

「すまん」

「何年、殿のお傍にいるとお思いですか? 私は執事ですぞ」


 三郎助の瞳から、ほろりと涙が零れ落ちた。


「何故、お前が泣く」

「悔しいのです」

「どうして?」

「私も武士です。殿と共に戦いたい。ですが……。怖いのです。私は剣がさっぱりの上、臆病者。情けないのですが、死ぬのが恐ろしゅうございます」


 三郎助が俯く。清記は視線を逸らさずに、猪口を呷った。


「それが人間だ。私も死病でなければ、お殿様を討つ決心が着かなかったと思う」

「……」

「死に際して、悩まぬ人を私は信用しない。それにお前が加勢した所で、何が出来よう。お前は奉公人達が飢えぬよう、手を打って貰わねば困るのだ。そして、私と志月の墓守もな」

「殿……」


 三郎助も猪口を飲み干した。いい飲みっぷりだ。清記は、すかさず銚子を差し出した。


「では、雷蔵様も共にされるのですか?」

「いや、夜須から出す。あやつを巻き込む気は毛頭無い」

「それがようございます」

「飲もうか、三郎助」

「ええ、お付き合いいたします」

「朝までだ」

「はい。昔語りなどしながら」


 三郎助が笑い、銚子を差し出した。まず語ったのは、亡き父・悌蔵との思い出だった。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 屋敷の裏手には、小高い山がある。

 建花寺村と内住郡が一望出来る山の頂に、小さな墓がある。

 清記は、摘んだばかりの秋明菊しゅうめいぎくを供え、手を合わせた。

 晩秋の夕暮れ。日が暮れれば、冬の到来を匂わせる夜気を感じる時分である。

 この墓に、志月が眠っている。野仏を置いただけの、小さな墓だ。その墓を作ったのは清記自身で、心の底から愛しているという気持ちを込め、自ら菩薩を彫った。


「父上」


 声がして、清記は合わせていた手を解いた。


「こんな場所に呼び出して、何の用ですか」

「まずは母上に手を合わせろ。話はそれからだ」

「まぁ、そう仰るのなら」

 雷蔵が手を合わせる。その様子を、清記は腕を組んで見ていた。

「終わりましたよ」


 清記は頷き、墓の前に腰を下ろした。


「父上」

「お前も座れ」

「何も地べたに座らずとも」

「いいから座れ。母上の前で、親子三人一緒に聞いて貰わねばならぬ話がある」


 雷蔵は不承不承という表情で、腰を下ろした。雷蔵は今、代官所の仕事に追われているのだ。悠長に話す暇は無いと思っているのだろう。


「お役目を頂戴した」

「父上がですか?」

「無論。帯刀様を斬らねばならん」


 その一言に、雷蔵の切れ長の目が見開いた。


「それで、父上は帯刀様を斬るのですか?」

「それがお役目だ」

「帯刀様は父上とは長年の友人なのでは? それでも父上は」

「仕方なかろう。これが御手先役だ」


 そう言うと、雷蔵は呆れた様子で鼻を鳴らした。


「軽蔑するか?」

「いや、しませんよ。むしろホッとしました。どうやら、父上も私と同じ、命じられるがままに人を斬る傀儡くぐつに過ぎないようなので」

「そうした星の下に生まれた。そして、その星から逃れようとも、変えようともしなかった」

「唯々諾々と、父上は宿星を受け入れたのですね」

「ああ。私の臆病と怠慢のせいで、母上には要らぬ苦労をかけたものだ」

「そうですね。だから母上は病になり、父上に死に水も取ってもらえなかったと聞きました」

「……その通りだ」

「で、話はそれだけですか」


 清記は首を振った。


「お前にお役目を与える」

「あの男からでしたら、御免ですよ」

「いいや、私の一存だ。しかし、利景公の遺命と心得よ」

「それならば、まぁ。で、私は何をすれば?」

「羽合殿を救え」


 雷蔵が、意外そうな顔をした。


「羽合殿は、利景公が見出した男。このまま死なすには惜しい人材だ。故に、何としても救い出して欲しい」


 羽合は今、宇美津へ向かっている頃だ。夜須を出立したのは二日前である。その途中で消される可能性もある。名門が故に死罪は免れたが、利重が手を下さずとも、八十太夫や相賀が仕掛ける可能性がある。特に相賀とは犬猿の仲だ。


「へぇ。それは面白そうですね」

「羽合を連れ、霜奥しもおくの雄勝藩へ入るのだ。家老の八柏和泉様が羽合殿を保護してくれる手筈になっている。その為の書状も用意した。貞助も伴え。あの男は、お前が手足として使うのだ」


 雷蔵と貞助の相性はいい。それは見ていて何となく感じていた事だ。薊は村に残し、三郎助を支えてくれるよう頼むつもりである。


「命令ならば仕方ありませんが、私はお尋ね者になってしまいますね。羽合様を逃がした後、私は夜須に戻れるのでしょうか?」

「それは難しい」

「つまり、私を廃嫡するという事ですね」


 すると清記は、刀を雷蔵の前に差し出した。


「この扶桑正宗は、平山家嫡流に受け継がれる銘刀。これをお前に授ける」

「……」

「廃嫡ではない。夜須の平山家は、私の代で終止符を打つ。しかし、お前がいる限り、平山家と念真流はついえん」

「私に家督を」

「既に譲ったつもりであったがな。これより、お前が平山家当主であり念真流総代である」


 雷蔵が、清記を見つめた。細いが鋭い目。そして暗く、重い。その目が、亡き志月と同じだった。


「父上。もしや、帯刀様と差し違える気では?」

「でなければ、倒せん」


 今度は雷蔵が、関舜水八虎を清記の前に置いた。


「父上。では、これをお使いください」

「関舜水八虎は、利景公自ら打った刀ではないか」

「だからですよ。栄生家の者を斬るにうってつけでしょう。それに、私はもう栄生家の為に人を斬るつもりはございません。これよりは、この扶桑正宗と共に」

「雷蔵、お前は」

「これからは、生きる為に念真流を使います」


 雷蔵らしくない、力強い言葉だった。それが成長というものか。思わず目頭が熱くなった。


「それでいい」

「はい……」


 雷蔵の身体が、小刻みに震えている。そして、両眼から滴が零れ落ちた。それは絶える事なく、豊かな頬を濡らし続けている。

 清記はただ、目を閉じた。我が子の泣き顔を、最後に見たくはない。


「お前は、私と母上の自慢の息子だ。生きろよ、何があっても」

「そう……命じてくだされば」

「命令ではない。父として、お前に頼んでいる。母上も、きっと同じ気持ちなはずだ」

「父上、私は……父上を」

「もう行け、雷蔵。今生の別れと心得よ」


 返事はない。清記が目を開けると、雷蔵の姿は消えていた。ただ栄生家と決別するかのように、関舜水八虎だけが残されていた。


「志月よ」


 清記は、最も愛した女の墓に話し掛けた。


「あの子は私を許してくれんだろうな」

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