第二十二回 前夜祭(前編)
犬の遠吠えが聞こえた。
深夜。頭上には半月が輝いている。
清記は、提灯を手に城下を歩いていた。背後には、木下弥兵衛が続いている。清記が声を掛けたのである。
屋敷町を抜け、西寺町に入った。約束の場所だった。
「お迎えにあがりやした」
闇からの声。振り向くと、廉平が控えていた。
「清記様。そちらの御仁は?」
「木下弥兵衛殿という。私の同志だ」
「同志?」
「そうだ」
「へぇ。あっしは聞いておりやせんが」
「添田様の執事をされておられた。私と共に、死ぬ覚悟をしている。伴うぞ」
廉平が清記を見つめ、
「暫しお待ちを」
と、闇に消えた。
「良い忍びですな」
木下が呟くように言い、清記は頷いた。廉平には、今まで何度も助けられてきた。友と呼べるほど信頼している。そうした者は、もう少ない。
「以前は私の下で働いていたのですよ」
「ほう」
「今は自分の好きな事をしてますが」
帯刀と一緒に働いている。その事について、不満は無い。廉平は廉平なりに覚悟をして、この企てに加わっているのだ。その先に死があるとしても、もう止める気はない。命ぜられるがままに、従うだけの男ではない事は知っている。
暫くして、廉平がまた現れた。
「お待たせしやした。ではご案内しやしょう」
そう言って案内されたのは、真宗の寺院だった。
「木下殿はこちらに」
廉平が木下に声を掛け、別間に離された。
無理もない。突然連れて来たのだ。殺される事は無いだろうが、多少の疑いを掛けられても仕方がない話だ。
清記だけが、庫裏に通された。そこでは、帯刀が一人で酒を飲んでいた。鏑木と仙吉の姿は無い。
「来たか」
帯刀がそう言って、自分の対座を顎でしゃくった。
「お尋ね者が城下にとは、随分大胆ですな」
「篝火の下は最も暗いってやつさ。それに此処は俺の親父が庇護した山門。そうそう手入れも入らねぇんだ」
帯刀の父は、取り立てて秀でたものこそなかったが、堅実な藩主だったと父の悌蔵に聞いた事がある。故に、その後を継いだ帯刀の兄・利永の風流狂いが際立ったそうだ。
「本題の前に、確認する事がある」
「なんでしょうか」
「添田の執事を連れて来たのはどういう了見だ?」
「信頼に足ると判断しました」
「それはそれで構わん。では、お前の立ち位置はどうなんだい」
帯刀が猪口を差しだした。清記は受け取り、一口で飲み干した。
「私も同志のつもりです。改めて言う必要も無いと思ったのですが」
「へぇ。お前は俺の企みに興味なさそうに見えたが」
「阿芙蓉云々は、そうですね。私の狙いは利重を討つ事ですから。阿芙蓉の道がどうなろうと」
帯刀の顔が一瞬だけ険しくなった後、鼻を鳴らして猪口を呷った。
「甥御を討つか……。その覚悟があるのなら、手を組めるじゃねぇか」
「ええ、ですから参上しました」
「ただ、平山家を潰す事になるかもしれねぇぜ。念真流もな。お前の事だ。俺を裏切る事は無ぇだろうが、この先は改めて意思を問う」
「夜須藩主の座を正統に戻す為なら、平山家を潰しても構いません」
「死ぬかもしれん」
「御手先役を拝命した時から、私は死んでおります」
「そうかい。……お前さんが加わってくれるのは、力強いんだが、こればっかりは頼むとしか言えん」
「帯刀様が頼むなど。今まで通り、命じればいいのですよ。二十年ほど前に江戸で会った時のように」
遠い記憶だった。江戸で初めて会った。そして暫くして、帯刀から色々と命じられるようになった。その殆どが護衛だが、中には殺しもあった。
「で、雷蔵はどうするつもりだ?」
「この話を聞けば、必ず加担すると申します。故に、雷蔵は夜須から出します。私と運命を共にさせるつもりはありません」
「それがいい。あいつを俺達に付き合わせる事はないからな。何なら、嫁の実家で預かってもいいぜ」
帯刀の妻は、雄勝藩首席家老・
「それは有り難いです。雷蔵には命を与えるつもりですが、その後に身を寄せるよう伝えておきましょう」
「おう。しかし、どんな命を与えるつもりだ?」
「羽合殿を救えと」
帯刀の眉が動いた。そして、一つ頷いた。
「名案だな。では、早速書状を認めておこう。雷蔵に渡す分も」
「帯刀様らしからぬご厚情ですな」
「まぁ、お前には世話になったからなぁ。恩返しだよ。それに羽合は、そんじょそこらにはいない切れ者。あの才をむざむざ潰すのも忍びねぇってもんだ。雄勝のお殿様には、雷蔵と羽合を宜しくと書いておくよ」
雷蔵は、軽く頭を下げた。羽合の才覚と雷蔵の腕があれば、仕官も難しくない。それに、忠通の人となりを考えれば、利重が何と言おうが相手にしないだろう。
障子の向こうで声がして、鏑木と仙吉が庫裏に入って来た。らしくない、深刻な顔をしている。
「どうだい? 首尾は」
鏑木が首を振った。
「駄目だな。やはり
鏑木は吐き捨てるように言い、その場に寝っ転がった。一方の仙吉は、部屋の隅で控えている。
「そうか」
何の話か判らず、清記は帯刀に目を向けた。
「おっといけねぇな。平山よ、俺達が犬山梅岳に会うって話は覚えているか?」
「無論です。山人には協力を断られたと聞きました」
それは、室衛門からの話だった。帯刀が助力を乞いに現れたそうだが、
「これから藩の世話になろうとするのに、賞金首の協力は出来ない」
と、断ったと言った。他の
「おうよ。連中は既に利重が懐柔してたみたいでね。してやられた。だからよ、必死に探したさ。それでも見つからない。でもな、それも無理ねぇ話だ。何せ犬山梅岳は、もうこの世の何処にもいねぇからな」
「それは、
「
鏑木の話によれば、梅岳が寵愛していた小姓を拉致し、拷問を加えて口を割らせたという。
「その小姓が何故知っている?」
「そいつが手引きしたからですよ。その小姓の兄が逸死隊の隊士でね。怪しいと睨んだんだ」
「つまり、利重様が殺めたと」
「凄い奴ですなぁ、お宅のお殿さんは。藩の支柱に続き、自分の養父まで殺めるのだから、並みの決意じゃねぇよ。しかも実の父親だという噂もあるのでしょう? ろくでなしと言うか、怖いと言うか、何と言うか」
清記は、ふと梅岳の顔を思い浮かべた。
白髪に深い皺。目の奥の鋭い眼光。そして、苦虫を噛んだような渋い顔。あの男の前に立つだけで、肌が粟立ったものだ。
梅岳は、長年夜須藩政を壟断してきた、巨悪だった。しかし、そうした独裁が出来たのも、類稀なる政事感覚と手腕があったからで、利景も藩主親政を勝ち取るまで、熾烈な暗闘を繰り広げてきた。そして梅岳から藩政を奪い返したわけだが、その命までは取れなかった。巨悪だが一方で結果も残した。幕閣との交渉で手伝普請を何度も阻止し、かつ飢饉の際には藩主家の浪費を諫め、民力回復に貢献した。反対する者は善人であろうが容赦なく潰したが、それ程の男だったのだ。
宿敵とは言え、死んだという事実は胸に穴を空けた。
(添田といい、梅岳といい……)
しかも、二人に手を下したのは利重。山人の帰順もそうだが、出来なさそうな事をいとも容易く成し遂げる男だ。
「故人を偲ぶのもいいが、差し当たり今後の事だ」
「帯刀様。梅岳が消えたとなると、次の手は如何するつもりですか?」
「どうしようもねぇな、平山よ。もう阿芙蓉の道を辿る道は
背を向けて横になっている鏑木が、片手を挙げた。
「お宅らの殿さんは、化け
数年。その間に江戸にいる常寿丸が消されては、元も子もない。しかも今の利重なら、やりかねない怖さがある。
「数年も待てねぇし、やってる内にその座も盤石になっちまう。だからよ、平山。俺は決めたぜ」
「何をでしょう?」
「城に討ち入る」
帯刀の顔に、笑みがこぼれた。まるで無邪気な、悪餓鬼が悪戯を思いついたような顔だ。
「俺が登城し、利重に会いたいと言えば必ず会う男だ。そこを斬る」
流石に、清記は失笑した。参勤交代なり移動中に襲うならまだしも、城中でとはむざむざ死にに行くようなものだ。
「古来より虎穴に入らずんばとは言いますが、それで虎児を得られるかどうか。分が悪い賭けですよ」
「だから面白いのさ。博打も喧嘩も、分が悪い時こそ燃えるってもんだろう? それに、城で大立ち回りをしてみてぇ」
すると、鏑木が吹き出して笑い、身を起こした。
「そいつは豪気だ。この泰平の世で、城を攻めるって経験出来るもんじゃない」
「そうよ。どうせ死に花を咲かせるってなら、盛大に咲かせる方がいい。鏑木もどうだ、一つ」
「面白そうですがね、俺はここで降りる事にしますよ。江戸に報告しなきゃいけねぇですし、正直そこまでする義理は無いんで。民百姓の為なら幾らでも戦いますよ。それが武士の義務なんで。でも、これは言わば夜須藩内の政争ですから」
「そうかい。いや、別に若いお前さんを本気で誘う気は
清記も頷いた。もし鏑木が加わると言っても、全力で止めたろう。鏑木と仙吉、そして雷蔵の腕が加われば、利重を討てるかもしれない。だが、そう上手く行かないのは天命というものだ。
「これから江戸に戻ります。あまり長居をすると、俺らも参加したくなっちまう。何せ俺と平山さんは、一緒に宝如寺を攻めた戦友だ」
「そうだな。今まで世話になった。仙吉も」
帯刀がそう言うと、鏑木が居住まいを正し黙礼で返した。
「御武運を」
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