間隙 人斬り丑之助(後編)

 姉谷倫言あねや みちこと

 鉄漿おはぐろの公家である。それが、今回の標的だと教えられた。


「これが終われば、国元にも帰れろうて」


 と、亦部が言った。


「橘民部一党の捕縛で、勤王派も大人しくなっておる。そして、今回の役目で京都に静謐が戻ろう」


 とも。


本当まことでございましょうか」

「うむ。国元では、そうした話になっておる。それに、戻ればおぬしの格上げもあるかもしれぬ」

「それは」

「おぬしは、忠勤を尽くしたからのう。お殿様もよく見ておられる。もう犬侍とは言われんで済むぞ」


 丑之助は、でっぷりとした亦部の前で平伏した。

 この陰謀家を信用するわけでも、御家に期待するわけでもないが、そうした一言にどうしても期待してしまう自分がいた。

 それに、ここ最近の京都の静まりは、勤王騒ぎの収束を感じさせるものだった。京都の治安が回復すれば、此処にいる必要も無いのだ。藩庁でも、京都の滞在費が大きいと問題視しているらしく、そうと決まれば早々の帰還も有り得るかもしれない。

 伊川郷士からの脱却は、余り期待していない。そうなればいいが、簡単な話ではないだろう。結局、銭を掴まされて終わりという事もある。

 最近になって、〔唯才是挙〕を掲げているが、夜須藩はそもそも身分の別が厳しい家風である。譜代の栄生家臣と降伏した敵家臣、そして武士と百姓、町人の差は厳格なのだ。過去、身分の格上げが無かったわけでもないが、激しい嫉妬や侮蔑に晒されたというし、辞退する者もいた。


(さしあたり、帰国だけでよしとするか)


 それにしても、姉谷倫言とはまた奇妙だった。

 この男は、佐幕派の公家であるのだ。激しい異国嫌いで攘夷論者ではあるのだが、朝廷では幕府の意を受けて働いていた事がある。丑之助も、亦部の護衛で、親しそうに話す姿を何度も見掛けた。


(まぁ、俺にゃ関係の無い事だが)


 それに驚きもしない。八年という京都での歳月が、丑之助をそうさせた。

 昨日の友は今日の敵。また、逆も然り。それが魔都の日常風景だったのだ。

 それから、詳しい話を亦部の側近を交えて話した。決行は今夜。火急の事態らしい。その理由を、亦部も側近も語らない。丑之助を犬侍と侮り、便利な人斬り包丁としか思っていないのだ。


(ふんっ)


 もう丑之助には、そうした者共を相手に、一々腹を立てる気は無かった。

 お里とお菊がいる。それだけでいいし、必要なのは、報奨金なのだ。

 丑之助は手付金を受け取ると、早々に藩邸を出た。

 京都の町には、生ぬるい風が吹いていた。暑くも寒くもない。ただ、肌を舐めるような不快さだけがある。


(まるで、京人きょうびとの人柄のようだ)


 丑之助は、京都が嫌いだった。夏は暑く、冬は寒い気候もだが、その民情も合わない。いつまでも夜須訛りが取れぬ丑之助に対し、見下すように接する。都の民という誇りがあるのだろうが、それが一々癪に障る。


(しかし、その京都ともおさらば出来る)


 その為には、姉谷倫言を必ず始末しなくてはならない。

 暗殺のお役目は、一年振りだろうか。久しくしていなかったと思う。

 その間、人を斬っていないわけではない。亦部を狙っていた不逞浪士を始末したし、京都町奉行に加勢して、賊徒の討伐も行った。

 心はいつも通りだ。久し振りだが、浮いた感じはしない。平常心。それが、刺客として丑之助が気を付けている事だった。

 この八年。多くの死を見てきた。その中で学んだ事は、心を乱した者は往々にして死ぬという事だ。

 今は死ねない。かつては死なないから生きていたが、お里やお菊がいる今、そう思う事はない。

 帰宅すると、お里がお菊を寝かし付けていた。昼下がりである。午睡の時間なのだろう。


「今、眠ったところなの」


 と、お菊の横で寝ていたお里は、身を少し起こし、声を殺して言った。


「すまん、すまん。今日は遅くなるからな。帰れんかもしれぬ」


 丑之助も声を抑え、そのまま寝てろと、手真似をして踵を返した。

 お里は、丑之助の役目を亦部の護衛だと思っている。事実、人斬りの役目を偽装する為に、そういう役目にはしてもらっている。だが、それは表向きの事だ。

 お里は、自分の夫が人斬りだという事実を知らない。そして、今後も言うつもりはない。お里には、人斬りとは関係のない場所にいて欲しいのだ。そして知らないからこそ、お里の前では、人斬りではない素の自分でいる事が出来る。

 それから丑之助は、亦部に指示された弁才天町の蕎麦屋に入った。

 土間席の隅に陣取ると、手代風の男が向かいの席に座った。


「よう」

「一年振りですね」


 この男は、夜須藩が抱える忍びである。目尾組に属し、主に密偵として動いている。


「調子は?」

「お陰様で」


 そうしている内に、盛り蕎麦が運ばれてきた。

 暫く二人して、蕎麦を啜った。


「今夜、狸が長谷川の穴に招かれたそうでしてね」


 狸とは二人の間で使われる言葉で、標的を意味している。長谷川とは西町奉行の長谷川宜勝の事だろう。一々様だの殿だのは付けない。そして穴とは屋敷、つまり西町奉行所の事だ。


「ほう、狸がねぇ」

「その帰りって事ですよ」

「なるほど」

「蠅は五匹って感じでしょうかね。まぁ、中々強情な蠅のようですよ。ぶんぶんと」


 丑之助は頷いた。

 どうやら護衛は五人。それなりに使えるらしい。


「では、あっしは」


 盛り蕎麦を一枚空にして、男は席を立った。


「もう帰るのかい?」

「へぇ、国へ帰る事になりやして」

「ほう、そりゃよかったな。じゃ、今日でしめぇか」

「そのようで」

「なら、此処のお代は俺が持とう。餞別だと思ってくれ」

「へへ。恩にきりやす」


 男が店を出る、その背を丑之助は見送った。


「夜須か」


 羨ましい。しかし、もうすぐ俺も帰る。その時は、お里とお菊も一緒である。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 足元に転がった姉谷の骸を、丑之助は頭巾越しに眺めていた。


(終わった……)


 これで、夜須に戻れる。全てがこれで終わったのだ。

 京都所司代千本屋敷裏の通りである。時刻は夜四つである。

 姉谷の側には、五つの骸。彼に従う地下人じげにんや、護衛の武士である。全て、一息に斬り捨てた。

 それから亦部に言われた通り、紙切れを一枚を姉谷の骸の上に置いた。

 そこには、〔天誅〕とだけ書いている。


(そういう事か)


 不逞浪士の犯行に、偽装させるのか。きっと幕府内で、尊王論者の姉谷は邪魔だったのだろう。

 丑之助は、佩刀である同田貫恒国どうたぬき つねくにの刀身に付着した血脂を、鞣した鹿革で拭き取ると、その場を足早に立ち去った。

 表通りに出ると、頭巾を取った。

 傷はない。返り血も浴びていない。手筈としては完璧である。

 それから、丑之助は夜道をつらつらと歩いた。

 もう夜は深い。遠くでは、犬の遠吠えだけが聞こえる。

 丑之助は、夜目が利いた。それはきっと、母の血であろう。産後の肥立ちが悪くて亡くなった母は、山人やまうどの娘だった。

 村に獣肉や山菜を売りに来る山人の妹と、父は恋仲になり、結ばれたのである。

 伊川郷士と山人の子。その特殊な血脈も、丑之助を苦しめた。

 しかし、それは遠い昔の話。既に終わった事だった。

 ふと、丑之助は足を止めた。

 六角通。傍には牢屋敷や小さな家屋が肩を寄せ合うだけで、この時刻には町は眠ったように静かだった。


(敵か……)


 殺気か全身を刺した。

 敵は、何人か。五人やそこらではない。十人はいるだろうか。

 丑之助は、同田貫恒国の鯉口を切った。

 闇の奥から、何者かがぬっと姿を現した。その数、十二。全員が、頭巾で顔を隠している。


「何者だ」


 丑之助が問うと、


「天誅……」


 と、だけ言葉が返って来た。


「敵だな」


 そうとだけ、思った。刺客が何者なのか? 考えるのは後回しだ。まずは、生き残る事。今の俺は死ぬわけにはいかん。

 十二人が一斉に刀を抜く。それと同時に、丑之助は踏み込んでいた。

 刀を奮う。血が奔騰した。闇夜の闘争は慣れている。相手はどうか。斬撃に迷いがある。剣術は出来るが、殺し合いには慣れていないようだ。

 小さな傷を受けた。三つ。四つ目を浅く鬢に受けた時、最後の一人の頭蓋を両断していた。

 気が付けば、辺りは血の海だった。それでも、六角通は寝静まっている。いつもこうだ。街中で斬り合いが怒っても、京人は息を殺して見て見ぬ振りをしている。関わらないよう、止めもしないし、自身番へ走りもないのである。


(だから嫌いなんだよ)


 丑之助は大きな溜息を吐き、骸の一つの側へ行った。

 頭巾に手を掛ける。顔。露わになる。衝撃に肺腑を突かれた。

 西島喜三郎にしじま きさぶろう。同じ夜須藩士であった。別の骸に駆け寄る。頭巾を毟り取る。北川藤次きたがわ とうじ。もう一人、佐山十次郎さやま じゅうじろう梁田宗兵衛やなだ そうべえ。全員、夜須藩邸の同僚だった。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 駆けた。

 肺が潰れそうになったが、構わず駆けた。

 お里。お菊。駆けながら、その名を唱えた。

 自宅が見えて来た。その前。五人。武士がいた。こちらを見てか、慌てて刀に手を掛けた。

 丑之助も抜く。邪魔だ。一息で斬り伏せた。

 戸を開ける。暗闇。静寂だった。

 お菊。板張りの上で、仰向けになっていた。抱き上げる。首がおかしな方向に曲がっていた。

 その奥。襖を勢いよく開けた。

 両手を縛られ、凌辱されたお里が、布団の上に転がっていた。


「おい、お里……」


 丑之助は、無残なお里を抱き起こした。息は無い。首を絞められた痕跡があった。


「お里、お里よう」


 咆哮した。涙が不思議と出ない。しかし、血が逆流するような、激しい怒りがあった。


「おのれ……」


 亦部。そして、利景。いや、夜須藩。

 許さぬ。

 丑之助は立ち上がると、ふらふらと歩きだした。夜須藩邸へ向かって。

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