間隙 人斬り丑之助(前編)

 目が覚めると、娘の顔が目の前にあった。

 そして、頬に小さな手が触れ、声を挙げて笑う。


「お菊、もう少し寝かせてくれてもいいんじゃねぇか」


 堂島丑之助は、一歳と半になる我が娘相手に苦笑し、布団から身を起こした。

 京都。六条通り沿いにある夜須藩邸からほど近い、小さな一軒家。朝だった。


「とと、とと」


 お菊が喃語なんごを繰り返している。最近、ようやく言葉と判るような事を話すようになっていた。歩くようになると、今度は走り出す。危なっかしくて目が離せないが、初めての子である娘の成長が、丑之助は日々の楽しみになっていた。


「今日もお前は、朝から元気だな」


 と、抱き上げる。そうすると、台所の方から良い匂いが漂ってきた。


「さては、かか様が朝餉を拵えているな」


 娘と共に台所に顔を出すと、妻のお里が猫の額ぐらいの台所で、せっせと朝餉の支度に追われていた。


「あら、随分と優雅な寝起きでございますね」

「朝一で皮肉かい、かか様よう」

「まさか、そう聞こえました?」

「昨夜は遅くなってしまったのでな」

「お役目ですもの、仕方ありませんよ」

「まぁ、これが武家の務めって奴さね」


 昨夜、丑之助は上役である京都留守居役の亦部忠左衛門またべちゅうざえもんの警護で、二条城へ同行していた。亦部はそこで、禁裏御守衛総督の今川範用いまがわ のりもちや京都所司代の久世広義くぜ ひろよし、そして京都奉行の長谷川宜勝はせがわ のぶかつらと、遅くまで話し合っていたのである。当然、丑之助のような軽格の者には、その内容など知る由もない。が、おおよその想像は付く。いや考えるまでもない。この二十年の間に京都を中心に繰り返されてきた、陰謀劇の一幕に違いないのだ。

 京都に身を置いて八年。丑之助が夜須を出たのは、幕府が二つに割れた清水徳河騒動も末期の事だった。

 当時の京都は、宝暦一件から続く幕朝の対立の余波を受け、胡乱な浪士が闊歩する退廃の魔都だった。そうした現状を憂いた幕府は、夜須藩などの譜代諸藩に命じ、治安の回復を図ったのである。

 丑之助は、そうして夜須から駆り出された一人だった。

 生まれは郷士。武士でありながら城下で暮らす事を禁じられた、〔伊川郷士いがわごうし〕である。

 伊川郷士とは、戦国の御世に夜須を支配していた伊川氏の遺臣を祖とする者の身分である。名字帯刀を許され藩卒はんそつとして任用されているものの、その性質や暮らしぶりは百姓と然程変わらない。むしろ、年貢を取り立てられ、かつ公務があれば駆り出される分、貧しく厳しい生活を強いられる事が多かった。

 丑之助の家も、例にならって貧しかった。早くに両親が死んだからである。しかし、その自分を助けたのは、祖父から仕込まれた剣だった。

 祖父は、誇り高い武士であり、強い剣客だった。伊川郷士という負い目が、祖父を誰よりも強く自分に厳しい武士になろうと駆り立てたのだろう。丑之助は祖父の期待に応え、有り余る元気と膂力りょりょくを剣術に捧げた。そして、十五の時に曩祖八幡宮のうそはちまんぐうで行われた奉納試合で、八人抜きを達成した。褒美として城下の道場への入門が許され、そこで更なる才能を開花させ、メキメキと頭角を現していった。


「犬侍」


 伊川郷士を侮辱する言葉で蔑まれても、丑之助は耐えた。全ては、育ててくれた祖父母に、楽な暮らしをさせてやる為。耐えに耐え、気が付けば師範代の一人になっていた。

 そうした頃だ。藩庁からの役人に声を掛けらてたのは。


「その剣を、天下国家の為に使わないか」


 そう言われた。給金もいい。武功を挙げれば、身分も上げてやるとまで。その誘いを、丑之助は快諾した。

 京都では、来る日も来る日も、人を斬った。そうしなければ、死んでいたから。次第に浪士狩りより、要人の暗殺を命じられるようになった。

 思想は無い。佐幕やら勤王やらと、考えないようにしていた。言われた人間を、ただ斬る。それだけに努めてきたのだ。

 斬れば、褒められた。そして、銭を与えられた。始めは犬侍と蔑んでいた連中も、何も言わなくなった。この俺に怯えているのだと思うと、いい気味だった。

 しかし、荒れた。殺しの報酬は、女と酒、そして博打に全てが溶けて消えた。元より、見た事もない大金である。使い方が判らなかったのだ。始めのうちは祖父母に仕送りしていたが、それも次第に面倒になり止めた。

 気が付けば、暗い闇の中いた。もがいても、もがいても沈んでいく、血臭で噎せ帰る底なし沼。それは、一条の光すら無い日々だった。

 唯一の期待が、藩主・栄生利景が打ち出した、〔唯才是挙たださいのみこれあげよ〕だった。才能があれば、身分に捉われずに登用する、画期的な人事制度だ。実際に、添田甲斐や相賀舎人など、身分が低い者が執政府に加わり、利景の幕僚になっている。それに伊川郷士の中でも、農学に秀でた者が、重役に登用された事もあった。


(自分には剣術がある。その実績は京都で示している)


 いずれ声が掛かるものと、丑之助は確信していた。ここまで、藩の為に命を投げうって尽くしたのだ。あの英明と名高い利景公が、見ていないはずはない。

 そう思っていたが、待てど暮せど、藩庁からの沙汰は無い。そうしている内に次々と殺しを重ねていき、怒り焦り絶望し、〔唯才是挙〕など忘れてしまっていた。

 そうした中で、出会ったのがお里だった。

 零落した武家の娘で、夜須藩邸に奉公に上がったばかりの女だった。誰も相手にしない丑之助に、無垢な笑みを浮かべて話し掛けてくる。それも無防備にだ。はじめは適当にあしらい、次に邪険に扱った。しかし、お里は変わらない。酒気を漂わせていると、本気で叱るのだ。その理由を問うと、


「あたしの父も、飲んだっくれですから」


 と、笑った。

 世界が一変した。この女の為なら死んでもいい。そう思うようになると、酒も女も博打からも足を洗った。底なし沼から腕を掴まれて、救い出された心地だった。

 殺しの役目は続いたが、その報酬は遣わずに貯め込んだ。そしていつしか男女の関係になり、夫婦になった。丑之助は二十七、お里は十九だった。


(お里には足を向けて寝れぬな……)


 お菊を膝の上に座らせ、小さな庭を眺めた。

 お里が植えた、海老根エビネが黄色の花を咲かせている。

 丑之助は好きでも嫌いでもないが、お里は日陰にあっても力強く花を咲かせる海老根が好きらしい。


「とと、とと」


 お菊が、丑之助の耳に手を伸ばした。


「痛いぞ、お菊。痛いと言うておろう」

「とと、たい、たいの」


 お里には、感謝してもしきれない。俺の心を満たし、お菊を産み、こんなにも温かく平穏な日々を与えてくれたのだから。

 そんなお里に、いつか見せてやると約束していた。夜須の故郷を。育ててくれた祖母を。

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