第五回 腑抜け(前編)
「ふむ。ご苦労であった」
夜須城二の丸に設置された、郡総代所の一間。雷蔵はその中でも、猪俣の御用部屋に通されていた。
「気になる所は無いが」
郡総代奉行とは、各郡に置かれた代官を統括する役職で、執政府の一員である。日々、各郡の統治に目を配らせて管理し、郡を跨るような問題が起きれば、代官衆を号令し、その指揮を行う事が役目だ。
所謂、父の上役である。月に一度こうして藩庁へ出頭し、内住郡内の様子をまとめた日報を猪俣に提出しなければならない。報告書には、その日に起きた事が克明に記されている。それこそ、農事から治安に関する事全てである。こうした事は、利景の代から始まった事で、指示するだけではなく提出された報告書は、殿様自ら全て読み込んでいるそうだ。
報告書の提出は筆頭与力の磯田の役目だが、二日前から感冒で寝込んでいるので、雷蔵はその名代だった。
(気が紛れるからいいか)
城下への遣いは億劫だが、今回ばかりは歓迎である。
あの日以来、雷蔵の脳裏には眞鶴の顔が浮かんでは消え、代官所の下働きにも根が入らないのだ。父の顔を潰さぬようにと、指南役の下役の指示を無難にこなしてはいるが、どうも邪念が入る。
もう一度会いたくて、夢にまで出て来てしまう有様だ。そして、気が付けば淫らな妄想に耽ってしまう自分を嫌悪する。
「ほう」
雷蔵の思念を引き戻すように、猪俣が一声を挙げた。
「水茶屋で破落戸が暴れ、お前が自ら懲らしめたそうだな」
「偶然通りがかりましたので」
「なるほどのう。しかし、中々出来る事ではない。かく言う私も見て見ぬ振りをするかもしれぬ。何せ相手は三人だ」
と、苦笑した。
猪俣は、父より一つ年下の男だった。肥えていて、頭髪は薄い。見掛けは鷹揚としているが、中々鋭い所があるらしい。会うのは三度目になるが、雷蔵の目には辣腕官僚のようには見えない。だが、かの利景が選んだ人材なのだから、無能なはずはないのだろう。
「流石は、建花寺流。清記殿のお子というわけか」
「……いえ、相手に恵まれただけにございます」
「まぁ、相手は三人。しかも大の大人だ。誇ってもいいだろうよ、小弥太。いや、元服し雷蔵と名を改めたそうだな」
「はい」
「父上には似ておらんなぁ」
「母親に似ている、と言われます。私は母を知らないので、実感はありませんが」
「母親。そうか、志月殿か。言われてみれば、瓜二つだ」
猪俣が遠い目をして頷いた。
「母をご存知なのですか?」
「ああ。儂は清記殿の祝言の場に居たからのう。もう、かなり前の話だ」
猪俣の父も郡総代奉行だったらしく、その縁で呼ばれていたと説明した。
「色々あった。先代の
あの時。それは、奥寺家が起こした不祥事の事だろう。知りたいという気持ちはあるが、父の上役である猪俣に、しかも〔苦々しい思い出〕と言っている手前、到底訊けるはずはない。
「話が長くなったな。全く、清記殿は毎日精励されておる。内住に於いては問題無しじゃ」
雷蔵は平伏し、御用部屋を辞去した。
それから、勘定方と勝手方に顔を出した。代官所で使用する物資は、郡総代所から支給される。その申請をしたのだ。これも父の言い付けだった。
いつもは磯田の役目だからか、係の下役は雷蔵を一瞥して訝しんだが、清記の息子だと名乗ると急に愛想がよくなった。次期代官。それと判ると、態度を改める。何とも現金なものだ。
郡総代所を出ると、周囲が騒然としていた。
二の丸に敷かれた玉石を踏みしめながら、向かいの道を若い男が歩いてくる。取り巻きもいる。雷蔵は、
「ご中老だ。脇に控えろ」
と、見知らぬ武士に袖を引かれた。
「中老?」
「相賀舎人様だ」
雷蔵は得心し、脇に控えた。
相賀舎人。目もくれずに、目の前を通り過ぎていく。三十路ほどの年格好。色白で身体の線が細く、学者風の雰囲気がある。寸分の乱れもない着物の着こなしに、度を超えた神経質さが出ていた。
この男が真崎と秀松にいた、あの相賀舎人。そして、あの陰謀を仕組んだ男。夜須でも指折りの策士で、切れ者。利景が信頼し、父すら認めている。しかし、勤王党に襲われ、自分が助けなければ死んでいた男でもある。
(どうも好きになれそうにない)
自分の才を鼻にかける。そうした性格が、ありありと表情に滲み出ている。こうした手合いが、最近夜須に多い。それは、利景が〔
「お前、相賀様を知らないのか」
相賀が通り過ぎると、男は立ち上がって言った。雷蔵は、それに頷いて応えた。知っているが、言葉を重ねるのが面倒だった。
武士は若い男だ。だと言っても、自分より年上ではある。自分にはない、溌溂さを感じた。
「どのようなお人なのでしょう?」
「さて。私もよく知らぬが、お殿様の片腕として実務を取り仕切る御方だ。性格は多少難しい所があるが、藩にとって大切な人材であろうな。今、藩が力を入れている地蔵台の開墾も、相賀様の発案らしいぞ」
「あの地蔵台の開墾は、相賀様の発案なのですか」
「そうだ。発案だけでなく、自らの足で歩き、色々と算段したというぞ」
思ったより骨がある男かもしれない。この武士が言う事が本当ならば。
「過去何度も失敗した開墾だ。成功したら相賀様の名声は、首席家老の添田様を超えるだろう。その時は、藩内が揺れそうだが」
そう言うと、男は
「では、な」
と、踵を返した。
雷蔵は、武士の名前を訊こうとも思ったが、そうするまでもない男と思い直し、その背を見送った。
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