第一回 初陣(後編)

 不意に気配を察し、雷蔵は顔を上げた。

 闇の中から、人の姿が浮かび上がった。忍び装束。顔は頭巾で隠し、目だけが露わになっている。雷蔵の手は自然と刀に伸びていた。


「おっと、そいつは俺に向けるもんじゃないぜ」

「そう言うあなたは?」


 雷蔵は熱感の無い声で誰何すると、影は


目尾しゃかのお組の今井小忠太いまい こちゅうたってもんだ」


 と、名乗り、頭巾を解いた。

 のっぺりとした、特徴の無い顔だった。まだ若い。歳は二十歳そこそこぐらいか。


(この男が、相棒か)


〔目尾組〕とは、夜須藩執政府直属の忍びである。執政府の下で諜報や工作に従事する他、御手先役の補佐も請け負い、今回の勤王狩りには志士に化けて潜入もしている者もいるという。

 それ以外に、雷蔵は目尾組について何も知らない。僅かに、伊賀流を祖にしているという事を、父に聞かされたぐらいだ。雷蔵は父の仕事に付き従う上で目尾組の忍びと何度か接した事があるが、自分が目尾組を使うのは、今回が初めてだった。


「忘れたって言わせねぇよ」

「忘れました」

「へっ。案外鈍いな、お前」

「必要のない情報は、忘れる事にしていますので」

「ったく、お前は失礼な奴だな」


 すると、小忠太は鼻を鳴らした。


「辻村だよ。宇美津で顔を合わせたろう」

「ああ」


 求馬の側にいて、欺いていた男だ。雷蔵の記憶には、それだけしかない。会ったのは、海辺での一度っ切りである。


「私には判りませんでした」

「そりゃ、俺は変装も忍びの術の内だからね」


 確かにそう言われると、顔の印象は随分と違う。化粧などで変化へんげさせたのだろうか。忘れたわけではなく、別人と思っても仕方のないほどである。


「まぁ、世間話は置いといて……」

「協力者から合図があったのですね」


 雷蔵が、間髪入れずに言うと、小忠太は仕方がないという表情を浮かべた。


「お、おう。真崎がもうすぐ店を出る。早く用意しな」


 雷蔵は頷いて立ち上がると、格子戸から外に目をやった。

 料亭、秀松。店先に店の男女が並んでいる。見送りだろう。程なくして、身体の大きな男が現れた。


「あれが真崎ですね」


 確かめるように訊くと、小忠太が深く頷いた。

 真崎惣蔵。間違いない。その堂々として貫禄がある体躯は、遠目からでも一目瞭然だった。その真崎の側に、二人の男がぴったりと付いている。


「あの二人は、引地鶴弥太ひきち つるやた大町貞三おおまち ていぞう。どちらも使い手だ。何人か斬った経験がある」

「そのようですね」


 二人は下士であるが、尚武塾の龍虎と呼ばれるほどの使い手と知られていた。だが、この三人の中では、光当流の免許を持つ真崎自身が最も手強い相手だと、雷蔵は見ている。

 父にも、


「真崎惣蔵だけには気を付けろ」


 と、注意された。


「雷蔵さんよ。お前さんの腕前についちゃ心配はしていねぇ」

「……」

「まぁ求馬に敗れたと言え、並みじゃねぇってのは俺でも判る。だが、気持ちの方はどうなんだい? 親父さんに聞いたが、塞ぎ込んでいるそうじゃねぇか」

「父に?」


 そう訊くと、小忠太は頷いた。


「自らの無力さを痛感していますよ。それなりには強いのだとは思いますが、自信がありませんね」

「自信ねぇ。そいつは、真崎を殺って取り戻すしかねぇわな」

「私もそう思います」

「ま、俺が手助けしてやるよ。親父さんにも言われた事でもあるしな」


 小忠太は薄ら笑みを浮かべながら、雷蔵の肩を叩いた。


(この男とは合わないな……)


 父が組んでいる目尾組の男は、腰が低く無礼ば口を叩かない。如何にも忍びらしい佇まいがあるのだが、この男はどうやら違う。しかし、何故に父はこんな男に自分の事を頼んだのか。

 三人の姿が、闇に消えた。そして、店の者が引き上げたのを見計らい、雷蔵と小忠太は裏口から外に出た。


「此処から先の同道は無用願いたいのですが」


 そう言うと、小忠太は表情を曇らせた。

 忍びは、一通りの武芸を身に付けてはいるが、それは身を守る為の最低限のもので、一端の剣客と張り合う腕はないと、雷蔵は思っている。


「俺が自信を取り戻させようって言ってんだ。さっき聞こえなかったのか?」

「だから、その答えを否と申したのです」

「親父さんにも頼まれたんだぜ?」

「その儀については、私から父に申し上げますので心配なく」


 すると、小忠太はあからさまな舌打ちをした。


「お前さんが、そう言うんじゃ仕方ねぇな。俺は陰から見せてもらうぜ」

「私の監視ですか?」

「それを言わすのかい?」

「冗談です。お互いの立場というものもある事は承知しています。邪魔させしなければ、私は構いません」

「すまんね、これも稼業の内だ」


 小忠太はその言葉に頷くと、踵を返し闇に消えた。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 一人になった雷蔵は、路地裏を縫って進み、大通りに出た。遠くに三人の姿。距離としては二十歩は離れているであろう。

 分弁町の緩やかな坂道を、一定の距離を保ちながら追う。それはまるで、獲物を追う狼にでもなったようだと、雷蔵は思った。


(ならば、あの三人は兎かな)


 先頭に、提灯を持つ引地。真ん中が真崎で、後ろが大町。中でも、大町が思いの外に敏感な男だった。何度も、こちらに気付きそうになったのだ。


(中々どうして……)


 雷蔵は、嘆息して闇に身を隠した。

 計画では、この先にある橋の袂で襲撃する算段をしている。ここで襲うのは簡単だが、後の計画の事を考えれば、それはまだ早い。

 分弁町を抜けると、波瀬川の支流に行き当たった。常夜灯がぽつぽつとあって、淡い光を放っている。

 雷蔵、用意した頭巾で顔を被った。誰にも面相を知られてはいけない。これも重ねて言われた事だ。

 暫く歩いた。三人の目的地は、この橋を渡った所にある。真崎が城下で泊まる際に使っている別宅が、そこにあるのだ。

 程なく、橋が見えた。襲撃の予定場所である。


(あれだ)


 と、思うと同時に、何の逡巡もなく雷蔵は駆け出していた。

 走りながら、無銘の刀を抜く。

 まず始めに振り返ったのは、最後尾の大町だった。

 すれ違う。雷蔵の目が捉えたのは、


「しまった」


 と、言いたげな大町の顔だった。

 雷蔵は声も発さずに、無銘を袈裟斬りに振り下ろした。


(まず一人)


 確認はしなかった。命を奪った事は、手に伝わる感触で判る。


「貴様」


 引地が、提灯を投げ捨てて前に出た。

 抜き打ちが来る。鋭いが、大振りだった。これを風のように、ふわりと躱した。

 小手。下段から斬り上げた。引地の、刀を持ったままの両手が飛んだ。


「何者」


 訊かれる前に、引地の頭蓋を断った。

 引地が倒れると、その奥に抜刀した真崎が立っていた。


「刺客かね」


 真崎は落ち着いた口振りだった。流石という貫禄がある。五歩ぐらいの距離はあるが、その体躯から発せられる圧力を、雷蔵は強く感じた。


「若いな」

「……」

「目で判る。君ぐらいの背格好だと十五かそこだろう」


 雷蔵はこの春で十六になっていた。だが、何も応えず、無言で下段に構えた。得意な構えである。


「いずれこうなる事は、想像していたが」

「何故」


 思わず聞いてしまった。


「藩庁は佐幕一色であるからな。今、あの時に脱藩していれば、と後悔はしているが」


 あの時、というものがいつの事であるか、雷蔵には判らなかった。きっと真崎の中では、契機となった時があったのだろう。


「脱藩した者は、全て始末しました」

「なるほど。話には聞いていた。御手先役とは、君だったか」


 雷蔵は頷いた。


「すると、残りは私だけかな」

「真崎殿を斬れば、全てが終わります」

「全てか。さて……それはどうだろうか。我らが志は胞子なって本邦に散り、いずれ芽を出す。我らの子達が、田沼……いや幕府の命脈に終止符を打ってくれるだろう」


 雷蔵は返事の代わりに、抑えていた殺気を解放した。


「所詮、君は物を考えぬ道具か」


 真崎は、溜息を吐いた。そして構える。堂々とした体格や精神性を表すような、端正な正眼である。

 雷蔵は生唾を飲み込み、一歩前に踏み込んだ。

 目の前に、真崎の切っ先があった。

 斬光。思ったよりはやい。それを、躱す。返す刀で、また斬撃が伸びてくる。それも後方に跳ぶ事で避けた。

 多少は、出来る。だが真崎の剣には、穢れが無い。剣は道場で学び、その術だけで戦ってきたかのような印象がある。

 俗に言う、道場剣術。少なくとも、自分のように山賊の砦に斬り込み、乱戦を経験した剣ではない。

 確かに、父が注意しろと言う気持ちも判る。しかし、自分がこの程度の相手に苦戦すると思われていると思うと遺憾だ。


(俺は、ここまで弱くはない)


 裂帛の気勢と共に、突きが来た。

 一つ、二つと弾きながら、雷蔵は押し込まれる振りをした。


「やるな」

「……真崎殿も」

「だが、ここまでだ」


 真崎の氣が炸裂した。足を踏まれた。痛がる振りをした瞬間に、上段からの斬り下ろしが見えた。そこに、生じた隙。

 よし。罠に掛かった。この瞬間を、待っていたのだ。

 これで決めようと欲目を出した分、大振りになったのだろう。

 雷蔵は、迷わず跳躍した。

 落鳳。

 跳躍し、全体重を乗せて渾身の斬撃を与える、念真流秘奥の一つ。

 雷蔵の無銘刀は、頭蓋ではなく右の首筋を捉えた。そして、角度をやや変えて振りきった。


「なんと」


 耳元で、そう聞こえた。

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