第四回 海

 宇美津奉行所へ出仕した。

 郷方村廻り検見役は、三日に一度の奉行所務めが定められ、あとはひたすら村々を歩き廻るのが役目である。求馬は非番を挟んだので、これが三日振りだった。

 奉行所は海の傍にあった。その造りは堅牢で、小藩の陣屋ほどの規模がある。元々は、さる水軍大将の海城だった。それを改装して奉行所にしたというが、そうなるに至った経緯は知らない。

 奉行所の大手門で、宿直とのいだった藩士達とすれ違った。軽く会釈をして通り過ぎる。会話は特に無い。それは郷方の御用部屋に入っても同じだった。上役や同僚に、僅かばかりの挨拶を義務的に交わすだけである。

 奉行所内に、親しい友はいなかった。そうした付き合いは煩わしいと思っているし、罪人の息子を友にしようとする物好きなど、そもそもいない。

 自分の席には、処理すべき書類が山積みにされていた。求馬は村々を歩いて監督する外勤ではあるが、それでもこうした仕事が全くないわけではない。


(それにしても、この量は)


 と、求馬は少し溜め息を吐いた。久し振りの出仕であるから仕方ないとは思っても、流石にこの量を見ると愚痴の一つでも言いたくなる。


(だとて、働いていた方がましか)


 勤めに励んでいれば、私事の悩みを忘れる事が出来る。

 潮騒に耳を傾けながら、書類を一つ一つ片付けた。郡方の御用部屋は、建物の中でも一番海に近い。窓からは、鈍色の海が望めるほどである。


(またか……)


 書類の中に自分の職分ではないものが入っていた。きっと、処理が面倒なものを、何者かが紛れ込ませたのだろう。求馬は呆れながらも周りを見回しすが、誰も目を合わせようとしない。薄ら笑いだけが、どこからか聞こえてくるような気がした。


(情けない奴等だ)


 求馬は、侮蔑した視線を浴びせた。そうする事で、些か腹も収まるというものだ。

 溜まった書類を一刻ほどで仕上げ上役に提出すると、


「お前とあろう者が、期限はとっくに過ぎておるではないか。いくら役目柄仕方ないにしろ、仕事は時間を考えてやるものだぞ」


 と、思わぬ叱責を受けた。それは、自分の職分にはない書類だった。


(なるほど)


 意図が見え、求馬は鼻白んだ。紛れ込ませたのは、処理が面倒だからではなく、上役に叱責を受けさせる為なのだ。求馬は同僚の評判は悪いが、上司からは生真面目な仕事ぶりが評価されている。それを妬んでの事だったのだろう。

 腹立ちはあったが、


(路傍の糞を相手にしても仕方ない)


 と、求馬は何も言わずにこうべを垂れ、同僚の視線を浴びながら席に戻り、また別の仕事に取り掛かった。

 明日からの村廻りの準備である。最近では、治安の維持が目下の懸案事項だった。

 ここ半年で、賊による追い剥ぎが十五件も起き、十二名が殺されているのだ。中でも、求馬が受け持っている地域では、三件発生し四名が犠牲になっている。こうした賊への対応は郷方全体の問題であるが、受け持っている地域で続発すれば責任問題に繋がるだろう。

 求馬は、一枚の人相書きを取り出した。

 角ばった顔に、海苔のような太い眉。眉間には刀傷があり、鼻の下に髭を蓄えている。

 西谷義一郎にしや ぎいちろう。中年の浪人で、賊の首魁とされている男である。手下は四人ほどと推定しているが、正確な人数までは掴んでいない。

 求馬は、宇美津近郊の地図を開いた。事件が起こった場所が、朱墨で記されている。何となく、指でなぞった。そうした所で、何かが見えてくる事もある。

 この西谷義一郎は、悪名高い土鮫の一味とされていた。

 土鮫は、安岡文吾を頭目とする山賊である。鵙鳴山を本拠とし、関東全域を荒らしている。


(討伐するなら、さっさとしてしまえばいいのだ)


 と、この問題を考える度に、腹立たしくなる。

 だが幕府は、旗本領や寺社領が入り組んでいるからと腰を上げない。真偽は不明だが、賊と裏取引をしているという噂まである。


(やはり、幕府では駄目だ)


 朝廷が政治の頂点にあり、全ての土地が朝廷のものという古式に戻せば、こういう事態は起きないのではないか。土地を細分化するから、面倒な事になる。

 正午の鐘が鳴った。昼餉は、芳野が拵えた弁当である。飯に梅干し、芋とメザシが入っていた。

 他の者は席を離れ世間話でもしながら食べるが、求馬は自らの席に着いたまま黙々と腹に収めた。共に食べる相手もいなければ、食べたいと思う相手もいない。むしろ、一人が心地よくもある。

 午後からは、村廻りに同行する同僚と、二日間の村廻りについて打ち合わせを行なった。

 同僚と言っても、本藩から派遣されたばかりの見習いである。辻村彦太つじむら ひこたという名前で、年齢は求馬より少し若い程度だが、お茶汲みや使い走りばかりをさせられている。組むのはこれが初めてだった。

 辻村は、求馬の説明を面倒臭そうに聞いていた。普段から陰口を聞かされているからだろう。目の中には、求馬を軽んじる侮蔑の色がある。


(こいつも駄目だ)


 と、思いながら構わず続けた。辻村の態度は、最後まで変わらなかった。

 この日は、定刻で奉行所を出た。

 帰り道。一人、海沿いの道を歩いた。小さな漁船が、幾つも繋がれている。

 海面からは、黒い岩が突き出している。泊りには不向きの場所だった。岩礁が少ない整備された湊が別にあるが、藩の官船や商人が抱える船が独占し、貧乏な漁師はその場所を使えない。

 求馬は立ち止まり、沖に目をやった。白波が立っている。歩いている分にはそこまで感じないが、海上では別の風が吹いているのだろう。月が変わる頃には、この海も冬渚になる。

 この湊町に配されて、十余年。この海を好きだと思った事は、一度もない。

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