第三回 庄屋の娘

 求馬が慈恩密寺を辞去したのは、翌日早くの事だった。

 流石に眠かった。頭も身体も重い。昨夜は、結局夜を更かして語り合い、珍しく酒が過ぎてしまったようである。

 それは仕方ない。二年振りの再会ともなれば、積もる話もあれば、勤王派の情勢も知りたかった。それを肴にすれば、酒も進もうというものだ。

 しかし、予想外の話もあった。


(叛乱など無謀な企みだ)


 求馬はかぶりを振った。

 尚憲は、


「過去、滅びなかった権力はない」


 と、言った。

 そうかもしれない。だが、徳河家の威光は未だ根強く、幕権は衰えを知らない。戦国の世を征して幾百が経とうとしているが、その支配は揺るぎを見せないどころか、田沼の下で隆盛を極めようとしている。


(私は、怖気おじけづいているのだな……)


 その自覚はある。父を殺された。そのかたきのように、この世を憎んだ。勤王に傾倒したのも、そうした気持ちがあったからこそである。だが、尻込みしている自分を省みると、その志が偽りだと認めざる得ない。

 結局のところは怖いのだ。死ぬ事も、失う事も。


(だが、血が騒ぐのも事実なのだがな)


 幕府と戦う。それを考えただけでも、武者震いがする。父が腹を切った時から、権力に対して復讐する事だけを夢見ていたのも事実だ。


(ただ妻が……)


 芳野の存在が、行く手を遮っている。この気持ちに気付かないままであったのならば、こうも悩む事もなく、喜んで芳野を捨てたであろう。だが今は違う。愛しているのだと自覚してしまったのだ。


「選べぬ」


 思わず、口に出していた。

 悩もう。志か妻か。早々に結論を出せるものではない。幸い、尚憲が言ってくれたのだ。


「迷って当然だ。暫く、答えは待つ。むしろ、悩むだけ人間らしくなったという事だ。以前なら、迷わず妻女を捨てたであろう。それは人としての成長であり、私も喜ばしい」


 そうかもしれない。その分、悩み苦しんでいるわけであるが。


(兎も角、頼まれ事を済ますか)


 別れ際、尚憲に書状を手渡されていた。これは、町奉行所の山藤助二郎やまふじ すけじろうなる武士へのもので、急ぎではないので直接会って渡してくれと、言付かったのだ。

 急ぎではないと言われたが、この足で向かうつもりだった。仕事は早く済ませるの越したことはない。


(この男も同志なのだろうか)


 山藤助二郎という男を、求馬は知らなかった。もとより、人脈は広くない。尚憲には、船手方の与力とだけ聞かされた。船手方は、宇美津の湊で官船の差配や警備をする職分である。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 今山を降りると、築那街道ちくやかいどうに出た。

 この街道は、夜須城下から深江藩を横断し、新農にいの郡部こおりべそして珂府城下さらには宇美津の湊まで結ぶ、北関東の経済を支える物流の大動脈である。宇美津自体も商業価値の高い湊町であり、故に早朝にも関わらず街道の往来はそれなりにあった。

 その道を、綿の上を歩むような足取りで辿りながら、求馬は昨日の酒を後悔していた。下戸ではないが、そう飲める性質たちでもない。

 慈恩密寺から、宇美津までは歩いて半刻ほどの距離である。そう遠くないが、寝不足と二日酔いの重い身体では、それが妙に遠く感じる。


(あれは)


 足を止めたのは、宇美津に入る直前の事だった。街道の路傍。何かを囲む人だかりが見えた。


(何ぞあったか)


 と、野次馬を掻き分けて覗いてみると、二人の武士と腹を押さえて苦しむ老婆の姿があった。

 傍にいた行商が、二人の武士が親子だと言った。塗笠を目深に被っているので、面貌はよく見えないが、背格好からは親子ほどの年の差が見て取れる。

 父親が少年に何やら耳打ちすると、少年は老婆の前で膝を付き、言葉を掛けながら肩を叩いた。だが、老婆は悶絶していて答えない。相当な痛みなのだろう、額の脂汗は滝のようである。

 求馬は、二人の着物に目をやった。


(浪人ではないな)


 小袖。野袴。袖なしの打裂き羽織。親子が着ている着物は、どれも地味だが生地は立派なもので、浪人風情が袖を通せるものではない。

 一方、老婆は見るからに百姓だった。近郷の者であろう。求馬は郷方ではあるが、流石に一人一人の顔までは覚えていない


(それにしても)


 父親の武士が、妙に気になった。

 自然と佇んでいるのだが、放っている氣が常人とは違う。大らかでいて、深い。求馬は傍にいて、知らず知らず身構えてしまうものがあるほどだ。


(きっと相当な腕前の剣客なのだろう)


 求馬も父親仕込みの管亥流を使い、腕には自信がある。役目から賊や浪人を斬った事もあるが、これほどと思わせる者は初めてだ。立ち合っても、まず勝てないだろう。斬れると踏み出していたら、斬られている。きっとそうした芸当が出来る類の男だ。


「父上」


 その声は、はっきりと聞こえた。声は高いが、静かで、抑揚のない冷えたものだった。少年らしい溌剌さがない。

 呼ばれた父親が歩み寄り、素早く脈を取った。腹を押さえると老婆は顔を歪め、それを見て父親は表情を曇らせた。


「医者の所まで運ぶ」


 そう言うと、父親は自らの荷物を子どもに手渡し、老婆を背負った。


「誰か案内してくれぬか?」


 父親の思わぬ行動に、野次馬が驚いた。行き倒れた百姓に、ここまでする武士はそういないものだ。自分とて、そこまでする自信は無い。

 すると女太夫が手を挙げ、


「この近くにある村に、医者が住んでいるんでさ。あたいがそこまで案内しますよ。町より近いし、腕も確かな先生なんでね」


 と、告げた。


「判った。頼む」


 老人を背負った父親が、軽く頭を下げた。それもまた奇妙な光景だった。武士が非人身分の女に頭を下げているのだ。身分というものを気にしない男なのだろう。


「任せといてくださいな」


 それに気を良くしたのか、女太夫が御侠おきゃんに胸を叩くと、一行を導いて村があるという方角に消えていった。


(あのような武士もいるのだな)


 求馬は老婆を助けた親子を褒めつつ、そして見ているだけで手を貸さなかった自分を恥じた。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 宇美津に入ると、御徒町にある山藤の屋敷に寄った。だが歯が抜けた老僕が一人居ただけで、山藤は留守だった。


(早く済ませたかったのだが)


 そう思っても詮無き事である。山藤は夫婦二人で、大戸原おおとはらの八幡宮参詣に出掛けているそうだ。行き帰り、そして諸々の時間を含めると一日は要する行程である。


「直接渡して欲しい」


 と、言われた手前、老僕に託ける事も出来ない。


「明日、夕方にでもお伺いしよう」


 求馬はそう伝えるように申し付けて、屋敷を出た。

 求馬の自宅は、同じ御徒町の西隣にある三番丁にある。この辺りは、宇美津奉行支配下でも中級藩士が多く住まう。


「お帰りなさいませ」


 炊事をしていたのか、襷で袖を絞った芳野が、笑顔で出迎えてくれた。いつもの笑顔だが、何故か気恥ずかしくなり、慌てて芳野から視線を外した。

 妙に、胸が波立つ。今までは、全く気にも掛けなかった微笑みが、今日は妙に愛おしく見えてしまう。


「暫く寝る」


 求馬はそう告げ、芳野に背を向けた。このままでは、どうも調子が狂ってしまう。

 寝間では、布団が敷かれていた。朝寝をする事を見越し、芳野が敷いてくれていたのだろう。

 今までなら、


「妻として当たり前だ」


 と、済ませるところであるが、それが今では優しい心遣いに思える。

 求馬は、暫しその布団を眺めてから横になった。


(一眠りでもすれば、乱れた気持ちも落ち着くであろう)


 それからすぐに入眠し、目が覚めたのは陽が中天を過ぎた頃だった。酒焼けによる喉の強い乾きを覚え、台所に顔を出すと芳野が何やら拵えていた。


「あら、お目覚めでございますか?」


 振り向いて、そう言う。


「喉が渇いた」


 瓶の水を柄杓で飲むと、芳野が拵えているものを横目で覗いた。

 粥だった。薬草のようなものが入っている。何とも良い香りだった。


「ほう、粥か」

「昨夜はお酒を多く召し上がったのでしょう? 昼餉にどうかと思いまして」


 そう答えた芳野が、クスッと笑った。


「この青いのは?」

「薬草です。酒で疲れた胃に効用があるのです」

「これはお前の里で取れるものか?」

「ええ。そして、これは身体が温まるという木の実」


 芳野が、粥に茶色の粉を一摘み振りかけた。木の実を乾かし砕いたものだという。


「ほう」


 芳野は、料理が得意だった。毎日の食事だけは下女に任せず、全て一人で仕度をしている。実家が大庄屋と言っても、甘やかされず厳しく躾けられたという。今思えば、そうした所にも惹かれている自分がいる。

 居間に粥が運ばれた。


「なるほど」


 食してみると、胃の中が軽くなっていくのを感じた。そして、汗が出て身体が熱くなる。これが言っていた効用であろう。


「これはいい。味も悪くない」

「良かった。父もよく食べていたのですよ」

「ほう。義父おやじ殿は酒を好まれるからな」


 義父の徳衛門とは、月に一度ほど酒を呑む仲だった。婿としての義務、そして奉行所と大庄屋を繋ぎ止める為のものであるが、一緒にいて不快ではない数少ない男である。


「ところで、尚憲様はお元気でしたでしょうか?」

 芳野が、湯を差し出しながら言った。


「ああ。元気過ぎるほど元気だ。日焼けして色黒くなり、より逞しくなった印象がある」

「まぁ、そんなに」


 芳野が口を押さえて驚く。


「入道であるのにな」


 問題なのは、元気過ぎて叛乱まで企てているという事だ。

 それから、芳野が聞きたがるので旅の話を、かいつまんで話した。勿論、政事向きな話や叛乱に関わる事は除いた。それでも芳野は、目を輝かせて聞き入っていた。


「そんなに面白いのか?」


 そう問うと、芳野が力強く頷いた。


「私は宇美津を出た事がありませぬ。だから何でも珍しいのです」

「夜須にもか行った事がないのか?」

「はい。行く用事が無かったものですから」


 一片の暗さもなく答える芳野に対し、求馬は申し訳なさがこみ上げた。


「夜須でもいいなら、供をしてくれぬか。父母の墓参をしなければならぬ」


 ぽつ、と口を突いた言葉だった。


「えっ」


 芳野が驚く。それもそのはずで、今まで父母の墓参は一人で行っていたのである。芳野が行きたがっても、決して許さなかった。それは、父母の死が人に憚れるものだったからだ。また、心に沈殿する一番暗い部分がそこにあって、それだけは誰にも覗かれたくはないとも思っていた。


「本当でございますか」


 芳野が嬉々として言った。


「武士に二言はない」


 どうして、芳野にそんな事を言ったのか、自分でも不思議だった。ただ、墓参ぐらいで喜ぶ芳野を見ていたら、これで良かったと思えてくる。


「少し、汗を流す」


 求馬は木剣を手に、庭に出た。身体を動かしたいというより、無心になりたかったのだ。

 諸肌になり、大きく息を吐きながら正眼に構えた。そして、振る。十回二十回と振ると、大粒の汗が浮かんでくる。

 それでも無心には、なれなかった。考えてしまう。勤王の志か、妻か。

 父の言葉が、耳に蘇った。


「静かに生きろ。私のようにはなるな」


 父が生きていれば、今の自分に何と声を掛けるだろうか。

 芳野が、縁側で柿を剥いている。機嫌が良いのか鼻歌交じりだ。


(忘れよう。志など)


 それがいい。そして、藩士として勤めに励み、静かに生きるのだ。ただ、尚憲にそれを告げる事が出来るのか。尚憲は師であり、恩人である。それだけに、先行きが心配だった。

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