第一回 勤王の男

 蒼い月が出ていた。

 満月である。

 淡く蒼白い光を耀々ようようと放ち、写し出された草木や遠くに見える山の峰々が、美しくも妖しく、そして幻想的だった。

 提灯を片手に今山の石段を登っていた滝沢求馬たきざわ もとめは、ふと夜空を見上げ、


(冬の月だ)


 と、何となく思った。

 冬というには、まだ早い。しかし月の蒼さが寒々しさを映し出し、そう感じさせるのだ。つい先日まで秋めいていた宇美津も、季節は確実に冬へと向かっているらしい。

 澄んだ風の寒さが肌を刺し、求馬は我に返った。


(真っ直ぐ歩かねばな)


 昨日の雨の為か、石段が些か滑りやすくなっている。幾ら月夜とはいえ、転げて提灯の灯が消えては足元が危ぶまれる。

 求馬はかぶりを振って、また石段を登りだした。

 この先には、真言宗の慈恩密寺じおんみつじがある。求馬は、そこで暮している尚憲しょうけんという僧と、これから会う約束をしていた。

 顔を見るのは、二年振りである。今まで尚憲は、諸国遊学の旅をしていた。手紙も敢えて交わさないでいたのだ。

 宇美津うみづに戻ってきたという知らせは、妻の芳野よしのに聞かされた。郷方村廻り検見役の役目を終えて帰宅した時の事である。昼間に尚憲の使いと称する寺男が屋敷に現れ、戻ってきた旨を知らせに来たという。それを聞いた求馬は、芳野が拵えた漬物を手に慈恩密寺に向かった。

 尚憲は求馬にとって師であり、歳の離れた兄、そして二人目の父のような存在である。故に、彼の帰郷は待ち遠しいもので、役目で疲れた身体を押してでも会いたい存在だった。

 求馬には、苦痛より期待の方が大きいのだ。むしろ、


(同志達の動向を知れる)


 そう思うと、身体か軽くなり、自然と足早になる。

 求馬には、志があった。

 勤王である。

 幕府は今、帝と朝廷を不遜にも蔑ろにしている。幕府は朝廷に対し二万石という僅かな捨て扶持しか与えず、帝は貧困に喘いでいるという。一方で将軍・幕閣・大名・藩重臣は、賄賂や様々な利権で私腹を肥やし、我が世の春を謳歌しているのだ。特に、田沼意安。この男の独裁こそが、諸悪の根源である。

 それが、許せなかった。それを咎めない、夜須藩も同罪である。その歪みを教えてくれたのが、尚憲だった。

 それには、切っ掛けがあった。

 十年前の初春。父の作衛門が罪を犯し、切腹をした。それは求馬が十六歳の時で、江戸藩邸に詰めていた父が、江戸家老を斬り殺したのである。父は国許に送還され、何の弁明も出来ずに切腹させられた。

 役人の話によれば、藩邸に奉公していた下女を取り合ったという痴情の縺れが原因だったという。無論、求馬はそのような事を信じてはいない。何かしらの理由があり、濡れ衣だと信じている。

 父は、管亥流かんがいりゅうの使い手であり質実剛健の武士らしい武士だった。しかも、父と母は好き合って結婚した仲である。両家が決めた縁談ではなく。その父が、女を取り合って上役を殺すような愚行を為すはずがない。

 だが噂は夜須城下に広まり、親戚からも面罵された母は、気を病んで伏せってしまった。

 切腹する前日、求馬は父が拘置されている獄で一度だけ面会した。少しやつれていはたが、背筋をピンと伸ばしたいつもの父だった。

 父は求馬に対し、


「これから先、この愚かな父の為に迷惑を掛ける」


 と、頭を下げた。

 女を取り合ったのか? 家老を斬ったのか? 江戸で何が起こっていたのか? 真実を訊きたかったが、曇り無き父の表情を見ると、訊く事が出来なかった。何より、それが答えなのだと、求馬は確信した。


(この父が、愚かな真似をするはずがない)


 そして、父は別れ際に言った。


「静かに生きろ。私のようにはなるな」


 この発言の意図するところが、求馬には判らなかった。だが、この言葉の中にこそ真実があるのだと、強く感じた。

 父が死に、求馬には謹慎を申し付けられた。考える時間は、十二分にあった。父が残した本を読み、木剣を振り、そして最後の言葉を反芻した。そうした中で、心ある大人が屋敷を訪ね、父は藩と幕府の確執に巻き込まれ、家老殺しの汚名を被ったと教えてくれた。それが真実なのか判らない。判った所で、父はもう戻らない。考えれば考えるほど、父を奪った藩への憎しみが募るだけの日々になっていた。

 翌年の春。例年より早く桜が咲いた季節に、謹慎していた求馬に家督相続の許可と、飛び地である宇美津への左遷が言い渡された。懸念していた、御家取り潰しを免れたのである。

 だがその翌日に、母が死んだ。庭の桜の木で、首を括っていたのだ。靄のかかった早朝の事だった。

 元々、心が強い方ではなかった。息子の家督相続が決まって安心し、気兼ねなく最愛の伴侶のもとへ旅立てると思ったのだろう。七分咲きの桜にぶら下がった母を、求馬は一人で下ろし、身体を清め仏間に運んだ。

 両親を失い、浪人になろうとも思った求馬を押し留めたものは、父が持つ誇りだった。


(俺が逃げれば、父の汚名を認める事になる)


 家財を売り払い、身体一つで宇美津へ向かった求馬は、宇美津奉行所の郷方村廻り検見役として出仕するようになった。

 それは、暗い闇の中で淡々と役目をこなす日々だった。交易の湊として名高い宇美津では、周囲の農村を統括する郡方は、まさに閑職である。しかし、求馬はそれで良かった。誰とも親しまず、誰とも交わらず、ただ静かに生きられるからだ。無論、友が出来るはずもなく、いつも独りだった。


「陰気」

「無愛想」


 と、陰口を言われる事もあった。そうした雑音は無視したが、心の中には強い憎悪が渦巻いていた。


「静かに生きよ」


 そう志向しても、消えぬ恨み。父母を死に追いやった、夜須藩と幕府、無能な武士共が許せなかった。

 そうした日々の中で、住谷丹蔵すみたに たんぞうと名乗り宇美津奉行所の勘定方で勤めていた尚憲と出会った。

 丹蔵は、父とは管亥流道場の後輩だったらしく、孤独な求馬を自宅に招いては酒や料理を振る舞ってくれた。丹蔵は妻を早くに亡くし、後添いも取らずに男鰥おとこやもめだった。料理は決して美味しいとは言えなかったが、心が暖かくなるものだった。

 そして三度目の酒盛りで、帝と朝廷の不遇を求馬の身の上を重ね合わせ、全ての元凶は利己に走る幕府と、それに追従する夜須藩のような親藩・譜代藩にあると説いてくれた。

 心に、一条の光が差した。そして、魂が震えた。探していたものが、見つかった。そんな気分だった。

 それから求馬は、役目の合間を見計らっては丹蔵を訪ね、教えを乞うた。

 帝とは? 朝廷とは? 幕府とは?

 見識を深めるにつれ、現行の体制に違和感を持ち始めた。


(本邦は、帝を中心に朝廷が治めるべきではないのか?)


 また、この国の腐敗も目につくようになっていた。賄賂を取り、お目こぼしをする。民草を足蹴にして、上役の機嫌を取る。武士がそれでいいのかと、叫びたくなる。商人もまた同じだ。安い賃金で貧乏人を酷使する。武士に銭を握らせ、欲望を叶える。その事に今まで気付かなかった自分が恥ずかしいほどだった。

 それから、丹蔵が学問を極めたいと出家して尚憲となってからも、求馬は通い続けた。時には、尚憲と共に宇美津を出て、他の勤王家と交わった。それは求馬にとって実り多きものだった。

 求馬は、もう一度足を止めて天を仰いだ。

 月。視界を塞ぐ木々の間から、蒼い光が溢れている。


(蒼い月とは、何と美しいものだ)


 求馬は、内心で呟いた。

 季節の移ろいを美しいと思える、そうした人間らしい感情は、両親を失った時に棄てた。だが、今は違う。変わったのだ。いや、かつての自分を取り戻した、とも言える。

 孤独ではないのだ。心から、そう思える。

 志がある。勤王の熱い想い。尚憲という同志もいる。そして、百姓から迎えた妻もいる

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