第一回 憂鬱
空が澄み渡るように晴れていた。
雲高く、秋晴れである。陽気も穏やかで、肌着の下に微かな汗を覚えるほどだ。朝晩は流石に冷えるようになってはいるが、日中はまだ暑さを感じる。
日向峠を下って、三日が経っていた。
高師では、そこに潜伏していた国学者を斬った。その男は、同じ夜須藩出身で
夜須藩は幕府開闢以来、徳河家を守護してきた譜代である。そのような歴史を持つ武士団から、叛徒を出すわけにはいけないと、暗殺の前夜に父から聞かされた。
簡陽は、町外れにある農家の納屋に隠れていた。納屋の警備に二人の武士がいたが、それは自分が一人で斬った。二人が何者なのか、一切知らない。ただ父に命じられ、
「遅かったな」
中に踏み込むと、簡陽が穏やかな笑みを投げかけた。
父は頷き、簡陽と僅かに言葉を交わすと、あっさりと首を打った。
「私も斬るのだな、お前は」
それが、簡陽の最後の言葉だった。
「私も」
という言葉が、何故か耳に残った。私も、という中には、日向峠で斬った武富陣内も含まれているのだろうか。父と、簡陽。そして陣内。かつて三人に何かがあったのかのような、含みのある言い方だった。
武富陣内は、父の友だった。屋敷の客間で将棋を指していた姿を何度も見た事もある。だが、館林簡陽との関係は、小弥太には判らなかった。父は何も語らず、それについて訊ける雰囲気でもなかった。
簡陽を斬って旅を終える。そう思っていた。だが、次の目的地が
長い旅になる。事前に、そう言われて夜須を出ていた。だから、宇美津と言われても驚きはない。高師では長い旅とは言えないからだ。
宇美津は、夜須藩の飛び地である。本領に海を持たない山国の夜須にとって、唯一の湊でもあった。そこで何をするのか、その目的までは聞かされなかった。もとより、父が前もって何か言う事は珍しい。
(当然、誰かを斬るのだろう)
それだけは、間違いない。平山家の生業は、人殺しなのである。武富陣内や館林簡陽を斬ったのも命令があったからで、それを命じたのが夜須藩主・
平山家は
藩主、或いは代理となる執政府から、斬れと命じられれば斬るだけの刀として存在してきた。それを為し得る為に、一族の秘剣・
その念真流の発祥は古く、平安の御世にも遡るという。戦国乱世の御世には、少数精鋭の抜刀隊を率い栄生家の影で働いてきた。現在の当主は父であり、自分はその次期当主になる予定である。
だが小弥太は、
(父の後を継ぐ自信が無い)
と、思っていた。
当主は、誰よりも人殺しに長けなければならない。それは念真流の宗家としても、御手先役としても絶対条件である。
四日前、初めて人を斬った。その時は血に酔い、何の恐怖も無かった。だが時が経つと、骨を断つ感触と殺した人間の形相が蘇り、脳裏から離れないのだ。
(それが怖い……)
あれ以来、夢見も悪く夜が長く感じる。怯えているのだ。武士として恥じるべきだろうが、怖いものは怖い。
清記の後ろを俯いて歩く小弥太は、ふと視線を上げた。父の大きな背中。この背を見てきた。父が人を斬っている時もだ。
(父上は、怖くないのだろうか)
父の仕事に初めて付き従ったのは、十歳の時だ。相手は足軽で、私怨から組頭を殺害し遁走。その追跡に伴われた。
二日と半日追った末、父は藩境で男を捕らえて殺した。髪を掴み上げ、短刀で喉を掻き切ったのだ。何ら躊躇もない。喜怒哀楽を表さず、淡々と捕えた獲物を仕留める猟師のように殺した。
「お前も、いずれこうなる」
と、返り血を浴びた父に言われた。だが、そうなる自信は全く無い。
どうしようもない恐怖があった。死ぬ事も、殺す事も恐怖である。人を斬った今でも、それは変わらない。
(慣れるしかない)
いずれ、心が慣れていく。人を殺しても、自分が殺されても、何も思わなくなるはずだ。
殺しに慣れる。それが小弥太の、一縷の望みである。
◆◇◆◇◆◇◆◇
宿場に入った。
入口の看板には、〔藤ノ口〕と書かれている。そう活気がある宿場ではないが、かと言って寂れているわけではない。何とも中途半端な宿場という感じだ。
だが小弥太は、
(面白いな)
と、町の様子に目を見張った。
この旅で、初めて夜須藩を出た。藩外の話は、折に触れ父に聞いていた。だが見ると聞くとでは違い、全てが目新しく思える。
中でも、言葉の違いには驚いた。同じ日本の言葉でも、発音の節が違う事がある。田舎に行けば、聞き取れない事もあった。山を越えただけで、こうも違うとは思いもしなかった。
商店で餅と草鞋を買い込むと、一膳飯屋に入った。
昼時で賑わっていた。客の多くが旅装である。清記が小弥太に目配せをして、全体が見渡せる部屋の隅に座った。
暫くして、沢庵を乗せた麦飯と汁物、そして川魚の塩焼きが出た。岩魚のように見えるが、目印となる斑点が無い。藤ノ口の傍には、名も知れぬ川が流れている。この名も知れぬ魚は、その産だろう。
清記が膳に手を伸ばしたのを確認して、小弥太も箸を付けた。汁物の具は野菜屑、川魚は脂も少なく塩辛いだけもので、お世辞にも旨い代物ではない。だが、小弥太は構わずに黙々と食べた。旅の飯などは、まず飢えない事が第一で、食べられる時に腹を満たさなければならない。旨い不味いは二の次なのだと、父に教えられている。
そう自分に言い聞かせながら不味い飯に苦戦していると、小弥太の耳には様々な話し声が飛び込んできた。その多くが宇美津の景気に関するものだ。どうやら、行商同士の会話らしい。宇美津は、関東では江戸に次いで巨利を生み出す市場である。
「宇美津が風邪を引けば、関東が風邪を引く」
などと、父が言っていた。それだけに、宇美津の景気は関東の商人にとって注視すべき事柄なのだろう。
他には、賊徒の話題もあった。小弥太には、こちらの話題が興味をそそられた。
何でも〔
(役人は何をしているのだ)
平山家が治める内住郡には、賊など一人とていない。それは父の統治が確かであるからだ。統治の乱れが、無法な賊を
「小弥太」
清記に名を呼ばれ、小弥太は我に返った。
「早く食べてしまえ」
「はい」
不味い飯を慌てて胃に詰め込むと、銭を置いて店を出た。それから宿を探すのかと思ったが、清記の足は何の迷いもなく宿場の出口に向かった。まだ先に進むつもりなのだろう。確かに、この宿で一泊するには陽が高過ぎる。
◆◇◆◇◆◇◆◇
川筋に沿って歩いた。
妖しい死人花が真紅の花を咲かせ、その美しさに目を向けながら進んでいると、いつの間にか
西は
(確か……)
小弥太は、脳裏に叩き込んだ地図を思い浮かべた。
どちらも珂府城下へ通じる。しかし、築那街道は、山を迂回するので遠回りになる。
「小弥太」
清記が熱感の無い声で、名を読んだ。
「この先の築那街道には何がある?」
「新農、郡部です」
小弥太は即答した。父の試しである。父は時折、こうして問題を出すのだ。
「では、裏街道を通ると何処に行き着く?」
「
「岩寂はどのような所だ?」
「夜須藩、高師藩から珂府城を守る要所です」
珂府は、那珂の府中の略称である。これまで数名の大名が治めてきたが、現在は幕府直轄となり、珂府奉行がその治世を指揮している。
「どちらが珂府城下に近いか判るか?」
「裏街道だと思います。地図の上では」
「そうだ。裏街道で山越えする方が、珂府城下に近い。しかし、多くの旅人は築那街道を選ぶ。その方が通りも良く、宿場が整備されているからだ。そして何より、身の危険が少ない」
此処は関東である。しかも、その中でも最も治安が悪いとされている那珂国。唯でさえ危険な場所であるのに、裏街道となると一層危ない。旅慣れた渡世人すらこの裏街道を避けると噂されている。
「山を越えるぞ」
清記が、そう言うと同時に歩き出していた。その後を、小弥太は追う。
峠路は、頼りない道だった。道幅は二人並んで通ればやっとという所が大半である。勿論、整備などはされていない。泥濘になっている場所もある。
(確かに、雰囲気は悪いな)
鬱蒼とした木々が天を覆い、空気も澱んでじめっとしている。賊が出てきても不思議はない。
険しい峠路も、その半ばに至った頃だった。清記は立ち止まって空を見上げると、
「野宿の準備だ」
と、小弥太に命じた。既に、陽は大きく傾いている。
小弥太は、脇道に入ると言われるがままに準備に取り掛かった。寝床の確保と、薪を集めるのである。
野宿は慣れたものだった。稽古と称して藩内を歩き回り、ふた月も野宿を続けた事もある。野宿では何に気を付け、何処を選ぶべきか。知識ではなく、経験として身に付いている。
手頃な大樹を見つけた。樹葉が屋根に、根が枕替わりになってくれそうだった。少し歩くと沢もある。
水を竹筒に汲んで戻ると、清記が火を熾し終えていた。藤ノ口で購った餅を焼いている。
餅はすぐに焼けた。味付けはない。それでも、噛んでいると次第に甘くなり、空いた腹には美味だった。
夕餉が済むと、後は寝るだけである。
「明日は払暁と共に発つ」
清記はそれだけを告げ、横になった。
この夜の会話は、たったそれだけだった。他はない。他所の親子はこうではない。十歳を越えたぐらいから、その違いに気付いた。これで本当に親子なのか、と思う事もしばしばだが、これが紛う事なき自分と父との関係なのだ。
清記の寝息が聞こえると、小弥太は焚火を消して、大樹の根を枕に寝そべった。
闇が訪れた。秋の虫と禽獣の鳴き声だけが聞こえる。小弥太は横になっても、周りの気配に気を配った。禽獣のみならず賊が襲って来ないとは限らない。何せ、昼間に賊の話を聞いたばかりだ。妙に気になる。これが持って生まれた、恥ずべき気の小ささ故の心配だ。
夜空を見上げた。地上の闇に反して、満天の星空だった。今にも降ってきそうだ。小弥太は、掴めるかと手を伸ばしていた。
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