第一回 客
夜。
秋雨である。
朝から雲行きは怪しく、昼過ぎには降り出した。日が暮れてからは、雨足は強くなる一方である。
伊之助は、板場にある小窓から雨が滴る夜空を眺めていた。
雨音だけが聞こえる。一階は食堂で、二階が客間になっているが、静かなものだ。
(こんなに客が少ねぇのも久しぶりだ)
今夜は、旅の坊主が一人。二階で横になっている。
〔伊のや〕は気の利いた料理が評判の旅籠で、旅の立ち寄り客だけでなく、わざわざ深江城下から食べに来る食道楽もいる。だが日が暮れた上に、こんな雨では客はもう来そうにない。
釜戸の火を落とそうした時、訪ないの声が聞こえた。
(客か)
伊之助は、火を落とすのを止めた。夕餉には遅いが、注文が入るかもしれない。
女房のお紺が、喧しい声で客を応対する声が聞こえた。思わぬ客が嬉しいのだろう。
伊之助は、板場から顔を出した。武士。二人連れだった。
四十路手前と思われる武士と、元服前の少年。足の先まで、ずっぷりと濡れきっている。峠越えが遅れた挙句、その途中で雨に降られたのだろう。
浪人ではない事は、ひと目で判った。小袖。野袴。袖なしの打裂き羽織。雨で濡れてはいるが、どれも上等な代物だ。浪人が袖を通せる着物ではない。
(二人は、親子だろうか……)
ふと、二人の関係に興味を覚えた。
四十路の武士は、陽に焼けて肩幅はがっしりとしている。上背もある。彫も深く、顔立ちも凛々しい。ひと目で武芸を修めたであろう事が判る。一方、少年は色白だ。目も切れ長の狐目。線も細く、上背は年の頃の割りには低い方だ。
それにしても――。
(美童だな)
と、伊之助はその容姿に息を飲んだ。
ただ、
(
かつて、伊之助には陰間茶屋に入り浸っていた過去がある。所謂、衆道だった。
お紺と知り合う前であるが、伊之助は大人になりきれない若い身体に溺れた。この少年のような年頃の若者に、巫女や
ただ、お紺を見初めて以来、陰間遊びから麗に足を洗っている。それほどの女だったのだ。あの頃は若く遊び盛りであったが、今はもう商売一本である。
(男色相手かもしれねぇな)
兎にも角にも、この二人連れが奇妙だと思った。ここを継いで二十五年の間に培った宿屋の勘が、そう囁く。
二人連れが、こちらに目を向けた。丁寧に挨拶をしてくる。武士のくせに
「あんた、お客様だよ」
お紺に言われ、伊之助は慌てて頭を下げた。確かに、客だ。浪人者ではないなら歓迎である。
「お食事はどうされます?」
お紺の問いに、四十路の武士が頷いた。
「温かいものを」
「
「頼もうか」
それを訊いて、伊之助はお紺から目配せをされた。饂飩なら手早く準備出来る。
「しかしまぁ、このままでは風邪を召されますよ。さ、奥で着替えて下さいな」
「気を使わせてすまぬ。秋の雨は心地良いものではないので」
四十路の武士が頭を下げた。
「ささっ、浴衣をすぐにお持ち致しますので」
お紺がそう言って、奥にある倉庫代わりの土間へ促した。客間は二階にある。上に案内でず土間に促したのは、廊下や畳が濡れるからであろう。
二人が奥に消え、伊之助は饂飩を作り始めた。鰹出汁のつゆを温め、麺を湯がく。添えるのは山菜。それと醤油で煮た猪肉。
暫くして、二人が浴衣になって出てきた。濡れた着物は、お紺が土間で干している。
二人が席に着いたので、茶と共に饂飩を出した。
「お酒は?」
伊之助が訊いた。
「いや、結構」
静かだが、腹に響く声だった。少年は無言である。
「左様でございますか」
伊之助が奥に引っ込むと、四十路の武士が饂飩を食いはじめた。それを見て、少年が箸をつける。四十路の武士が食べるのを待っていたかのようだ。
二人は、無言でそれを頬張った。板前としては嬉しい食いっぷりであるが、無言というのがどうも困る。
もしかすると、[やっとう]の師弟なのかもしれない。よく見ていると男色関係の雰囲気はなく、二人の間には師弟関係の間に存在する緊張感がある。
(ああ、懐かしいもんだな)
伊之助も、深江城下の料亭で包丁修行していた。師匠は厳しく、時には拳も飛んだ。故に、それが判る。
二人は食い終えると、立ち上がった。その間、会話は一切ない。
四十路の武士から銭を手渡された。
「上に案内してくれないか」
「へぇ。その前に宿帳に一筆よろしいでしょうか?」
「ああ」
お紺が筆と宿帳を持ってきた。四十路の武士が筆を取ると、達筆な文字で名前を記した。
夜須藩士、
嫡子、
二人は親子だった。
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