第21話
敷地内の散歩スペース。
芝生が敷き詰められ、この暑い最中、誰も歩くことのない広場の隅、私は一人陣取り腰を落とした。
幸い、枝葉の影が日差しを遮り木漏れ日だけが頬をかすめる。
生暖かい風は幾分か和らぎ、背中の傷を撫でた。
いい天気だ。
木漏れ日の下、芝生に横たわり枝葉の向こうに見える空を見ながら、私は帽子を顔の上に被せる。
―――――足音。
草を踏む静かな気配が近づき、どれくらい眠っていたのだろう、私は帽子を上げた。
人影が隣に立っていた。
痩躯の大男。
見たこともないその人となりに、私は立ち上がろうとして、男はそっと手を伸ばしてソレを静止した。
「いい。見知らぬ者だ」
「そうですか」
「君があまりにも幸せそうに眠っているものだからな」
そう言って隣に腰掛ける彼を横目に、私はまた帽子を顔の上に乗せる。
「……金子剣一郎様ですね」
「よく調べたな。ありがとう」
男は笑み一つ浮かべず、こわばった表情で病院を見上げているようだった。
「話してくれるかね」
「単純ですよ。うちの事務所はね、一切表示していないんですよ、探偵事務所って。だから外から見て、あそこが仕事をしている場所だなんて誰も思わない。
せいぜい空きビルがまだ何かに使われていると勘違いするでしょうね」
「ああ。入ろうとして少し不安になったよ。ここでよかったのだろうかとね」
「探偵職―――――探偵と名乗っていいのか不安ですが、私の仕事を知る人間は、私と私の周りにいるもの以外いない。
加えて、あのアパート前にダイスケとヒジリ君がいて、確信しました」
「ああ。私が、彼から君の職業を聞いた。酒飲みの場でね」
「後は、ダイスケに戸籍謄本を見させて、それから、あのアパートの契約書も拝見しました。
それで確定です。あなた、志野原歩美さんのアパートの契約者に名前を連ねたのですね」
「ああ。私が代わりに契約した。娘が東京に出た時だな」
シュッと火打石がこすれる音が響く。
「昔話を一つ。死んだアイツは、結婚するまでは何ともない普通の女だった。かいがいしく俺に世話を焼くただの女だった。
なんの変哲もない、平穏な生活が送れると思った」
「……でも、実際は違った」
「娘と息子を二人生んで、ある日一人いなくなっていることに気が付いた。涼子もいない、どこへ行ったと探せば、庭の奥にあいつはいた。
―――――アイツは、自分の息子の首を絞めていた」
紫煙をくゆらせ、男は淡々と語る。
「異常だった。恐ろしかった、正義などと現を抜かす前に、まず自分が殺されると恐怖したのだ。
有り体に言おう、小便を漏らすほどに俺は、怖かった」
「だから、あの家から去った」
「トラウマ、といえばいいのかな。この年で大変不甲斐ないが。
そのあとは離婚の手続きを取った。賠償金は私が払うことにした、親権もすべて向こうに譲った、子供の面倒見切れるほどの援助をするとも確約した。
こちらの手元には、何も残らないようにしたい、ただ出ていきたい一心で、私は手続きを取った」
「……そして何年か経ち、娘があなたのもとに訪れた」
私は頭にかぶっていた帽子を剥ぐと、あおむけに寝転がりながら、不意に横目に男の表情を見遣った。
男は少し嬉しそうに笑っていた。
「驚いたよ、まだ私を覚えていてくれたとは。
娘は言った、あの家はもう戻れない。助けてほしい、こちらから大学に通う、幼馴染の麦倉浩二君も一緒にいる。安心できる要素をいくつも引っ提げ、あの子は私に助けを求めた。
だけど、あの日、全てが変わった」
「……あなたも見たのですね」
私の物言いに、大きく息を吸い、一呼吸おいてから、男はこわばった表情でぎこちなく頷いて見せた。
「呼び出されたのだ。助けてくれ、とな。
あのアパートには、胸をナイフでえぐり取られた涼子がいた。その内臓をはぎ取り、血を飲み肉を食む二つの赤い影があった。
悲鳴は出なかった。意識が飛んだのか、体が恐怖でこわばったのか、動けないままあいつらの声を聴いた。
パパは、助けてくれるよね、とな」
「……」
「ただただ恐怖だった。娘だと思っていたソレらは、アイツとなんら変わることのない化け物だと知った。
私は二人を止めることができなかった」
「そして、貴方は二人を匿った」
ニィと口の端を釣り上げ、男は悲しげに笑った。
「正解だ。思えば当然だろう、麦倉君にはソレはこなせないし、世間的に、血のつながった子供と暮らすことになんの違和感もないのだからな。
そして、あの二人に言われるままに、私はあのアパートの家財を引き払った」
「トラックを運転していたのは貴方なんですね」
「高速道路の映像は消してあるが、まぁ車を借りた場所を尋ねればすぐに私の身元が割れるだろうな」
「……」
「ただ、怖かった。ただただ恐ろしかった。次は私ではないか、私が殺されるのではないか。
言いようのない恐怖に、私はあの二人の言い分を聞くしかなかった。
ただ、怖くて仕方がなかった。
私は、あの子を助けてやれなかった」
男はそう言って、口元に咥えていた煙草を手に取ると、胸ポケットから取り出した携帯用灰皿に押し付けた。
立ち上っていた紫煙が立ち消え、煙たさが消える。
残るのは強い夏の風の音だけ。
「君から何か言うことはあるかね?」
「―――――いえ。残りは私が集めた書類と見解を報告書として提出しますよ」
「ありがとう、何はともあれ君は私の依頼をこなしてくれた。改めて礼を言うよ。寺田シロウ君」
「結構ですよ、私は私の依頼をこなしただけです。
志野原歩美は誰を殺したか―――――彼女は、彼女もまた、貴方と同じように、心を摩耗させ、その先に自分を殺しただけなんですよ」
「……そうか」
「誰も罪はない。あの子も、そしてあなたの元妻も、誰かに教えられて、その教えを体現しただけだった。
だから、警察は最後までこの件を事件として発表しなかったのでしょう」
「買い被りだよ。私にまで火の手が及ぶのを避けただけだ」
「だとしたら、貴方はひどい男だ」
「そうだな」
彼は力なく笑って、ゆっくりと立ち上がった。
そして、草を踏み地面を蹴り、眠る私を背にして手を振りながら、日の元へと足を踏み出していく。
「残りの金は後で入金しておく。調査報告書は田中にでも渡してくれ」
「娘さんは、貴方に助けを求めていたのだと思います」
「……」
「あのアパートは、彼女の大学から遠かった。あなたの自宅から近い場所にあった。
彼女は、あの家から逃げるために東京に出たわけじゃない。貴方に助けを求めるためにあのアパートに」
「―――――それができないから、私は君に託した」
「……」
「ひどい男さ。まったくもって」
「……そうですね」
「最後に一つ聞こう。娘と息子は、幸せだったかな?」
「あなたが思う以上に、彼らは不幸だった。だけど、私たちは彼女のその不幸を知ることができた。
だからそんな私たちに、ありがとうと、彼女は言ってこの世を去りました。
知ってくれたこと、秘密を破ったこと、苦しみを暴いてくれたこと、苦しみを共感してくれたこと、そこに彼女は唯一の救いを見出していました」
「―――――ありがとう、寺田君」
彼はそういって笑いながら、その場を去っていった。
私はというと、再び帽子を顔の上に乗せ日差しを避け、微睡みにふけることにした。
風のささめきが聞こえる。
木々の枝葉がざわつき、顔を隠しているのに、日差しが強く照りつけて、痛い。
漂ってくる潮の香。
波の音がかすかに聞こえてくる。
眠りながら、遠くに白い浜辺が見えたようで、私は笑みを浮かべた。
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