第19話

「どうして……?」

「どうして君も追われているのかってことかな?」

「逆だ、なんであんたも追われることになっているのかがわからない」

「秘匿を破った者を殺す、彼女は実に母親の行いを余すところなく承継しているわけだ。私は部外者でありながら、君たちの行いを知ったからね」

 闇の中、私たちは逃げていた。肩から血のにじむ彼を背負い、薄暗い住宅街の中を迷走し続けていた。

 その後ろには、ヒタリヒタリと近づいてくる気配。

 足を止めれば、凶刃が背中を刺すだろう。

 そんなヒンヤリとした狂気が背中をなで、私は急かされるままに彼を担ぎ街を走る。

「―――――なぜです」

「……昔と同じように、できると思っていた」

 俯きながらそういう彼を横目に、私は道のわきに立つカーブミラーを見上げた。

 

 ―――――ニィと笑う赤い影。


 闇に佇むレインコート。

 後ろから追ってきていたと思っていた相手は、いつの間にか、角からこちらをじっと見つめていた。

こちらを捉えていた。

「知っていたんですね、貴方は彼女が、いえあの一家は人の肉を食べると」

「小学生からの付き合いだ、知らないわけがない。

 それでも関係ないと思った、あいつが好きなのは変わらなかった、そう思っていた」

「お前は知らないふりをした」

 ギギギギッと壁を削る激しい音。

 ハッとなって私は後ろを振り返りつつ、彼、麦倉浩二とともに頭を低くして、地面に膝をついた。

 そのすぐ上を刃が薙いだ。

 真後ろに赤い目をした女がいた。

「助けてくれなかった。苦しくて、全身がドロドロになりそうで、自分が自分でなくなりそうで、それでもお前は『好き』だとしか言わなかった。

 お前は、私の何も知ろうとしなかった。ただ好きでいただけだった」

「歩美……」

 ザクリ、ザクリと何度も壁をナイフで抉りながら、女は後ずさる我々に近づいてくる。

 その口元は嗤っていた。

 その目は涙を浮かべていた。

「ねぇ、私は今まで何を食べていたと思う? 何を体に入れ、何を飲んだと思う、私は一体何でできていたの?

 お前は、すべてを知らないふりで通し、私を助けようとはしなかった。

 私は、母親を殺すしかなかった。

 ソレをお前は、ずっと知らないふりで私のそばにいた。

 ただ、自分の静穏が欲しいためだけに。私を知ろうとしなかった、知ってなお知らぬふりをした」

 私は近くにあった小石をつかみ、女に投げた。その石は女のこめかみにあたり、それでも女は微動だにせず、踵を返す私たちを見つめているようだった。

「ただ静穏が欲しかった。それだけだった」

「違うッ、俺はッ!」

「……だったらぁああああああああああ!なんであの日、母が殺しに来たあの日ぃいいいい!助けに来てくれなかったのぉおおおおおおおおお!

 何回も電話をした、何回も殺されるって連絡した、どこにいたの、どうして私のところにいなかったのどうして来てくれなかったのぉおおおおおおおおおおお!」

 ゴリゴリと周囲の壁をえぐりながら、女は近づいてくる。

 それはまるで、獣の爪が抉るかのように―――――私は彼を担ぎながら、どこか逃げられる場所を探しつつ、地面を只管にける。

「まだか……!」

「あの日、私が死ななかったのは偶然だった。あの女が私から目を離した一瞬だった。ナイフがあの女の手元から零れたッ、あの女が弟に目をやったから、包丁で喉元を切り裂けた。

 偶然だった、たまたまだった。最後まで誰も助けに来なかったぁ!

 私は、生きるかしかなかった。だからあの女がしようとしたように、あの女をぉおおおお!」

 近づいてくる刃。

 ジクリとにじむ痛み。

 服が裂け、皮膚がわずかに裂傷しただけ、それでも鋭い痛みに私は目を細めつつ、踵を返し、目の前の女を蹴り飛ばした。

 女はその場に倒れ込み、すぐさま立ち上がる。

 その獣のごとき敏捷さに、私は顔をしかめる。

「……その後、貴方は篠原涼子を『保存』し続けた。内臓をえぐりだし冷凍庫の中に折りたたんで、そして、残った臓物を食った」

「……ふふふふふ。久しぶりに食べたけど、やっぱりおいしかった」

「食べざるを得なかった。子どものころから自分が人の肉を食べていると知っていながらも、貴方はやめられなかった。

 そういう味覚を体が覚えてしまった。七歳で味覚が変わらなくなるように、赤子のころから啜ったその味を体は記憶したのだ」

「ああそう……そうなの。私はもうそれ以外を受け入れてはいけないの」

「そして、貴方は今まで同じことを繰り返した。実家にいても東京に出てからもそれは変わらなかった。

 助けてほしかった、母親と同じようにこんな因果なことを繰り返すことになってしまった自分を止めてほしかった。

 ほかでもなく、『彼』に見てほしかった、そして止めてほしかった」

「―――――嬉しい。私の本、見てくれたんだ」

 静かになっていく声。

 私はよろよろと立ち上がる彼女を見つつ、私はポケットから携帯電話を取り出した。

「ああ……そうだ。あの人に知ってほしかった。

 誰でもないあの人―――――誰だっけ、どんな顔をしていたっけ。私、なんのためにここにいるんだろう」

「そして貴方は今に至るまで、人を食らい続けた。

 ばれるといけないから、自分は死んだと偽り、それでももしものために弟の洋人君を自分の代わりにした。

 そして探りを入れる人間を後ろから殺し、そして人の肉を食った。

 あなたにとってこれは狩りだった。

 獲物を狩る獣と何ら変わりのないように、貴方は私を殺そうとした」

「……ああ、そうだぁ。私、お腹すいたんだった」

 その表情から人らしい何かが抜け落ちていき、まるで能面をかぶった人形のように不自然な動きをし始める。

 まずい、また動き出す。

 私は彼とともに踵を返すと、地面を蹴った。

 そして、終の地で、私たちは足を止める。

「待ってぇ……どこに行くの、おいていかないで……」

 か細い声で、ふらつく足で、ナイフをふるいながら近づいてくる彼女に、私は踵を返し向かい合った。

 私も彼も流れ落ちる血の量が増えてきている。

 長くはない。

 痛みに顔をしかめつつ、私は周囲を見渡した。

「……ここは?」

「あなたが住んでいたアパートの前ですよ」

「―――――そっか」

 もともと、誰かを殺すつもりなんてなかったのだろう、ナイフを振り回していた手を下ろし、彼女は踵を返す。

 ここは荒川沿いの公園。

 土手の向こうには、小さな白いアパートが見えて、彼女はそっと赤いフードをぬぐって顔を出した。

 その年月を経たかのように、老け切った横顔を見せつつ、彼女はニィと笑う。

「私、ここでお母さん殺したんだ」

「ああ。そうです。そしてソレを隠し続け、貴方は彼とともにこの六か月を過ごし続けたのです」

「うん」

「普通の生活に戻りたいと願ったのは、きっと彼だけではない。あなたもそうだからこそ、この六か月、平穏の中で彼と一緒にいた。

 もしかしたら、今までの不安も払しょくされるのではないかと願って」

「でも、殺した感触は、なくならなかったの。血の匂いも、肉の味も、全部覚えたままだった。戻れるなんて思えなかった。

 ニュースの通り、私、あの日に死んだの。私は私を殺し、『私』を殺した」

「……思い出しましたか?」

「―――――いつの間にか、お母さんによく似た顔になっちゃった」

 踵を返すと、彼女はスッとナイフを首元に当てた。そして笑みを浮かべつつ、彼女は肩を押さえ立ち尽くす麦倉浩二を見つめる。

「コウジ。結局最後までアンタは私を助けてくれなかったよね」

「歩美……」

「いいの。ありがとう、最後まで見て見ぬふりしてくれて。あんたはきっと、私を助ける資格なんてなかったし、私もアンタのそばにいる資格がなかったと思う。

 でもさ、それでも好きだって言ってくれたことは嬉しかったよ。東京に出ていくときついてきてくれたことも嬉しかった

 だから、私も言うね……ずっと昔からあんたなんて大嫌いだった」

「―――――やめろッ」

「だから、お前は私を止められない」

 シュッと首を軽くかすめていく刃。

 地面にナイフが落ちると同時に、動脈の切り口からとめどなく血が流れだして、彼女の赤いレインコートにしたたり落ちた。

 彼女はその場に立ち尽くす。

 そして、私を見つめる。

「貴方を山の崖から突き落としたとき、予感していたの。きっとこうするのが正しいんだろうって。

 秘密を暴いていくその後ろ姿、見ていて嬉しかった。こんなにも私を理解してくれるんだって。

 ありがとう、探偵さん」

「志野原歩美さん」

「私に名前なんてない。ソレはとうの昔に捨てたものだから。

 それでも、ありがとう。私のことを知ってくれて、私の苦しみを少しでも知ろうとしてくれて。例えその先私が死ぬことになっても、私はとてもうれしい」

 前のめりに倒れるその躯体。

 血の池が徐々に広がっていき、その呼吸が小さくなっていくのがわかる。そしてその手は白くなっていく。

「―――――麦倉浩二」

「歩美……」

「お前は見てはいけない、お前は聞いてはいけない、お前は知ってはいけない。

 私を知るのは、秘匿を破る者、泥の底に手を伸ばし、その泥をすすろうとする者だけだから。

 だから、お前は私に関わることはない、関わることなく、生きなさい」

「……」

「お前は、私を知らない、だからお前も、私を知らない。だから、生きなさい」

 男はその場に崩れ落ちた。

 彼女は地面に突っ伏しながら、力なく嗤った。

「……最期に、間違いをしなくてよかった」

「……そうですね」

「ねぇ、探偵さん。これから私地獄行くのかな?」

「いいえ。貴方は帰るのですよ。

 聞こえますよね、波のささめき、木々のざわめき、風の音、潮の匂い、空の青さ、雲の白さ。海の広さ。

 広く、とても広いあの浜辺ですよ。

 遠回りをして、長い道程の果てに、ようやく貴方はあの海に帰るのです」

「……うん……」

「さぁ、帰りなさい」

「―――――」

 静かになっていく呼吸。

 それとは正反対にバイブレーションが鳴り響き、私は携帯電話を手に取ると、耳元に押し当てた。

 聞こえてくるのは、騒がしい声だった。

『所長ッ』

「……やっぱりそっちにいるんですか」

『ご、ごめんなさい。でもッ』

「ダイスケに伝えてください。警察を呼んでほしいと」

『場所はどこです?』

「荒川前のあのアパートですよ」

『了解です。すぐに伝えますッ』

 そう言って、私は携帯電話を閉じると、ふとそばをすり抜けていく麦倉浩二の後姿を目で追った。

 彼はうつぶせに倒れる骸の前に座り込み、その手に持ったナイフを握りしめた。

「……歩美」

「大嫌い、彼女はそういったはずです」

 額に巻いた包帯をほどきつつ、私は彼に、彼女の最期の言葉を伝える。

「彼女は、元々早晩自分の意志で死ぬつもりだった。だけどその気持ちにあなたを巻き込もうとはしなかった。

 彼女が抱いた絶望を知って、あなたまでその泥を啜ってほしくなかった」

「……わけ、わかんねぇ」

「生きなさい、彼女の望むままに。貴方は何も知らず、何も聞かず、何も見ずにただ平穏に生きなさい」

「……くそぉ……くそぉ」

 近づいてくるサイレン。

 赤いランプが遠くに瞬くさまを横目に、私は包帯を手から離した。

 白い包帯が宵風に乗って夜空へと昇っていくのを、私はサイレンが近くにやってくるまで見守っていた。


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