第18話
「がぁ!」
扉の向こうから苦しげな声が聞こえてくる。
同時に扉を押し出そうとしていた力が抜け、僕は踏ん張っていた体をゆっくりと起こすと、ソファーをどけつつ扉の向こうの複数の人影に眉をひそめた。
「……?」
「まぁそうだろうな。死体を一目見たとき、思ったことがあった。あまりにも劣化が早すぎる。まるで最初から老婆であったかのようなソレだった」
「ダイスケさんッ」
「ぼくもいるよぉ」
「ヒジリさん……」
「ええ!? なんで僕だけ残念な声なの!?」
僕はソファーをどけ、入口の扉を開くと、事務所前でダイスケさんが馬乗りになって男を一人、押さえつけていた。
ヒジリさんはというと、その後ろで手錠を用意していて、ぼくは目を丸くした。
その押さえつけられた人は、なんとなく僕に似ている気がしたからだ。
「……志野原、洋人」
「ガァアアアアアアア!」
「まるで首輪のない動物みたい。誰っすか、こんな狂犬放し飼いにしてるやつ」
「姉貴はしばらく来ない。俺の旧友が抑えているからな」
「姉貴……?」
「志野原歩美は生きている。あのアパートで死んでいだのは、志野原涼子。コイツらの母親だ」
「―――――ええええ!?」
驚く僕をよそに、ダイスケさんは手錠を手にして、うつ伏せにして組み伏せた男の両手首に手錠をかける。
「六か月前、こいつは母親と共に、娘のアパートを訪れた。理由は一つ、静岡にあるあの一家が実は食人を常態的に行っている、その事実を漏らさないためだ。
だが、弟はその実、事前にそのことを姉に伝えていた。姉が死ぬのは困るからだ。
だから、先んじてお前と志野原歩美は、あのアパートで母親を殺した。
そして冷蔵庫で何か月と保管した。内臓を取り出し、足を千切り、腕をそぎ落とし畳めるようなサイズにして」
矢継ぎ早に告げる言葉に僕は目を回していた。
「え……ええ」
「12月25日。シロウが見せた手記はそこで止まっていた。そこまでの間に弟の言動と母親の行動は確かに書かれていた。
だが、そこには「助けて」や「殺される」といった言葉がなかった。あったのは強い意志だった。
手記に残された志野原歩美の言葉はなんだと思う?」
「……死にたくない」
「―――――殺してやる、だよ」
グッとダイスケさんは強く洋人を押さえつける。
「お前たちが、母親を殺したのだな」
「ヒヒヒヒハハハハハッ」
「答えろ!」
「ガァァアアアアアア!」
ひときわ強く暴れだす躯体。ダイスケさんの体が弾き飛ばされ、ヒジリさんはというと、飛び出す志野原洋人をそっと避けた。
さすがヒジリさん、見事なスルーテクニックである。
「こらぁ!身体張って止めろよッ」
「いやいやいや、怖すぎますよ!」
「ったく追うぞ……!」
「えええええ……」
「今度不平不満を吐いてみろ。お前の飲み物にこれから欠かさず下剤を混ぜ込んでやる。便座に恋させてやるから覚悟しろよ」
「えええええ!?」
「行くぞッ」
「くっそぉ! この方向音痴バカがぁ!」
飛び出す二人。僕も気になって後を追いかけることにして、事務所を飛び出し道路へと走り出した。
赤いレインコートはこういう場だと薄暗い街の中でも見えやすく、どこを走っているのか容易に把握できた。
どれくらい追いかけただろうか、洋人はやがて近くの川を架ける橋の真ん中で止まった。
薄暗い闇の中、行きかうヘッドライトを頬に受け、彼はこちらに振り返り、追いかけてきた僕らに向き合う。
車が起こす風にはためく赤いフード。
やがてフードが頭から落ち、顔が見えた。手錠は後ろにかけられたまま、その男は嗤っていた。
ひどく、楽しそうだった。
「……はぁ、楽しかった」
「匿っていたのは、麦倉浩二か」
「―――――当然じゃないか。少なくとも警察さんは見たんだよね、姉さんとあのボンクラが街を歩いているのを」
赤いレインコートを潮風になびかせ、男はうつむきがちにほくそ笑む。
「仮にアレが俺のお袋だとして、恋人が気づかないはずがない。違和感なく男が歩いていた時点で、アイツはどう足掻いたところで、どれだけ知らないふりをしたところで知っていたんだよ。
そうだ。アイツは知っていた、自分の彼女が人殺しをしていたのを」
「とまれ。自首をしろ」
「誰を殺したの? 僕は誰も殺しちゃいない、母は失踪した、姉は自殺した。社会はソレを認めた、それだけじゃないか」
「……」
「僕はね警察さん、そこのかわいいお兄さんを殺したら、姉さんを殺すつもりだった。
でも、あの人は大切な人に殺されたいって言って聞かないからさ。どうしようもなかったんだよね」
そう言って、男は空を見上げる。
「あははは、そうだ警察さん、僕らの心までは読めなかったはずだ。僕は姉を愛していた。殺して、肉をそぎ落としてはみ出た内臓に顔を埋めて、骨を食んで滴る血を飲んであの人のすべてを愛したかった。
でも、あの人は、隣でいつも知らないふりをする男しか好きにならなかった」
男はそういって、最後に大きく口を開いて、舌を突き出した。
そこには―――――『薬』が舌の上に置かれていた。
男はニィと笑い、その薬を口の中に含み、そして嚥下する。
「―――――あああ。もどかしかった。ずっと歯の奥に挟んでいて、早く飲みたくて仕方なかったんだよね」
「お前!」
「姉さんに伝えて。先に行ってるって」
そう言って男は橋の上に飛び上がった。そして躊躇なく、足元を蹴り上げその体は宙に舞い上がりそして、深い闇に消えていく。
橋から身を乗り上げ、僕とダイスケさんは目を見開いて、男が暗い水の底に落ちていく様を見つめていた。
その顔は、嗤っていた。
とても、楽しそうだった。
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