第17話

 

 7時19分。

 俺は『彼女』を待つ。

 どうすればいいのか、わからなかった。この男、麦倉浩二はとんでもない馬鹿であるからして、解答が一切思いつかなかった。

 だがしかし、俺は知っていた。俺は見ていた、そのうえで、知らないふりを気取っていた、ただの日常が欲しかったから。

 歩美、お前がいればそれでよかった。

 それなのに

「……どうしてこうなったんだろうな」

「ソレは貴方が悪いのよ」

 指定しておいた公園の中に響く、低い声。

 寒気のするその干からびた、老婆のような声に、俺は薄暗い闇の中、周囲を見渡した。と、遊具の奥から人影が、ヌルリと闇から浮かび上がるように出てきたのだ。

「ねぇ、知っている?」

 それは、赤いレインコートを来た『彼女』だった。

 俺は知っている。

 俺は『彼女』が何者なのかを知っている。

「いいえ、知らない。あの子は、あなたから別れたがっていた。あなたが真実を知ることを恐れて、あなたから離れようとした。

 でも、あなたはソレを知らない、いいやソレすらも知らない。

 あの子が一体何でできているのか、あの子が今まで何を食ってきていたのか、好物は何?嫌いなものは何? あなたは何も知らない。知ろうとすることすら知らない。昨日まで何を食べたの、何を口に入れたの、あの子は普通じゃない。あの子は人間じゃない」

『彼女』は近づいてくる。

 そして、俺の顔を覗き込む。

 ああ、確かに『知らな』かった。知っても、頭の中に入れても、俺は、意識から外そうとしていたのだ。

 知っていたとも、知って尚且つ、俺は知り合って16年間、歩美の姿を見て見ぬふりをしていた。

 いつも食べていたアイツの食い物がなんだったか、アイツがどういう目で俺を見ていたのか、知っていて俺は知らないふりをしていた。

 東京に出た時も、同じ大学に通う時も、あいつの顔を見ないようにしていた。

「お前は知らない、お前は何も知らない、無知である自分自身ですら知らない。だから、お前は『私』を殺した。

 私はお前を知っている、知らない振りをし続けるお前を知っている。楽しかったろう、この六か月、どれくらい私の顔を見た?」

 闇の中から、女の顔が街灯の下にあらわになる。

 ああ、そうだ。

 知っていた、なのに、見ないふりをしていた。

「なぁ、麦倉浩二。この顔を、お前は覚えているのかい?」

 

 ―――――そこには、初老の女性の顔があった。


 口の端から滴る涎。

 ニィと笑い、目を血走らせ、顔中の皺をよせ、心底楽しそうに、或いは狂いそうなくらい口を三日月状にゆがめて、嗤っていた。

 それはおそらく五十代、いや六十代の顔。

 一目見れば、わかるはずだった。一目見れば違うと認識できたはずだった。

 これは志野原歩美ではない、と。

 だけど、俺はソレを避けた。

 極力合わないように、メールでやり取りをし、SNSで会話をし、顔を合わせず、合っても二言三言の言葉を交わすだけで、目を合わせなかった。

 ずっと、俺はこの人を見ずにいた。

 鞭でいたこと、これが俺の罪だ。

「ひひひひひひ、なぁ麦倉浩二、そうやってすべて知らぬふりをした男、すべてを知らぬままではいられない。

 お前は秘匿を破った最初の男。殺さなきゃ、殺さなければ、でないとご先祖様に。

 あの海に、帰れなくなる」

「……」

 手に持ったナイフが宵闇に光る。

 このまま、俺は―――――


「あー。そうそう、それでいいよ、ヒジリ君と一緒に戻って」


 と、聞こえてくる素っ頓狂なほどに明るい声。

 いつの間にいたのだろう、公園のベンチ、膝の上に片足を乗せ、背もたれに寄りかかりのけぞりながら、そこには男がいた。

 赤いアロハシャツ、短パンにビーチサンダル。頭には包帯を巻き、サングラスをかけた、別の意味で明らかに怪しい男だった。

 その男は、携帯を片手に一人しゃべり続ける。

「ありがとう、当初通りじゃあそっちは頼んだよダイスケ。

 ―――――やぁ、打ち合わせに時間が掛かってしまってね、待たせてしまったのならひどく申し訳なく思うよ」

 男は、携帯電話をたたむと、サングラスを上げ、その青い目でこちらを見つめる。

「―――――起源を知る者」

 赤いレインコートを来たその初老の女性は、振り上げていたナイフを下ろすと、俺のほうから、そのアロハシャツの男へと視線を向ける。

 その笑みはさらに深まる。

 そして、その手は震える。

「……ようやく会えた」

「こちらこそ、時間がないと思ったが、意外と間に合ったようでよかった。

 どうも、あの時は突き落としてくれて感謝しているよ、おかげで全身傷だらけ、肋骨は折れるし、血だらけになるしいいことなんて一つもない」

 そう言って、わき腹を押さえつつ立ち上がると、男はサングラスを捨て、手に持っていたその帽子を頭にかぶった。

 そしてうつむき加減に、女を捉える。

「改めまして、こんばんわ。私の名前は、寺田シロウ、名もない探偵をやっている」

「……秘匿を破った、私たちの秘密を知った」

「ああ。貴方が何でできているか、志野原歩美が何でできていたか、私はすべてを知ったつもりだ。

 さてだが、まだ最初の起源を掘り当てただけだ、あなたの過去を私は知らない。

 なればこそ、ここで答え合わせと行こうじゃないか」

 踏み出した足が止まる。

「『志野原歩美』さん」

「―――――」

「君は人を、殺して食べたね」

 女は、嗤った。

「証拠は?」

「ははは、腹に入ったものを吐き出せなんて言わないさ。所詮彼女は貴方たちの、いや、あなたの血肉になったのだから。

 でもそうだね、なぜといわれると思い当たることがある」

 男はそういって、女の前に歩みだす。

「一つ、あの家にあったのは憎悪だった。人を憎む声が渦巻いていた、壁の傷、床の傷、暴れた跡、部屋の外から打ち付けられた木の板。

『彼女』は、あの家で、二人の子供を殺そうとした。

 いや正確には、息子のほうを溺愛した。息子だと思ったほうを深く愛した。彼のためなら、なんでもした。娘のほうなどどうでもよかった。だから、彼女は娘が疎ましかった」

「……なぁ、麦倉浩二くん」

 そう言いつつ、彼は俺のほうへと向いた。その目をスッと細めて、まるで俺を問い詰めるように立て続けに言った。

「最も単純な理屈だ。どうだい麦倉君、恋人が知らぬ間に自殺したと聞いて、普通の人なら、警察に問い詰めないほどに落ち着いていられるかな? いや、そんなはずがない」

「あ……」

「警察にはなんら届け出がなかった。君たちは子どもの時から仲が良くて、恋人同士であったというのに。

 となれば一つの帰結が生まれる。選択肢が生まれる、あの場で死んだのは娘か、母親かどちらかだ。

 君は知っていた、知っていたうえで見逃した。見ないふりを知らないふりをし続けた」

 その目はまるで、獲物を借るオオカミのごとく。

「気づかなかった、あなたが私を谷底に突き落とすまで。貴方の日記を見つけるまで。

 あなたがなぜそうしたのかはわからない、だけど明白なものは一つ、貴方は自分を隠すためにすべてを捨てた。自分の存在すら。

 貴方は名前を捨てた。

 貴方は心を捨てた。

 そして、一人の悪鬼を貪った。

 殺したのは一人だ。

 たった一人、貴方を殺しにやってきた母親を殺し、その腸を憎悪を以て抉った。千切って抉って、皮を剥いで、そしてその死体が骸に代わるまで、あなたは弟さんとともに肉をむさぼった。最期まで愛されることのないその娘は、弟を憎悪を以て扱った。

 その起源は、母親から与えられたものだった。

 その痛みは、貴方の器を変えてしまった。

 貴方は、母親を殺し、母親と同じ存在となったのだ。

 それを知る者は誰もいない、貴方はすべてを隠し、その赤い衣の中に隠してしまった。狂い続け、髪は抜け落ち、その顔は、食ったもののソレと変わらず、老けてしまった」

「―――――ヒヒヒヒヒヒッ」

「もう、あなたが帰る場所など、どこにもない」

 大きく振りかぶられるナイフ。

 アロハシャツの男は、微動だにせず立ち尽くす。そして宣言する。

「志野原歩美さん」

「―――――私は、悪くない」

「貴方は、あの日、母親を殺しましたね」


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