第16話
その日の夜7時4分
「時間だ」
「じゃあ、この困った方向音痴を連れていくねカオル君」
「誰が方向音痴だ」
「自覚がないんですのぉ!? 鏡見てみろよぉ!」
「?」
不思議そうにしながら事務所を後にするダイスケさんと、その後ろを騒ぎ立てながらヒジリさんが後を追う。
僕は、というと、事務所に居残りである。
「君の所長の意向にはやはり逆らえない」そういって、二人は僕をここに残した。当然なのだろう。毛無山で出会ったあの赤いレインコートの女のことを考えれば、確かにここにいたほうが早い。
だが、この事務所も相当なことになっていた。
所長から以前聞いていたが、事務所は何者かの手によって荒らされていたのだ。ソファーは鋭利な刃物でずたずたに切り裂かれ、床には書類が散乱し、戸棚のいくつかが倒れていたのだ。
見事に荒らされていて、普段の事務所とそう相違ない。
(……間違い探しをしている気分だ)
毎日掃除しても片付くことのない普段の事務所内を思い返しながら、僕は床に転がる書類を片づけることにした。
とは言っても、もやもやとした気持ちは尽きない。
赤いレインコートは何者なのだろうか。
一人はわかる。志野原洋人。死んだ志野原歩美の弟、彼がおそらく姉を殺したのだろう。
だが、所長の話を聞けば、赤いレインコートの女は二人いる。
誰だ。もう一人は誰だろう。
そもそも、弟洋人はなぜ女装をして僕の前に現れるのだろう。何を思ってあの狂気を向けるのだろう。
そもそも、本当志野原歩美は死んだのか?
あのアパートに吊るされたあの死体は、本当に『志野原歩美』だったのか。
そもそもどうやって警察はあれを―――――
(……。そうか)
所長は、これを最初からわかっていた。
僕は事務所の窓、道路に面した窓を見遣り、それからさらにハッと息をのんだ。ああ、そういうことかと、なんとなく、僕には所長が考えたことがわかったのだ。
あの日、雨の日、赤いレインコートを来た『彼女』が誰なのか、あの時点ですべて見抜いていた。アレが誰なのか、どうしてこの事務所に来たのか。
だから迷いなく、あの人にはすべての道筋も答えもわかっていた。
ああ、そうだ。
ならもう一人、あの『赤い影』が誰なのか、あてはまる人物がいる。
あの家には五人の家族がいた。
一人は幼くして死んだ。
一人は食われた。これが志野原歩美。
一人は人を食った。これが志野原洋人
一人はその家を離れた。これが湧かれた父親
なら最期の一人は―――――
「いたッ」
ぼぉっと薄暗い中、事務所を掃除していると、ぼくは戸棚に頭をぶつけてしまった。痛みが頭に響き、僕はふらつきながら、薄暗い事務所の電気をつけることにした。
「―――――」
そして、愕然とした。
見えなかった。
部屋は、赤かった。
天井に書かれた『赤い線』―――――幾何学的なその文様は、天井一杯に描かれまるで魔術的な儀式を彷彿させるようだった。
ポタリ、ポタリと天井から滴る液体。
床には、赤い滴りが点々と床に広がっていた。それはまるで血しぶきが部屋いっぱいに舞ったかのよう。
そしてソレは、奥へと続いていた。
一直線。
まるで足跡のように、誘うように赤い液体が滴った跡が、奥の戸棚で止まる。
戸棚の表面には、赤い手形がべっとりとこびり付いていた。
その戸棚は開いていた。
「……」
一冊、何か知らないものが混じっていた。
それは一冊の大学ノート。表紙には何も描かれていない平凡な、どこにでも売っているものだった。
僕はその表紙を開き、中を覗き込む。
そこには―――――僕らが描かれていた。
『6月24日、ぼくはアパートを訪れ、遺体を目撃する。それはとても凄惨で、痛ましく、そして綺麗だった。胸がはじけそうだった、新しいものを見つけ、興奮が止まらなかった。僕らは何度もソレを追いかける。どこまでもどこまでも、アパートの大家を訪れ、僕らは彼女を探す。僕らはあの忌まわしき家を訪れ彼女を探す。
だけど、どこにもいやしない。それは当然だ、なぜなら彼女は僕だから、僕は彼女で僕は、僕とともにいる。
6月26日あの山には、もう一人いた。もう一人の僕が君を覗き込む。
君はそこにいる、そこにいて、僕になろうとしている』
「これは、何?」
『これはすべて真実だ そうだろう 梅本カオル君』
一行。
そこには僕の名前が刻まれていた。
黒いボールペンでひときわ強く描かれ、僕の名前の周りを何度も何度も赤いマーカーが塗りたくられていた。
誰が書いた。
誰かがこれを書いて、ソレは僕を知っている。
文字の向こうで誰かが笑っている。
誰かが僕を見ている。
『7月7日 ついに僕は君と出会う
7時19分 僕は君と出会う』
今日の出来事、まるで今でも監視されているかのような寒気に肩をすくめながら、僕は顔を上げた。
べっとりと、壁に掛けられた時計は赤い何かで塗りたくられ、見えなくなっていた。まるでソレは時計を見ることを拒むように、厚く塗りたくられていた。
仕方ない、携帯を覗き込もうとしたその時
―――――ジリリリリリリッ
静寂に響き渡る目覚まし時計。
どこから鳴っているのだろう、激しい動悸に胸を押さえつつ、僕はふらつく足で周囲を見渡した。
そして見つける目覚まし時計。
事務付の上、そこだけやけに整理されて、綺麗な机の上に、見慣れない小さな置時計がこちらを見つめていた。
盤面は『7時19分』
「はぁ、はぁ……」
コツリ、コツリ、遠くから足音が聞こえてくる。幻聴だろうか、現実だろうか、混濁していく意識の中、僕はふらつき、後ずさった。
そして、ふと手に握りしめたノートの最期のページを覗き込んだ。
『そして、僕は、君になる』
床をたたく足音が、事務所の入り口止まる。
ノートが手から零れ落ちる。
それに構わず、僕は事務所の入り口のドアへと目を向けた。そこには薄っぺらく安っぽいドアがあって、すりガラスののぞき窓がはめ込まれていた。
その窓に、人影が映った。
嗤っていた。
「カオル君、カオルくぅん。いるんでしょ、わかるよ、すごくわかる」
若い中性的な声が聞こえてくる。女か、男か、そのどちらとも取れない不安定な声に、背骨をえぐられるような怖気を感じる。
トントンと扉をたたく音が響く。
ガチャガチャとノブを回す音が響く。
僕はいてもたってもいられず、慌てて入り口近くのソファーを押し出し、いくつも積み重ねて入り口にバリケードを張った。
その気配を知ってか、扉の向こうの『誰か』は強く扉をたたき始める。
「カオルくぅん。カオルくぅん。遊ぼう、ねぇえええええええ!」
「ぐぅ……」
元々立て付けの悪いドアだ。衝撃で蝶番が外れかけ、ソファーがドスドスと押し出され始める。僕は背中でソファーを押し出し堪える。
扉越しに伝わる殺意と悪意。
僕を殺そうとしている。
どうすれば―――――
(所長……所長ッ)
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