第10話

 車の外で手持ち無沙汰に待機していた僕は、その着信音に、びっくりして、その場から飛び上がってしまった。

 あの人のことだ。僕が車の外にいることを見透かして電話をしてきたのかもしれない。

 不安に駆られながら、僕は恐る恐る電話を取る。

「あ、所長ですか? ぼく」

『よかった、電波は通るみたいだ……』

「所長?」

『いいか。質問はなしだ。一分以内に次のことをやれ』

 かなり強い口調。それに息が荒くそして、相当苦しげな声が受話器越しに漏れていた。

「所長、何が」

『なしといったッ。いいか、女が一人、僕を崖から突き落とした。その女は僕から背を向けてその場を去った。

 その崖からそこの入り口まで山道は一本道。

 十中八九、君のところに、そいつが行くだろう。車をトラックのそばにつけてしまっている。誤魔化しも効かない』

 突然の情報がいろいろ頭に入ってくる。

「し、所長ッ」

『二つ。一つは助手席から車の中に入り、鍵をすべてロックしろ。二つ、後部座席後ろのトランクに入り決して顔を出すな』

「は、はいッ」

『すぐにッ、ぐぅううう……向かうから』

「所長ッ」

『すぐに向かう。早くしろ!』

 今まで聞いたことのないような怒号。

 僕は逃げ込むように、助手席に飛び込むと、すべてのドアをロックし、言われるままにトランクスペースへ体をねじりこんだ。

 なるほどここなら体を横たえて丸めていれば、外からは見えないつくりになっている。

 僕は頭を抱え、震える体を押さえる。

 誰も来ないように。

(所長……!)


 ―――――足音。


 車越しに近づいてくる気配。

 思わず窓に顔を近づけたくなる気持ちをグッと抑え、僕は近づいてくる気配に体を縮こまらせた。

 来るな、来るな……来るなッ。

 だけど、ゴンという鈍く何かが当たる音に僕は、そのわずかな願いすらかき消えてしまうことを知る。

 何かが、車のそばにいる。

 僕は息を殺し、ただ石のように体を固めた。

 ただ、いなくなることを願い。

「揺蕩う願い」

 声。

 ぐもった女の声が聞こえる。それとともに砂利道を擦る足音が徐々に近づいてくるのがわかる。

 わかる―――――今、車の後ろ、トランクの前にいる。

 扉一つを隔てて、誰かがいる。

「はかなき願い、人は生きたいと願い、人は殺したいと願う。人は人を殺し、人は人を生かす。すべては一となり、すべては神に帰る。帰る還る還る還る」

 ぶつぶつとつぶやく声が大きくなる。

 何かが、べちゃりと引っ付く音が聞こえる

「そして、宮を下りて神のもとへ」

 ガシャン

 窓の割れる音。

 何かが頭上を横切る。

 それは―――――血のように赤いほっそりとした腕。

 防犯用のブザーが車の周囲にけたたましく鳴り響く中、僕は降り注ぐガラスに目をつむった。

 まずい。

 ゆっくりと砕けた窓から腕が引いていき、代わりに女の頭がフードをかぶりながら顔を出す。

 ガシャリ、ガシャリ、腕一本分のガラスの穴を頭でこじ開けながら、その頭に血しぶきをあげながら、誰かが顔を車にねじりこんでくる。

 そして、フードの奥に隠れた赤い目が、うずくまる僕をとらえる。

「―――――ヒヒヒヒヒヒッ」

 甲高い笑い声。

 ニィと三日月状にゆがむ口元。

 女は笑いながらこちらを見下ろす。

 笑いながら、囁き続ける。

「踊り食らい狂い飲み込み千切り砕き殺し殺され殺し殺され燃やし焼かれもだえ苦しみ死んで死んで燃えろ燃えろ燃えろ。安らぎなどなくただ食べる食べる食べる食べる食べる食べるヒヒハハハハハ」

 ―――――狂っている。

 目を血走らせ、見開き、女は笑い続ける。

 頭に響く。

 所長―――――所長ッ。


 ―――――と、聞こえてくる走行音。


 別の車が近づいてくる音に、女は途端にその表情をこわばらせると、スッと割れた窓から身体を引いて、その場を去った。

 そして足音が遠のいていく。

 代わりに車の走行音が近くで止まり、僕は、やがて聞こえてくる懐かしい声に目を見開いた。

「……間に合った」

「……ダイスケ、さん?」

 恐る恐る顔をあげ、トランクから後部座席に移動すれば、そこには腰に手を当て、少し疲れた表情を浮かべるダイスケさんがいた。

 隣には、なんだかすごくげんなりした表情のヒジリさんもいた。

「……なんで男の先輩とこんなところまで休日ドライブを」

「俺じゃ不満か」

「そこそこに」

「そうかよ―――――すまんな。休暇申請が下りるのに少し手間取ってな」

 僕は、車のロックを解除すると、ダイスケさんは扉を開け、幾分かほっとした表情で中に手を伸ばした。

 僕は戸惑いながら、彼の手を取り、外にふらつきながら出る。

「ど、どうして」

「シロウからの無茶ぶりだ。こっちは死ぬほど忙しいのに、休暇を取って今日この時間に来い、と昨日連絡があったんだ」

 そう言ってダイスケさんは少し苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて頭をかく。

「まぁ、保険だよ。君がついてくることを、彼は苦々しく言っていたからな」

「所長、だから」

「この山に何かいることを、あいつはある程度予想していたらしいからな」

 ダイスケさんは僕を車から引っ張り出すと、憮然とした表情を浮かべて、背後にそびえる毛無山を見上げた。

「……シロウは中か?」

「はい。なんだか、けがをしているように聞こえました、もしかしたら」

「だろうな。アイツ、今まで長い間付き合ってきたが、山に入って無傷で戻ってきたのを俺は見たことがない」

「……」

「なんかしらに絡まれる。まぁ、体質なのか不運なのか知らんが、そういうものだろうな、今回も」

 と、そういいつつ、ダイスケさんは所長の車の後部部分、くっきり敗れた窓に目を補足して、顔をひきつらせた。

「しかし、今回は特別らしいな」

「最近の車の窓ガラス素手で割ったんですかね、田中さん」

「だろうな」

「ターミネーターかな?」

「似たようなものだろう」

 赤いレインコートの女が走り去っていた方向を見つつ、ダイスケさんは肩をすくめると、踵を返して、山道へとつま先を向けた。

「じゃあ、シロウを回収しに行く。ヒジリ、お前はカオル君を匿っておけ」

「了解」

「ま、待ってくださいダイスケさん。もしかしたらまだ別のアイツがッ」

「そりゃない」

 僕の物言いに、彼は背中を向けたまま、肩越しに手を振って、否定の表示をぽかんとした僕に見せた。

「どうして、です?」

「残りが二人だから、だよ。カオル君……」

 と、茂みの奥から聞こえてくるかすれた声。

 僕はハッとなって顔を上げると、勢いよく飛び出すダイスケさんの背中の向こう、山道に立つ人影に目を見開いた。

 ボロボロになった服。帽子は脱げてなくなり、髪に身体にと大量に落ち葉がくっついていた。

 ダラダラと額からあふれ出す血が、ワイシャツを濡らし、腕が力なくだらりと垂れていた。こぼれる苦笑いは僕を見ていて、ダイスケさんに肩を担がれながら、彼は苦笑いを浮かべる。

「……失敗したよ」

「ったく。ぼろぼろじゃないか。肩は大丈夫か?」

「痛みがひどいけどね、というか全身がね」

「一部罅が入っているかもな。病院に行くぞ、保険証は持ってきているんだろうな」

「全部カオル君に持たせてあるよ……」

「上出来だ、このバカタレが」

 恨み節もわずかににじまてダイスケさんは自家用車の後部座席に突っ込むと、自身は運転席に潜り込んだ。

「行くぞ、ヒジリ。ここから近場の病院は?」

「大きい病院ですか?」

「たりまえだ急患だぞ。嫌がるようならこじ開けてやるよ」

「それ職権乱用」

 そう言って助手席に座りながら、ヒジリさんは手元のスマホを軽やかに操作し、僕はうずくまる所長の隣に座り込んだ。彼はうずくまったまま、力なく血流れる頭を押さえていて、僕はヒジリさんに叫んだ。

「ひ、ヒジリさんッ、せめてなんかばんそうこうとかはッ」

「トランクだよ。ちょっと待ってね、この方向音痴のためにカーナビセットしたら交代するから」

「誰が方向音痴だ」

「アンタですよダイスケさん。ここに来るのに意外に迷ったの、僕は見逃しませんでしたからね」

「田舎道はよくわからん」

「だからって文字通り田んぼを突っ切ろうとするのはいけない、これオフロード仕様でもないんでしょ? どんな力技ですか、今時のドラマでも見ない突拍子のなさですよ」

「インフラの進まない日本が悪い」

「はいはい―――――できましたよ」

「代わってやれ。すぐに出る」

 ヒジリさんはスッと車から出ると、僕は「助手席に座って、すぐに出るよ」と言われるままに助手席に座り、そしてシートベルトを締めた。

 そしてバックミラーでヒジリさんが座るのを見届けると、ダイスケさんはアクセルを踏み込み走り出す。

「耳ありますよねダイスケさん。ちゃんとカーナビのいうこと聞くんですよ」

「わかった」

「……。カオル君、頼みがあるんだけど、ダイスケおじさんのこと助けてあげてね」

 顔をひきつらせながら、ヒジリさんはトランクから救急箱を取り出しては、所長の頭の傷を消毒し始める。

 所長は相も変わらずぐったりしていて、うつむきながら、何かをつぶやいていた。

 僕はその声が聞こえず―――――いや、少しだけ何かをかすれた声でしゃべっているのが聞こえた。何をしゃべっているのか、僕は少しだけ耳を澄ませて見せた。

「古い熱と恐れと飢えが魂を狂気に捩らせた、か」

 所長は少し酷薄ぎみにほほ笑んでいた。

「……わかりましたよ、『歩美』さん。

 

 『彼女』は―――――で、できていたのですね。


 だから、せめて人らしく生きようとしたのですね」


 その手には、一冊のノートが握られていたように見えた。

 黒く、落ち葉と泥に汚れたそのノートを強く握りしめたまま、所長は遠くの田園風景を見つめていた。

「なのに……」

 まるでその向こうに、あの赤いレインコートの彼女が立っているのを見るかのように。



 




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