第8話

「……ここか」

 そこには、築20年といったところの一軒家が、住宅街の中にひっそりとたたずんでいた。

 門扉はぴったりと閉じ、郵便ポストには無数の郵便物がねじ込まれていて、家屋を囲む庭にはうっそうとした雑草が生えていた。

 二階の窓ガラスが割れ、屋根にガラス片が散らばり、窓辺にカーテンが静かにはためく。

 さびれた一軒の家。

『志野原』―――――表札に書かれていた名前であった。

 そこは志野原歩美の実家。

 私は、その家の前に立っていた。

「……」

「所長、人、いなくないですか?」

「……聞き込みを始めよう」

 ―――――いやな予感は、おそらく的中したと思う。

 私はこわばる表情を緩めようと、軽く頬を手でたたきつつ、周辺の民家のインターフォンを押し始めた。

 もちろん、基本的に私たちはよそ者なので、それほど周りの人たちも口は軽くはなかったと思う。

 だが、それ以上、あの家は確かに異常なのだろう。

 その異常性を語りたくて仕方がない、奥様方は『志野原』の言葉を出すだけで、容易にその口を開いて、話を始めた。

「ああ、あの家でしょ。一年ぐらい前かな、娘さんが家を出て行ってからなんだか雰囲気悪くなって、ついに最近顔を出さなくなったのよ」

「噂じゃ、娘さんは家で同然で出て行って、そのせいで家庭崩壊が起きたんですって」

「まぁ、あそこはもともと母子家庭で、手塩にかけた娘さんが逃げ出したんでしょ、そりゃあ奥さんもおかしくなりますよね」

「あら他はそんなことを?私が聞いた話だと弟さんがおかしくなって、母親を殺して出て行ったとも聞いたわよ」

「呪われているのよ、あの一家に関わるとみんなろくな目に合わないって噂よ」

「死んだのよ。みんな」

「噂じゃ旦那さんが庭に埋められて―――――」

「―――――え? ええそうよ。あの家は半年以上前から、空き家同然になっているわよ」

「だから、だれもあそこには近づかないわよ」

 ―――――疲れた。

 一通りの話を聞き終え、私たちは近くの公園で腰を落ち着かせると、メモ帳を取り出しては、ポケットから硬貨を、隣でひどくぐったりしているカオル君に差し出した。

「すまない、カオル君。コーヒー一本……」

「りょぉかい……」

 喋り好きの奥様方の猛攻にさすがにげんなりして、ふらふらと公園入口の自販機へと歩いていくカオル君を横目に、私はペンを手にメモ帳に筆を走らせる。

(弟さん、母親……そして父親)

 十年前、離婚をして、二人を引き取った母親は姉弟を一人で育て続けたという。

 姉弟は、地元でもそれほど噂の立たない程度に物静かな性格だったらしい。人当たりもよく、周りに支えられながら生活をしていたらしい。その時は二人とも笑顔でいっぱいだったそうだ。

 だが―――――

(ある日を境にあの一家は変わった、か……)

 それがなんなのか、周りはわからなかったという。

 ただその日を機に志野原歩美は、ひどく暗い人間になったらしい。よく学校を休み、あまり外に顔を見せなくなったという。

 何かがあった。何かがあって、彼女は家を出た。

 そして、それを機に今度は、家族が崩壊した。母親、弟共々音信不通となり、行方不明になったのだという。

 あの家は、だから誰もいない。

 ただ不気味な静けさだけが横たわるだけだ。

「……」

「所長、どうします?」

 戻ってきて、コーヒー勘を私に差し出すと、カオル君は私の隣に座って怪訝そうにのぞき込んだ。

 私は、一呼吸置き、グッと帽子を目深にかぶり直し、メモ帳を閉じた。

「―――――入る」

「ハイル?」

「家の中に入る」

「……住居不法侵入罪」

「だね。ダイスケに罰せられるよきっと」

 私はメモ帳をポケットにしまい込むと、立ち上がり、コーヒー缶のプルトップを引っ張り中身を口の中に流し込んだ。

 カオル君は少し怪訝そうに首をかしげる。

「そこまで何があるんですか?」

「カオル君。彼女はこの町で、何をしてきて、あの家族に何をされたと思う?」

 彼女は知ったんだと思う。自分が何が何ででてきていたか、自分の内側に何を孕んでいたか。

 それは、人の心を澱ませる、這い寄る狂気だろう」

 私は、ソレを見る必要がある。

 食人―――――人として食われた彼女が、何を見たのか、私は感じて、そして書き記す必要がある。

「カオル君。君はここにいるんだ。何か罰せられるとするなら、私一人でいいさ」

「―――――前回もそういって、僕一人にして、結構怖い目にあったんですけど」

「……」

「行きますよ。これは僕の所長に対する当てつけでもあるんですから」

「あっそ……」

 へそ曲がりもいいところである。

 ニィと笑って立ち上がる彼を横目に見つつ、私は空にコーヒー缶を公園のごみ箱に投げ捨てた。

「まぁ、警察を呼ばれたら呼ばれたで何とかなりますよ、きっと」

「まったく……」

 変なところで図太い彼に、ため息をつきつつ、私は『志野原』家へと足を運ぶ。

 と、再び門扉の前に来て、二点、先ほどと違う点があった。

「……」

 ―――――門扉が開いていた。

 キィと音を立てて、風に揺れる門扉。その向こうには、玄関へと続く小さな階段が続き、そして入口があった。

 二点目。

 玄関の扉が、開いていた。

 奥の土間が見えていた。

 薄暗い居内があらわになり、まるでその闇に吸い込まれそうだった。

「……」


 ギシリ、何かが歩く音が、『闇』の奥から聞こえてくる。


 視線を感じる。

 誰かがいる。

 だが、立ち止まれない。霞んだ影が横切ったように、光に照らされ舞い上がる埃をにらみながら、私は開いた門扉をくぐった。

 そして、入口に茫然と立つカオル君を横目に告げる。

「カオル君。ここから離れたところにいなさい」

「……所長。もしかしたら」

「行ってくる」

 帽子の頭を押さえ、私は門扉をくぐった。

 その瞬間、夏の始まりだというのに、まるで冷たい何かが背中を襲い、足の歩みを止めようとした。

 頭の中で何かが警鐘を鳴らす。ここへ入ってはいけないと。ぎりぎりと頭が何かで縛られているような感覚に襲われる。

 上等だ。

 呼吸を整え、再び一歩を踏み出し、階段を上り、私はその玄関をくぐり、土間に足を踏み込んだ。

 入口には深い暗闇が広がっていた。窓という窓が締め切られていた。

 雨戸のない窓はすべて割られていて、ベニヤ板が打ち付けられた。その板の表面には、うっすらと傷跡があった。

 それは―――――爪痕。

 何かが何度も何度も引っ掻いたような跡がベニヤ板に浮かび、血痕がいくつも周囲に飛び散っていた。

 それが、至る所に。

 いや、違う。床に、天井に、文字通り至る所に、爪痕が刻まれていた。

 それは、まるで暗闇の中に、大きな獣を飼っていたかのように。そんな印象が薄暗い闇の中に立つ私の脳裏に浮かんだ。

(……)

 カシャリ、割れたガラス片が床に散らばり、私はきしむ床を踏み分け、深まっていく暗闇の中を歩いていく。

 キィ……。

 蝶番のこすれる音。

 それとともに背後から差し込んでいた光が閉ざされていき、やがて玄関の扉が閉まる音が家屋の中に響き渡った。

 そして広がる、本格的な闇。

 私は小さく息を吐き出すと、ポケットからミニライトを取り出し、周囲を照らして歩く。

 リビング、キッチン、ダイニング。

 食器棚を見渡し、備え付けられている箸の本数を覗き込み、椅子の数を数える。

 数えきって、私は首を傾げた。

(―――――五つ?)

 椅子は五つ。

 皿は五枚。

 箸は五つ。

(……おかしい)

 家族構成は三人。10年前に離婚した旦那を含めても4人のはずだった。

 一人、多い。

 誰だ?

「……」

 頭の中に、無数の予想と想像が浮かび上がってくる。私はトントンと自分の頭を軽くたたき、吐き出される妄想を捨てると、一階を後にした。

 確証のない結論は、遠からず自分の命を縮める事態を招く。それなりにこの仕事をやってきて得た結論である。、はやる気持ちも、立ち上る恐怖も、背中を這う違和感も抑え、私はライトで足元を照らしつつ、二階へと上がった。

 そこは、廊下に並ぶように、左右に二つ。部屋が四つあった。

 右の二つの部屋は、壁を木の板を打ち付けられていた。このさえぎり方は、どちらかというと外側に出さないように打ち付けているように見えた。

 その打ち付けられた部屋の入り口の扉に『歩美の部屋』という表札が掲げられた。

 隣の部屋も同じ扉が木の板で打ち付けられて入れないようになっていて、『洋人』と書かれた表札が書かれていた。

 振り返って反対側の部屋には、何も書かれていない。

 ノブを回し、中をライトで照らせば、そこにはつつましやかな寝室があるばかりだった。

 おそらく母親の寝室だろう。私はドアを閉めると、次にその隣の部屋の扉へとライトを向けた。

 そこには、表札が釣り下がっていた。

 こう書かれていた。

『■■■■■■』

 爪痕が浮かび上がっていた。

 歯の跡があった。

 憎悪を込め、引っ掻いた跡がいくつも浮かび上がって、何かがその『名前』を食らっていた。

 若干のためらいを覚えながら、私はその部屋の扉を開ける。

 そして、はためくカーテン。

 光が差し込み、割れた窓から夏の風が吹き込む。

 そこは、広い部屋だった。

 そこには、何もなかった。

 家具も、机も、ベッドも―――――何もかもがなく、ただ伽藍洞な空間が広がるだけだった。

 散らばるガラス片。

 何かが通り過ぎた跡だけが克明に映った。

「……」

 五人―――――四つの部屋。名前のないこの部屋。

 何かが、いた。

 何が?


 ―――――ニィ


 背筋を走る悪寒。

 誰かが背中にいる―――――そんな圧迫感が急に背後からヌルリと這い寄ってくるのを感じ、私は後ろを振り返った。

 ガランと音を立てて崩れ落ちる木の板。

 そこには打ち付けられていたはずの木の板は外れ、床に転がっている様があった。

 キィと音を立てて開いていく『歩美』の扉がそこにはあった。

「……」

 と、突如暗闇の中から鳴り響く、着信音。

 自分の携帯だろうか、そう思いながらポケットをまさぐるが、バイブレーションは感じない。

 どこだろう、そう思いながら、耳を澄ましていると、音が聞こえてくるのは、目の前の閉ざされた部屋の奥から。

 私はその部屋のノブを強く握りしめると、ドアを潜り彼女の部屋の中に入った。

「……」

 ビリビリに破られたベッドマット。食いちぎったかのようにシーツは裂かれ、枕には大きな穴が浮かび上がっていた。

 蹴り飛ばされたのか、本棚は崩れ落ち、高校時代の教科書がいくつも床に転がっていた。

 勉強机には、まるで獣が爪を走らせたかのように、爪痕が走り、足をへし折られて斜めに崩れ落ちていた。

 カーテンは引き裂かれ、うっすらと血が飛び散っているのが見えた。

 窓は割られ、張られたベニヤ板に、血の跡がこびり付く。

 ここが、『志野原歩美』の部屋だった。

「……」

 着信音はやまない。

 どこにあるのかと、周囲を見渡していると、敗れたベッドマットの中、私はわずかに光る物を見た。

 それは携帯電話。

 遠い過去においてきたかのように古めかしいソレは、しかしながらまだ機能していて、私はその携帯電話を耳元に充てる。

 

『……見つけたぁ』


 ブツリ、途切れる声。

 私は、着信履歴を後で調べるべくその携帯電話をポケットにしまい込むと、再び部屋の周りをライトで照らした。

 と、斜めに傾いた机の下、何枚かの写真が散らばっていた。

 そこには、海を背景にした家族の写真だった。

 もう一枚は、どこかの校舎を背景にした、写真だった。

 最後の一枚は―――――真っ黒に油性ペンで塗られていて、見えなかった。

 最初の一枚には、家族が海をバックに楽しそうに映しだされていた。

 だけど、誰かがいたであろう部分には、真っ黒に油性ペンで黒く塗りたくられていて、誰かが見えなかった。

 もう一枚もそうだった。

 友達同士なのか、恋人同士なのかはわからない。夕焼け空の下、二人が写真に写されていて、そのうち左の人影は隠れていた。

 誰かが、この写真に写っていた。

(……歩美さん)

 私は、ポケットに写真をしまい込むと、立ち上がり、踵を返そうとした。

 と、足元にあたる本の感触。

 ふと床をライトで照らせば、そこにはノートが一冊だけ床にあった。

 授業用のノートだろうか。私は、少しだけ興味が湧き、ページをめくりライトで照らした。

 数式、英文と和文翻訳―――――他愛のない、普通の高校生のノートだった。

 だけど、そのノートの端に、何かが書かれていた。

『今日どうする?』

 別の端書には可愛らしい文字で何かが書かれていて、ライトで私はその部分を照らす。

『ゴメン、今日さわやかでバイトなんだ(>_<)』

『わかった迎えに行くよ。いつ終わる』

『9時。ありがとね!!』

 今時メールでのやり取り―――――いやSNSでのやり取りが主流なご時世に逆らい、これはおそらくノートの貸し借りをしながら、記載されたものなのだろう。

 これですら、すでに古風とすら思え、私はほほえましさと、悲しさが胸をよぎるのを感じた。

 生きていれば、もっと、楽しいことがあっただろうに。

 生きていれば―――――

(……)

 私は、さらにノートの端書の、おそらく恋人とのやり取りであろう、文章に目を通した。

 そして、ある日のやり取りに私は、目を止めた。

『私、大学東京に行くんだ』

『こっちじゃないの?』

『うん。あっちのほうがいっぱい仕事とかあって暮らしやすそうだし』

『でも危ない。ずっとこの町に住んでいたんだからこっちのほうが暮らしやすいよ』

『こっちのほうが危ないよ。きっと私この町にいたら、私殺される』

『なら俺も一緒に行くよ』

『ありがとう、大好きだよ浩二』

『俺も愛しているよ歩美』

 半ば交換日記のような形で使っていたのだろう。ふとノートの表紙を覗き込めば、そこには『志野原歩美』の名前が記載され、その下に『麦倉浩二』の名前が後から追加されていた。

 麦倉浩二。同じ大学。この町に住んでいた。

 特定はおそらく容易だろう―――――それよりも、気になったのが、彼女の書きぶりだった。

 彼女はこの時から、何かを知っていた。

 そして、その『危険』を避けるため、彼女はこの町を去ろうとした。

 それは―――――

「……」

 私はノートをその場に置くと、周囲に別のノートがないか、調べた。

 この手のことはノートにまとめるのが年頃の女性というものだろう―――――そんな期待を胸に抱きながら、探すこと一分。

 暗闇に細い光を当て、ようやく一冊のノートを探し当てた。

 表紙には何も書かれていなかった。

 だが、その中には、彼女の『声』が書かれていた。

『死にたくない』

『怖い。何かが、毎日、何かが私の周りで、私の中でうごめいているのがわかる。黒い何か 爪で引っ掻く音、地面を掘る音、肉をくちゃくちゃと食べる音が毎晩聞こえてくる。誰かが私の周りにいる。

 窓を締めれば、窓に手の跡がいくつも浮かぶ。窓を板で打ち付ければカリカリと二階の窓を何かがこする音が聞こえる。何かが私を引きずり出そうとしている。誰かが私を殺そうとしている。夜が怖い、夜が怖い夜が怖い怖いの』

 文字が震えていた。

 恐怖が伝わってくる。

『家族は何も知らない。どれだけ声を大きくして叫ぼうと、母さんは笑っているだけ、洋人は笑っているだけ。じっとこちらに目を見開いて笑っている。何も言わず、何も反論せずただ笑っているだけ。ねぇ母さん、母さんの口の中には何が入っているの、いつもいつもいつも何かをガムみたいに食べてるソレは何?洋人あなたは毎晩どうして家を出ていくの、夜中何を掘っているの、何を食べているの何があなたのおなかの中に入っているの?答えて、誰か答えて』

『私は      今日      何を    食べたの?』

『答えて答えてよ笑っていないで答えてよ私は何を食べたの私は今まで何を口に入れていたの笑っていないで笑わないでよ私は何を食べたの』

『     食べた     』

『わたしは     わたしは    わたしは     誰を    たべ    』

『助けてこうじ こうじこうじこうじこうじこうじこうじ助けて助けて助けて助けて助けて助けて助け助けて』

『誰か     誰か   』

 ノートはそのあとの部分は破り捨てられていた。

 私は静かにノートを床に置くと、踵を返した。

 何も言うつもりはなかった。彼女が吐露しようとしたすべて、吐き出そうとした狂気、心の黒い泥、おそらくそれが、彼女の『起源』なのだろう。

 そしてその底に『志野原歩美』が望む真実があるのだろう。

 彼女が殺したのが誰なのか。

 私は、次に隣の『洋人』の部屋へと足を運んだ。

 さすがにこちらは相も変わらず木の板を張り付けられていて、通れなさそうで私はライトを口にくわえながら、どうにかしようとその木の板に手をかけた。

(あ……)と考えている間に、ほんのわずかな衝撃でガラガラと眼前で崩れる木の板。

 どうやら最初から打ち付けが悪かったようで、扉を遮っていた木の板は一瞬で崩れ落ちてなくなってしまった。

 私はペンライトを持ち直すと、木の板を踏みつけ扉を開くことにした。

「さて、何が出てくるか―――――」


 ―――――ニィと笑う口元。


 闇に浮かぶ赤い生地。

 暗闇に剥く白い歯。

 姉と同じくらいの広さの部屋、奥のベッドに座り、そこには赤いレインコートの女性が胡坐をかいて座っていた。

 膝を抱えるその手には、赤く乾いた血がこびり付いていた。

 口元からは、鮮血がしたたり落ちた。

 赤く血走った眼が、フードの奥からこちらを見ていた。

 そこには『赤いレインコートの女』がいた。

「……初めまして。探偵さん」

「……志野原、洋人くんだね」

「自分の部屋に、本人がいる。何も珍しいことじゃないかな?」

 はためくカーテンの隙間からこぼれる陽光。

 部屋の雨戸は開いていて、突然の光まばゆさを覚えつつ、私はライトを切り、目元を手で覆いつつ、目の前の『女』に向き合った。

「……窓は開いていたのか」

「僕の家だよ。僕が知らないわけないじゃないか」

「……母親は、どこにいった」

「知らない」

「父親は、どこに行った」

「知らない」

「……なぜ、君は彼女を殺した」

 ―――――『彼女』は鋭い歯を剥き嗤った。

「詰まらないことを聞くんだね」

「……」

「君は、まだ『起源』を知らない。……僕と僕の姉は、このクソッタレな世界で何を見たと思う。

 彼女は逃げるべきじゃなかった。僕らと一緒に生きるべきだった」

 喋りながら、口元から唾液があふれだして、カチカチと歯が鳴る。

 血走った赤い目が、立ち尽くす私ととらえ『彼女』はゆっくりとベッドをきしませ立ち上がる。

「もっと聞きなよ。ここに殺人鬼がいるんだよ、もっともっともっとぉ」

「……」 

「どうやって殺したとか、どんな風に食べたとか、肉の感触とか味とか風味とか、焼いたときの香りとか喚いたとき声の色艶とか内臓を引きずり出される時のあいつの叫び声とか全部だよぉ」

「―――――君には、世界がどんな風に映るんだい?」

「……ひひひひひ」

『彼女』はその笑みを深める。

 そして、私を見て、舌なめずりをする。

 艶めかしく赤い唇はわずかに開き、ささやく声は小さく、その言葉に私は少しだけ目を見開いた。

「神への供物……僕は神のためにその口を開く。悲鳴は宴の音色、血は恵みとなり大地を潤す。全ては生きるために神の御許で生きるために」

「信仰。何を信じたんだい?」

「―――――嘘だよ」

 笑い声が漏れる。

「……ヒヒヒハハハハハハハッ」

 狂った笑い声が聞こえる。『彼女』はその場で踊りだし、そして私のもとへと近づいてくる。

 そして、私の首筋をそっとその細い指がなでていく。

「ヒヒハハハハハ……神は許された。神は導かれたぁ。全部嘘だ、そんなの嘘だ、誰もそんなの望んじゃいない。アハハハハ」

「……強い子だ。

 神の信仰だと謡って自らの行為を肯定しながら、他方で殺人鬼と自ら名乗り、社会正義への背徳を強く感じている。

 背反する二つの主義主張に挟まれ、君はかろうじて自我を保っているはずだ。

 洋人君、君はまだ狂いきっちゃいない。まだ戻れる。

 帰って来なさい」

「……ハハハ」

「その信仰を誰に刷り込まれたのかは知らない、だけど、君はまだ戻れるはずだ」

「……優しいね、お兄さん」

 スッと離れていく細い指。

 近づいてきていた顔を伏せると、レインコートを翻し、彼は静かに踵を返して、カーテンを開いて窓辺に足をかけた。

 そして、こちらに振り返り、長い黒髪を夏風になびかせ、私を見下ろす。

「―――――講義に遅れちゃう、そろそろ行かないと」

「……」

「私は志野原歩美。私はOO大学の学生、そしてあの人の恋人だもの」

「君は……」

「ではまた、会いましょう」

 か細い声を残し、彼は窓から飛び降りて、その場を去った。

 私は踵を返して、彼が飛び降りたであろう庭のほうへと向かわんと玄関を開いて、敷地内を半周した。

 そして、見たものは二つあった。

「……五人目、か」

 庭の隅、そこには小さな立て札が地面に刺さっていた。

『その命は人に、その魂は道を還りて神の下へ。ただ許したまえ

                           志野原 葛城』

 戸籍には載っていなかった名前。

 おそらく、死産なのだろう。その生まれながらに死んだ子供を、彼らなりに弔った跡がそこにあった。

 彼らなりの信心が為せるものなのだろう。

 もう一つは、大きなビニール袋。

 中を開いてみて、私は目を見開いた。

「……だろうね」

 おそらくこれが『その命は人に』という意味なのだろう。

 そこには、無数の人骨が砕かれて詰め込まれていた。

 どこから運んできたものなのかわからないが、中に入っている頭蓋骨の数からして人三人分の人骨があった。

 そのどれもが、きれいに肉をはぎ取り、骨の中を洗い、その表面を丁寧にたわしでこそぎ落とした形跡があった。

 故にその骨からは一切の匂いがしない。

 彼らは、人を食っていたのだ。

 その体に人の肉を取り込み、そしておそらくその常態的な行為を己の信仰としていたのだ。

「……」

 試しにあたりを掘ってみる。

 あたりだ。掘れば掘るほど、至る所から人骨の破片が顔を出した。

 彼は―――――いや、彼らは人を食べる、そんな習慣、いや宗教のような信仰に近しいものを持って、肉を食らっていたのだ。

 これは、えぐい。

 最初から知っていたならともかく、年を経てこの事実を突きつけられると、おそらく心の均衡が保てないかもしれない。

 自分の口にしていたものが、非日常のものだと知らされたとき、志野原歩美は、この地を離れることを決めたのだろう。

 彼女の部屋が荒れていたのはおそらく―――――

(だけど、なぜ彼女が殺されたのか、まだ得心がいかない)

 いや、正確には予想はついているが、納得のいく証拠が見つかっていない、私は踵を返すと、彼の、洋人君の部屋へ戻った。

 そこにはもう人影はなく、代わりに整頓された部屋の中には本棚がたくさんあった。

 漫画や、勉強用の参考書―――――普通の高校生が持っているものとそう変わらないものがいくつもあり、ただ、それだけに妙だった。

 それは、違和感―――――否、既視感。

(なるほど……)

 まったく、一緒なのだ。

 隣に住む姉、志野原歩美、それ本人が持っていた書籍の内容が。

 彼女の部屋に散乱している本の内容と、どれもこれも違いがなく、本の冊数、内容、中身は見ていないが、おそらく第何版というところまで一緒だろう。

 すべて、同じものを買い、同じものを見ていた。

 同じ内装にし、同じ姿になり、同じものになろうとしていた。

 彼は―――――『彼女』になろうとしていた。

「……」

 最後に私は、机の上に開いたままになっていたノートの一ページを覗き込み、小さくため息をついた。

 そこには『あること』が書かれていた。

『麦倉浩二

 住所 東京都F市S町2-1-2

 電話番号 090-OOOO-OOOO      こいつが』

 文字からにじみ出る『憎悪』

 それはおそらく嫉妬に近い感情―――――おそらく、姉、そしてその恋人両方に対しての感情であろう。

 となれば、彼が『志野原歩美』である理由もなんとなく合点がいく。

 そして、志野原歩美が殺された理由も。

(もしかしたら、今麦倉浩二の隣にいるのは……)

 と、ポケットの中から鳴り響く電話。

 私はすぐさま携帯を耳元に押し当てると、聞こえてくる低い声に少しだけ安堵をした。

『無事か?』

「ああ。どうしたんだい?」

『トラックの位置が割り出せた。どうやら、お前が今いる場所の近くまで来てから、トラックを乗り捨てたことまでは把握した。

 乗り捨てた先からの動向はつかめていない。おそらくだが』

「場所は?」

『毛無山の麓だな。ただし観光となってる山道の入口とは全く別の場所だがな。後でメールで連絡する』

「ありがとう、明日にでも指定の場所に行くよ」

『気をつけろよ』

「―――――もし、応援に来てくれたら、僕はうれしいかな」

『忙しいと言っているだろう、事務仕事も片付かんのだ』

「わかっているよ。代わりに少しだけお願いしたいんだけど、いいかな?」

『なんだ?』

「暇な時でいいよ、麦倉浩二君の動向を探ってほしいんだ」

『……志野原歩美の恋人か?』

「今もそうならね。後で住所と電話番号を送っておくよ。おそらく彼は今OO大学に通っているらしい。余裕があるならそっちも調べてほしい」

『仕事を増やすなと……まぁいい。やれるだけやるよ』

「すまない」

 私は最後にそう言って電話を切ると、家を出た。

 そして、家の塀の隅で比較的ビクビクしているカオル君を見つけると、私は安堵にため息を漏らした。

「大丈夫だったかな?」

「は、はい……。でも帰ってこないからすごい心配しましたよ」

「ありがとう。宿を取ろう。明日車を借りて毛無山に向かう」

「了解です……何かわかったんですね」

「何も」

「……あそっすか」

「何もわからないから調べに行くんじゃないか」

「了解です」と言って私と一緒に歩き始める彼に、私はふと思いついたことがあったので、彼を指さした。

「そうだ、カオル君一つ頼まれてくれないかな?」

「なんです?」

「沖縄行きの空港チケット。今週とれるかどうか調べておいてくれたまえ」

「沖縄まで行くんですか?」

「これが終わればバカンス代わりに、そうでなければ『彼女』を探しに」

 ―――――時間が迫っている。

 心の均衡が傾き彼の自我が保てなくなれば、こちらを、そして周りの人間を際限なく壊し始めるだろう。

 そして、その結果を『志野原歩美』は望まないだろう。

 少し早計かもしれないが、ダイスケの方に麦倉浩二を守ってもらうことにしよう。おそらく次、洋人君が人を襲うとしたら、その対象は凡そ彼を優先するだろうから。

 私は、あの部屋で六か月何が起きたのか、もう一度探る。そのためにトラックを追いかけよう。

 そこに、真実はあるかもしれない。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る