第12話
あの夜のことを、忘れたことなんてなかった。
「私、音楽やめようと思うんだ」
準備してきたであろうそのセリフを口にしてしまった先輩の横顔を見ないようにしながら、「何で」とぶっきらぼうに尋ねた。終電間際のバス停にはイライラと順番を待つ人であふれていた。背負ったギターがずっしりと重く肩にのしかかる。テールランプに照らされて鈍く光るエフェクターケースを見つめた。
「この2年間、楽しかったよ。クミと一緒に居れてさ」
この人。勝手に終わらせる気なんだ。私を置いて、一人だけ。
それが前かも分からないところへ、進んで行くつもりなんだ。
突き放されるようなその物言いに、反射的に感じたのは「身勝手すぎる」という怒りだった。
今まで一緒に過ごしてきた時間はなんだったのか。波のようにあふれる感情がせき止められなくて、先輩の声が耳に入らない。
「音楽やめてどうするんですか。先輩の取り柄なんて、音楽くらいしかないのに」
「塾の先生になろうって思ってるよ、折角教員免許も持ってたし。私も晴れて、スーツ姿のサラリーマンの仲間入りだよ」
「何なんですか、それ。あっさり諦められるんですか。一緒に頑張ってきたのに。いつか大きい舞台に立とうねって約束したのに。先輩にとっては、そんな軽い気持ちだったんですか、ふざけないでください」
「ふざけてないよ。ずっとそうするべきだと思ってた」
しんとした表情で、先輩は私に向き直った。毎日のように顔を合わせていたはずなのに、きちんと話すのは大分久しぶりのことのような気がした。
だけど何も言葉がなくたって、先輩の目を見れば分かる。先輩が本気でバンドを解散したがっているということに、悲しいくらいすぐに気づいてしまう。先輩のことをずっと見ていたから。
言いたいことは沢山あるのに、どの感情を言葉にするのが正解なのか分からない。私には分からないことが多すぎる。先輩がいなかったら、私は思いきり息を吸うことさえできないのだから。口内がからからに渇く。剥けかけたくちびるが痛い。
先輩を失いたくなかった。
失ってしまえば永遠に、手に入らないことが分かっていたから。
「嫌です。絶対、嫌です。私、そんなの認めませんから」
「ごめんね」
「先輩なしで、どうすればいいんですか。私、先輩がいないとダメなんです。どこにも行かないでください、ずっと私のそばに居てください」
「ねえクミ」
先輩は私が知っている中で一番悲しそうな目をして私を見た。気づけば前に立っている中年の夫婦がバスに乗り込もうとしていた。大好きな彼女がどこかに行ってしまわないように、先輩のレザーのギターケースを握りしめる。柔らかくてすべすべの、馴染みの感触。どうしてもお揃いのものが買いたくて、大学一年生のときに京都にある楽器屋を何件もはしごした。先輩と同じものを持ったって、私は先輩にはなれないことを知っていたけれど。
混ざり合うくらい近づきたかったのだ。私をあなたの一番近くに置いて欲しかった。恋人という言葉に当て嵌めてもらえなくたって良かった。どうして先輩は、何かが壊れてしまうまでその大切さに気づこうとしないんだろう。
先輩の胸にしがみついて、泣いた。石鹸に似た柔軟剤の匂いがなつかしくて、また泣けてきた。数十分経ってやっと顔を上げると、先輩は驚くほど冷たい目で私を見下ろしてこう言った。
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