第11話


 アカリに先輩のことを初めて話したのは、酔った勢いと言ってもいい。


 居酒屋のバイトが深夜までつづいた帰りだったから、明け方と言ってもいいくらいの時間だった。音を立てないように慎重に靴を揃えていると、部屋から漏れる光に気がついた。

 「おかえり。今日も遅かったね」そう言って笑うアカリの笑顔がまぶしくて、私は照れ隠しのようにコップに水をついだ。ふんふん、という鼻歌のメロディが身体に沁みていくように優しい。

 アルコールで荒れた喉に、冷たい水が落ちていく。店長に引き止められて、散々新作の梅酒をあおってきたところだった。頭がぼうっとして、顔が熱い。机の上に置いてある真新しい譜面に目を落とした。「新曲、つくってんの。」という声が遠くに聞こえる。

 酔っぱらうと感情の起伏が激しくなってしまうせいで、柔らかいギターのリフを眺めているだけで心がブランコみたいに不安定に揺れた。譜面の上のおたまじゃくしを追っていると突然、逆流してきた胃液が喉元にこみ上げてきて、舌の上に酸っぱい味が広がった。突き当たりにあるトイレに逃げ込む。

 アカリの驚いたような顔が一瞬目に入る。私は苦しさと情けなさの混じった涙を流しながら、嘔吐を繰り返した。


「クミはバカだね。こんなに飲んで、弱いくせにさ。」


 アカリはベッドに私を運ぶと、おでこに手をやった。「しかも、熱あるじゃん」と顔をしかめながら、冷蔵庫で冷やされていたグレープフルーツジュースの入ったコップを私に差し出した。

 小さい頃、こんな風にお母さんに甘やかされるのが好きだった。いつも厳しいお母さんは、私が風邪をひいたときだけ会社を休んでくれる。それが嬉しくて、仮病をつかったことすらあったっけ。おでこに当てられた、冷たい手の感触。オレンジ色の太陽に照らされる白い部屋の気だるさが忘れられない。


 先輩のことをアカリに話したくなったのはそのときだった。

 私の右手を両手で握るアカリのお母さんみたいな優しさについ、口が緩んだのだ。自分よりもずっと心の広いこの女の子なら、私と先輩の間に起こった出来事を受け止めてくれるかもしれないと思ったのかもしれない。


「私、東京に来る前、一緒にバンドを組んでいた人がいたの。」


 アカリは黙って私の話を聞いてくれた。いつもは茶々を入れないと気がすまないくせに。神妙な顔をしたアカリは私が話し終わるまでずっと、一言も口を挟んでくれなかった。


 先輩と出会ってからの日々。楽しくて幸せで、いつか終わってしまうことが信じられなくて、いつまでも続くように願ってしまう壊れやすい時間のこと。同じ舞台に立てる幸せと、一日が終わる瞬間の感傷。気づいて欲しくてたまらなかった感情のはなし。

 後からあふれて止まらないこれは、私が先輩にぶつけたかったものだ。気づいているくせに、絶対にこっちを見ようとしない先輩のことが苛立たしくてたまらなかった。石のように硬くて冷たい言葉をいくつも投げつけては、その他大勢の頭の悪い女の子みたいに何度も傷つけられる。


 先輩は弱い人だから。絶対に、私のことを好きにはならない。そのくせ寂しがりなところがあるから、自分を愛してくれる私を決して手放さなかった。

 だけどピンチになったら、同じ闇に引きずり込まれてしまう前に、繋いだ手を切り離して自分だけ助かろうとする。先輩はそういう人だ。ずるくて、都合が良くて、どこまでも私に優しくない人。好きになればズタズタに傷つけられて、骨の髄までしゃぶられる。そんな、無意味で悲しい恋だった。


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